琥珀色の戯言

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【読書感想】言ってはいけない 残酷すぎる真実 ☆☆☆


言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)

言ってはいけない 残酷すぎる真実 (新潮新書)


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
この社会にはきれいごとがあふれている。人間は平等で、努力は報われ、見た目は大した問題ではない―だが、それらは絵空事だ。進化論、遺伝学、脳科学の最新知見から、人気作家が明かす「残酷すぎる真実」。読者諸氏、口に出せない、この不愉快な現実を直視せよ。


うーむ、なんて身も蓋もない話だ……
と思いながら読みました。
著者は自ら「これは不愉快な本だ」と仰っていますが、読んでいて、正直「これ、誰が得するの?」とは思いました。


この著者の特徴である、ものすごく勉強して得た知識を羅列し、物量で読者を圧倒してみせる手法が炸裂しています。
そして、ここで紹介されている論文も、たしかに実在しており、一定の評価を得ているのでしょう。


一例として、著者は、「運動ができないことや音楽の才能がないことは『親ゆずり』ということでなんとなくみんな納得しているのに、勉強ができない、ということに関しては、なぜそれに遺伝的要因が大きいことが認められないのか?」と疑義を呈しています。

 もうおわかりのように、ここにも暗黙の強い社会的規範が働いている。逆上がりができなかったり、歌が下手だったりするのは、私たちの社会ではどうでもいいことだから、個性のひとつとして容認される。だが成績(知能)は子どもの将来や人格の評価に直結するから、努力によって向上しなければならないのだ。
 学校教育では、すべての子どもによい成績を獲得するようがんばることが強制されている。もしも知能が遺伝し「馬鹿な親から馬鹿な子どもが生まれる」のなら、努力は無駄になって「教育」が成立しなくなってしまう。だからこそ、自然科学の研究成果とは無関係に、「(負の)知能は遺伝しない」というイデオロギー(お話)が必要とされるのだ。
 一般知能はIQ(知能指数)によって数値化できるから、一卵性双生児と二卵性双生児を比較したり、養子に出された一卵性双生児を追跡することで、その遺伝率をかなり正確に計算できる。こうした学問を行動遺伝学というが、結論だけを先にいうならば、論理的推論能力の遺伝率は68%、一般知能(IQ)の遺伝率は77%だ。これは、知能のちがい(頭の良し悪し)の7〜8割は遺伝で説明できることを示している。
 どれほど努力しても逆上がりのできない子どもはいるし、訓練によって音痴が矯正できないこともある。それと同じように、どんなに頑張っても勉強できない子どももいる。だが現在の学校教育はそのような子どもの存在を認めないから、不登校や学級崩壊などの現象が多発するのは当たり前なのだ。

 いや、逆上がりができないと、やっぱりつらかったし、それが「個性」だなんて思われないのでは……
 と、運動音痴な僕は、自分の経験に沿って、考えてしまうのです。
 ただ、実感として「勉強に向いていない人」というのがいるのも確かではあるんですよね。
 それでも、「ある程度のレベル(日常生活で、おつりやワリカンの計算に不自由しないくらい)」まで持っていこうというのがいまの日本での教育なのだと思うし、現場としては「みんな東大・京大に行かせようとしている」わけでもないんじゃないかな……
 内容的には「差別につながったり、倫理的な禁忌にふれたりする」ということで一般的には採りあげられないような学術的な研究結果をセンセーショナルに提供している新書、なんですよ。
 

 でも、きれいごと=嘘、不愉快なこと=真実、というイメージは、それはそれで、危険だと思うのです。
「この治療法をみんながやると、医薬品業界が滅んでしまうから、バッシングされているんだ」
 こういう悪質でお金がかかる民間療法を信じてしまうことにもつながりかねません。


 「世の中の多くのことは、遺伝や生来の環境に依存していて、後天的な努力で変えられることは少ない」
 こういうのって、理念はさておき、実感としては、あるのだろうな、とは思うのです。


 ただ、読む側として考えておかなければならないのは、こういう論文というのは数多あって、著者がピックアップしているのは、そのなかの一部でしかない、ということなんですよね。


 以前、『人種とスポーツ』という新書を読みました。
参考リンク:【読書感想】人種とスポーツ(琥珀色の戯言)


 この新書のなかで、こんな話が出てきます。

 テキサス大学で長年「スポーツと人種」の授業を担当してきたジョン・ホバマン氏は、1990年代に身体能力神話に支えられた運動競技熱が、黒人コミュニティの若者を袋小路に追いつめてしまう弊害を説いています。


 では、その弊害とはいかなるものなのか。その一つは学業の不振である。ホバマンはこう語る。「多くの黒人は、出世するには運動選手になるしかないと、いとも簡単に思い込み、そうしたスポーツへの執着がもたらすもっとも破滅的で、もっとも知られていない結果の一つが、知的野心をきっぱり拒絶することなのである」


 スポーツの魔力を免れた稀少な黒人少年を待ち受けるものは何なのか。「いい成績をとるために勉強したり、時間を厳守したりするものは、『白人ぶってる』と見なされた。学業でがんばろうとする黒人生徒は、『頭でっかち』というラベルを貼られ、乱暴な黒人たちに疎外され、仲間外れにされ、暴力さえ振るわれたのである」

 「イメージ」の蔓延によって、黒人には「成功するには、アスリートになるしかない」というプレッシャーを感じるようになった人が多かったのです。
 こういう「遺伝の影響が大きい」という研究結果を踏まえて、現実でうまくやる方法を探っていくべきではないか、と著者は述べています。
 でも、それは、人間の「選別」を押し進める要因になるのでは、と僕は考えてしまうのです。


 残念ながら、僕は「こういう反証がありますよ」とこの場で提示できるほど、著者が述べているジャンルに詳しいわけではないのですが、これらの「身も蓋もない知見」というのは、「地球が太陽のまわりをまわっている」というほどの「定説」ではありません。
 「差別はいけない」ということで、科学的な事実が意図的に無視されている、とは言うけれど、前提条件として、文化的資本の蓄積、みたいな点についても、平等とは言いがたいところがあるのではなかろうか。

 それに、「全体としてのデータ」をみて、「個別の事例」を決めるのが正しいとは限らない。
 たとえば、ある種のがんに対しては、「がん検診で、死亡率は減らない」というデータもあるようです。
でも、個々の人に関していえば、「検診で早期発見されたおかげで、寿命がのびた」というケースもあるわけです。
 結局のところ、教育などに関していえば、それぞれの人が、それぞれのベストを尽くすしかない。
 向いていないことにばかり労力を傾けるのは、効率的とはいえないのだろうけど。


 「差別を是正する」というのは、大変難しい問題であることも、この新書のなかで紹介されています。

 奴隷制の”負の歴史”を抱えるアメリカでは、黒人等の少数民族(マイノリティ)に対するアファーマティブ・アクション積極的差別是正措置)が実施されている。黒人の学力が低いのは差別の歴史のせいなのだから、大学入学や就職において、差別を是正するよう黒人の特別枠を設けることは当然とされているのだ。
 こうした政策が妥当なのか、『ベルカーブ』の著者たちは、同じIQの白人と黒人を比較することでアファーマティブ・アクションを検討した。
 たとえば平均的アメリカ人(29歳)のうち、学士号取得者の割合は白人で27%、黒人で11%だ。これだけ見るとたしかに黒人に対する差別の影響のように思えるが、同じIQで比較すると、学士号を持つ割合が白人で50%の場合、黒人は68%と比率は逆転する(IQが同じであれば、白人よりも黒人のほうが学士号を取得しやすい)。
 同様に、平均的アメリカ人が高いIQを必要とする職業につく見込みは白人で5%、黒人で3%だが、これを同じIQで比較すると白人10%に対して黒人は26%になる(IQが同じであれば、黒人は白人の2倍以上、知的職業に従事できる)。また1989年時点の平均的アメリカ人の年収は、白人の約2万7000ドルに対し黒人が約2万ドルだが(黒人の収入は白人の4分の3)、IQ100の白人と黒人を比べればともに約2万5000ドルで経済格差は消失する。

 この新書には、その表も提示されていますし、参考文献も紹介されています。
 こういう状況は、「正しい」のだろうか?
 

 僕が10年くらい前に、アメリカの有名な病院に見学に行った際に驚いたことがありました。
 その名門病院では、各科の外来の担当医に、それぞれ人種による割り当てがあって、白人の医者はこれだけ、アフリカ系アメリカ人やアジア系はこの人数と、決められているというのです。
 でも、それだと、人種的な枠の問題で、能力が劣る人が才能されてしまうかもしれないわけで、「逆差別」じゃないのか?
 差別を解消しようとする試みによって、かえって「不公平」になってしまっているようにみえるのだけれど、アメリカという国は、そこまでやって「マイノリティへの差別」を生まないようにしているのです。
 正直、日本人であり、人種差別、みたいなものを実感できない僕にとっては、ものすごく違和感があったのだけれど(ちなみに、日本でも「男女雇用機会均等法」の成立後、さまざまな議論がありました)。


 ただ、この新書を読んでいると、「遺伝と環境」の影響というのは、必ずしも、わかりやすい形であらわれるものではないみたいです。

 小さな子どものいる親は、「子育ては子どもの人格形成にほとんど影響を与えない」というハリスの集団社会化論を受け入れ難いかもしれない。だが自分の子ども時代を振り返れば、親の説教より友だちとの約束のほうがずっと大事だったことを思い出すのではないだろうか。
 このことをわかりやすく示すために、ハリスは乳児期に離れ離れになった一卵性双生児の姉妹を例に挙げる。
 2人の遺伝子はまったく同じだが、成年になったとき、1人はプロのピアニストになり、もう1人は音符すら読めなかった。養母の1人は家でピアノ教室を開いている音楽教師で、もう一方の親は音楽とはまったく縁がなかった。
 当たり前の話だと思うだろう。
 ところが、子どもをピアニストに育てたのは音楽のことなどなにも知らない親で、音符すら読めないのはピアノ教師の娘だった。
 2人は一卵性双生児で、1人がプロのピアニストになったのだから、どちらもきわめて高い音楽的才能を親から受け継いでいたことは間違いない。家庭環境や子育てが子どもの将来を決めるのなら、なぜこんな奇妙なことが起きるのだろう。

 このあとの著者の説明を読むと、「なるほどなあ」という理由ではあるのです。
 こういう「一例報告」が全体を反映するわけではなく、「だから、音楽と縁のない親のほうが、子どもをピアニストに育てる可能性が高いのだ」ということでもないんですけどね。
 

 こういう話を知っておいたほうがプラスになるのか、知らずに「人間の潜在能力は、みな同じである」という原則を信じて突き進むべきなのか。
 個人的には、こういう話があることは、知っておいて損はしないと考えます。
 平和な時代に、こういうものに疑問を持つ余裕を持ちながら触れておかないと、混乱の時代に、ナチスが主張していた「優生学」みたいなものが出てきたとき、鵜呑みにしてしまうかもしれないから。


卒アル写真で将来はわかる 予知の心理学

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