琥珀色の戯言

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【読書感想】ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
チャリティ・ソングの金字塔が
アメリカン・ポップスの青春を終わらせた?


1985年に発表された〈ウィ・アー・ザ・ワールド〉は、全米のスターたちが飢餓救済のために集ったチャリティ・ソングの金字塔として名高い。しかし、もしこの曲がアメリカン・ポップスを「終わらせた」張本人だとしたら……。映画音楽に始まるポップスの歴史をやさしくひもときながら、奇跡の楽曲が生まれた背景、その後にもたらされた「呪い」の正体を検証する。
80’sの語り部・西寺郷太が放つ渾身の一冊!


[内容]
はじめに──1985年。アメリカン・ポップスの青春が、終わった。
第1章 アメリカン・ポップスとは何か
第2章 ディスコとMTVが、世界を混ぜた
第3章 〈ウィ・アー・ザ・ワールド〉徹底研究
第4章 華やかな夜の影で
第5章 〈ウィ・アー・ザ・ワールド〉の呪い
あとがき


 1985年か……僕はその頃、中学生でした。
 当時、同級生の家に遊びに行ったとき、大友克洋さんの『AKIRA』を読み、洋楽を聴かされて、「うわ、同級生なのに、大人なヤツだなあ……」と驚いたことを思い出します。
 カルチャー・クラブとか、「えっ?この人たち、なんでこんな格好しているの?」って感じだったものなあ。


 そんな僕でも、マイケル・ジャクソンは知っていましたし、学校の掃除の時間に、みんなで「ムーン・ウォークの真似」とかしていたものです。
 お前それ、単に後ずさりしているだけじゃん!とか言い合いながら。


 1985年に物心がついていて、『ウィ・アー・ザ・ワールド』という曲の記憶が無いという人は、日本にもほとんど居ないのではないかと思います。
 洋楽オンチだった僕も、あの印象的なサビのメロディは覚えていますし、今でも歌えます。
 この本を読みながら、どうしても聴きたくなって、以前ダウンロードしたものを何度も聴き返してしまいました。
 ほんと、名曲だよねえこれ。
 今聴いても、「あっ、これはあの人が歌っているな」ってわかる。
 すごいアーティストって、たったワンフレーズで、ここまで個性を出せるんだな、とあらためて思い知らされます。
 

 この新書、その『ウィ・アー・ザ・ワールド』が生まれた経緯と、そのレコーディングの夜に起こったこと、そして、その後世への影響について、思い入れたっぷりに語られているのです。
 

 1981年にはじまった、音楽専門チャンネル『MTV』は、それまで「音」中心だったミュージック・シーンを「プロモーション・ビデオ」で大きく変えることになったのです。
 ところが、このMTV、初期は利用者に白人富裕層の青少年が多かったため、その親世代の意向に配慮し、「黒人アーティストの排除」が行われていたのです。

 当初、「ロック」を流すケーブルテレビ・チャンネルと自らを喧伝したMTVは「白人アーティストのビデオ」以外は、ほぼ流さなかった(事実、開局以来1年半で約750本のビデオが放送されたが、黒人アーティストの作品は3%未満に過ぎなかった)。

 あのマイケル・ジャクソンも、MTVから、「ロック・ステーションだから」という理由で(それもなんだかよくわからない話なんですが)、当初はビデオの放送を拒否されていました。
 しかしながら、時代の流れには抗えず、マイケル・ジャクソンをはじめとする、黒人アーティストたちのビデオもMTVで「解禁」され、黒人アーティストが音楽シーンを席巻していきました。
 1985年というのは、白人アーティスト優位から、黒人アーティストたちへの「政権交代」の時期でもあったのです。
 『ウィ・アー・ザ・ワールド』について、僕は漠然と「ああ、すごいスターたちが集まって、チャリティーなんてすごいなあ」と感心するばかりだったのですが、この本を読むと、中心となったライオネル・リッチークインシー・ジョーンズ、そして、マイケル・ジャクソンらは、この曲において「人種間のバランスをとる」ことに最大限の配慮をしているんですね。
 そんな「背景」もあったのか……


 この『ウィ・アー・ザ・ワールド』の収録は、大スターたちが一度に集まるということで、かなり大変だったようです。
 その様子も紹介されています。

 前日27日、日曜日の夜にニューヨーク州シラキュースのキャリアー・ドームで「ボーン・イン・ザ・USA・ツアー」を敢行したばかりのブルース・スプリングスティーンが、はるばるロサンゼルスまでやってくる。
 労働者階級の英雄であるブルースは、なんと空港から自分でレンタカーを運転してスタジオに来ているのが興味深い。ボディ・ガードもマネージャーもなし。スタジオ向かいの駐車場に自分で車を停め、門から歩いて普通に入ってきた。ドーム球場での2デイズ公演を終えたばかりなのに! さすが、ブルース・スプリングスティーン。タフな庶民派イメージはそのままだ。

 「門から歩いて普通に入ってきた」というのが、ある意味「一番すごい!」という、スーパースターたちの集まり。


 著者は、後年、『ウィ・アー・ザ・ワールド』のレコーディングには45人が参加していたにもかかわらず(これは、ドキュメンタリー映像が残されています)、『ウィ・アー・ザ・ワールド』のアルバム・ジャケットには「43人」しか写っていないことに気付きます。
 写っていない「2人」は誰で、どんな理由があって、この企画の「象徴」ともいえる「集合写真」に参加しなかったのか?
 著者は、丹念に、その謎解きをしていくのです。
 チャリティとはいえ、それぞれの参加者にはプライドがあるし、譲れない部分もあった。
 『ウィ・アー・ザ・ワールド』がこれだけの成功をおさめたにもかかわらず、後年、同じ規模のプロジェクトが行われなかったのは、それだけ難しいことだったのでしょうね。
 『ウィ・アー・ザ・ワールド』以降、音楽のジャンルはどんどん細分化していったし、チャリティに参加することが「これまでのイメージを崩してしまう」ようなアーティストもいるし。

 

 (1985年)3月7日木曜日。レコード店に並んだ<ウィ・アー・ザ・ワールド>は、4月13日から4週続けて全米ナンバー・ワンを獲得。オーストラリア、フランス、アイルランド、イタリア、ニュージーランド、オランダ、ノルウェー、スイス、英国の各地でシングル・チャートを制覇する世界的なアンセム(讃歌)となる。
ビルボード・ナンバー1・ヒット(下)1971-1985』(フレッド・ブロイソン著、井上憲一ほか訳、音楽之友社)によると、5月16日に、ケン・クレイガンは即座に発売元のコロンビアから650万ドルの印税を受け取ったという。シングルは即座に730万枚以上のセールスを上げ、アルバムは440万枚。Tシャツやポスターなども含めると、全売り上げは4700万ドル(当時のレートで117億5000万円)にまで達した。
 ハリー・ベラフォンテを中心とする支援チームは、その莫大な資金を元にすぐにアフリカへと救援物資を届けに出掛けている。今すぐ食糧や衣料品を飢餓に苦しむ人々に、という彼らの想いは、舗装された道路もない、水も、もちろん冷蔵庫などない状況での支援の難しさに直面し、大きな壁にぶつかったという。


 このタイトルの「『ウィ・アー・ザ・ワールド』の呪い」についての答えは、興味を持たれた方は、ぜひ読んでみていただきたいのですが、まあなんというか、あまりにもこの曲が素晴らしかったために、その「反動」みたいなものも大きかったのかもしれませんね。
 その後、これを上回るチャリティ・ソングが出て来ないのも、この曲を超えることが難しいから、なのかな。


 『ウィ・アー・ザ・ワールド』に自分の若かりし頃の記憶を重ねてしまう人々には、オススメできる新書です。

 

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