琥珀色の戯言

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【読書感想】現代詩人探偵 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
とある地方都市で、「将来的に、詩を書いて生きていきたい人」が参加条件のSNSコミュニティ、『現代詩人卵の会』のオフ会が開かれた。互いの詩の合評を行い、現代詩について存分に語り合った九人の参加者は、別れ際に約束を交わした。「詩を書いて生きる志をもって、それぞれが創作に励み、十年後に詩人として再会しよう」と。しかし約束の日、集まったのは五人。ほぼ半数が自殺などの不審死を遂げていた。なぜ彼らは死ななければならなかったのか。細々と創作を続けながらも、詩を書いて生きていくことに疑問を抱き始めていた僕は、彼らの死にまつわる事情を探り始めるが…。生きることと詩作の両立に悩む孤独な探偵が、創作に取り憑かれた人々の生きた軌跡を辿り、見た光景とは?気鋭の著者が描く初のミステリ長編。


参考リンク:是非読んでほしい『現代詩人探偵』(紅玉いづき) - orangestarの雑記


このid:orangestarさんのエントリで興味を持って購入し、一気読み。
10年前に「現代詩人の卵の会」のオフ会で出会った9人のうち、ほぼ半数が亡くなっていたことを知り、「詩を書いて生きていくこと」に疑問を抱いていた主人公は、その「理由」探しをはじめるのです。


「なぜ詩人は死んでしまうのか」


そうか、今からだったら「10年前」でも、オフ会とかそんなに珍しくない時代なんだよな、物心ついた頃からネットがあった人たちも、本当に増えてきたよなあ、なんてことを思いつつ、「現代詩」という、世の中の「表現」のなかでも、もっとも万人受けしなさそうで、それで食べていけるとも思えないものに取りつかれた人々の「孤高の執念」みたいなものに引き込まれていったのです。


僕自身がまさに、もう10年以上も個人サイトとかブログとかを続けている、「お金にならないし、場合によっては自分の人生にダメージを与えるかもしれないものに取りつかれている人間」なんですよね。
今は、「ブログで稼ぐ」ことが当たり前の時代になっているけれど、21世紀はじめの個人サイトやブログは「お金にしよう」という目的で書いている人はほとんどいませんでした。
中には、スポンサーがついて稼いでいたサイトもあったようですが、それはもう、ごくひとにぎりのサイトだけの話でしたし、そのサイトも「書いていたらなんかすごい人気になって、広告載せてくれっていう会社が出てきてびっくり」みたいな感じだったんですよね。


この本の半分というか、3分の2くらいは「痛み」でできています。
「現代詩」を書くということ、それも、ナンパの手段とかじゃなくて、それを生涯続けていこうなんている人は、その時点で、すでに「病んでいる」のかもしれません。
そもそも、「谷川俊太郎」以外の現代詩人の名前が、ひとりでもすぐに思い浮かぶ人は、すごい。
ちょっと興味がある人で、三代目魚武濱田成夫さんが挙がるくらいでしょうか。
同じ「表現」や「創作」でも、小説とか今だったらブログとかなら、まだ「食える」可能性も非現実的なものではないけれど。


それでも、人は詩を書くし、書いたら、その現代詩という狭い世界のなかでも、評価されたい、読まれたい、という欲望を消すことはできない。
ときに、作品を完成させるために、自分の人生さえ投げ出そうとしてしまう。


僕はずっと個人サイト・ブログをみてきて、「危うさ」を感じてきました。
この人、こんなふうに知人の批判とか、別れたパートナーの悪口とか、書いても大丈夫なのだろうか?
どこかで、誰かが開示されている情報から類推して、「あいつが書いた」ことが致命的なデメリットをもたらすことはないのだろうか?
「当人から直接悪口を言われる」よりも、「知らん顔して、ネットに書かれる」ほうが、はるかに人間関係を修復不能なものにしてしまうことがあります。
書いた側は「面と向かって言えないから」のつもりでも、相手には、「陰口+公衆の面前で恥をかかせる」くらいの、強い不快感を与えることもあります。
「陰口」と「みんなの前での悪口」は本来矛盾しているのですが、ネットのおかげで、「両立」してしまうようになったのです。
世の中には、そういうのをみつけて、相手に「御注進」する人だっているのです。


それでも、彼らは、あるいは僕も、書かずにはいられない。
書いているうちに、人生をネタにしているのか、ネタのために人生を差し出しているのか、わからなくなってしまう。


「詩」を書いているつもりが、いつのまにか「人生を詩にしようとしてしまった」。
取りつかれた人間のひとりとして思うと、そうやって命を落とした人が、やけに美しくみえてしまうこともあるのです。
この小説のなかでは、「それでも生きる」ということも書かれていますが、こう自分に言い聞かせなければならないのは、「死」すらネタにせずにはいられない「暴走する表現欲」を飼いならすことの難しさみたいなものを感じて、なんだか悲しくなってもくるのです。


正直なところ、ミステリとして、謎解きとしては、そんなに完成度が高くはありません。
でも、同じように「人生で、もっとも崇高にみえて、にもかかわらずまったく役に立たないものにとらわれてしまった人間」としては、最後まで読み遂げずにはいられませんでした。
「表現すること」に興味がない人には、「なんだこの終始ジメジメした、主人公の言い訳ばっかり読まされるミステリは……」って感じなのかもしれないけれど。


現代の「創作」って、いったい何なのだろう?ということを、僕は読みながら考えていました。
恩田陸さんが、インタビューで、「今の世の中にある小説は、過去の流れを汲んで成立しているものばかりで、本当の『オリジナル』なんて存在しないと私は思っている」というようなことを仰っていました。
こうして本の感想を書いていて、僕はかなり引用が多いことを自覚していますし、申し訳ないとも思っています。
ああ、もし僕が小泉今日子さんだったら、「愛読書です!」って言うだけで、この本がバカスカ売れるだろうに、とか、柴咲コウさんだったら、「泣きながら一気に読みました」だけで通じるのに!
結局、自分に自信がないから、こういう形式になるんだよなあ。
ある本に書いてあることのニュアンスをうまく伝えるためには、引用がいちばん伝わりやすいし、内容を正しく伝えるためには、どうしても長くなってしまう。
それが「書評」だというのは、おこがましいのだけれど(だから「感想」なのです)。
でもまあ、こういうのって、「こちら側の事情」でしかなくて、あれこれ言い訳すべきではないでしょう。


ただ、現在のコンピュータ社会、ネット社会では、ある創作物が「コピー&ペースト」されて他の創作と組み合わされたり、「二次創作」という形になったりする流れは、もう止めることはできないだろう、という気がします。
多くの人は、なんのかんの言っても、「便利なほう」に向かっていくのです。
そんななかで、どうやって「自分らしさ」をアピールしていくのか。
現代美術とか、もう、作品そのものというより「文脈」や「解釈」の勝負って感じだし。


著者は、あとがきで、この作品について、こう仰っています。

 この物語を書いている間中、つらくて苦しい、と思い続けました。なんで書いているんだろう、こんな小説は誰も幸せにしない、書いている私がこんなにつらいのに、と。


冗談じゃなく、「詩人って、お金にもならないし、(精神的に)人間がやるにはつらい仕事だから」と、「AI詩人」が代わりにやってくれる時代が、近い将来、やってくるかもしれません。
でもさ、すべての仕事を機械が肩代わりしてくれる時代、最後に人間が自分自身でやりたいことって、「ものすごく楽しいこと」か、「自分のつらさにシンクロしてくれるものを探すこと」しか無いのかも。


あんまりみんなに「ぜひ読んでみて」って薦められるような作品ではないのだけれど(デキが悪いというのではなくて、興味が持てない人には徹頭徹尾「ジメジメ小説」だし、興味を持てる人にとっては、読むとけっこう大ダメージを食らう率が高そうなので)、僕にはとても、沁みました。
「めんどくさいものを、きちんとめんどくさく」書いた小説だと思います。
そして、たしかにこれ、読み終えたあと、もう一度最初から読み返したくなりますね。


八本脚の蝶

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