読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】キリスト教と戦争 ☆☆☆☆


キリスト教と戦争 (中公新書)

キリスト教と戦争 (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)
世界最大の宗教、キリスト教の信者は、なぜ「愛と平和」を祈りつつ「戦争」ができるのか?殺人や暴力は禁止されているのではなかったか?本書では、聖書の記述や、アウグスティヌス、ルターなど著名な神学者たちの言葉を紹介しながら、キリスト教徒がどのように武力行使を正当化するのかについて見ていく。平和を祈る宗教と戦争との奇妙な関係は、人間が普遍的に抱える痛切な矛盾を私たちに突きつけるであろう。


 著者は、この新書の冒頭で、こう問いかけています。
「なぜ、キリスト教徒は、「愛」と「平和」を口にするのに、戦争をするのだろうか」


 キリスト教徒ではない僕にとっては、まさに「ツッコミどころ満載」ではあるんですよね。
 結婚の誓いで「病める時も、苦しき時も、助け合い」なんて言っているけど現実は……などと考えると、それは「教え」そのものの問題ではなくて、それを守れない人間の至らなさ、なのかもしれませんけど。


 著者は、この問いへの答えの例をいくつか挙げています。

 例えば、あるキリスト教入門書の著者は、「キリスト教徒がこれまで多くの戦争をしてきたのは事実ですが、それはその時のキリスト教徒の過ちであって、キリスト教そのものが好戦的なのではありません」と言う。
 また別の本の著者は、「私たちが信じているのは、戦争をしてきたキリスト教徒ではなく、愛を説くイエス・キリストなのです」「戦争を繰り返してきたこと自体、罪深い渡し私たちが神を必要とする何よりの証拠ではないでしょうか」などと答える。
 このような返答では、ほとんどの非キリスト教徒の方々は、納得できないだろう。

 いやまあ、それはそうですよね。
 というか、キリスト教徒というのは、そういう返答で、納得できているの?と疑問になるくらいです。


 著者は、キリスト教における「赦し」について、アメリカで起こったある事件を紹介しています。

 2006年の秋、アメリカの小さな村にある学校に、銃を持った男が押し入った。拳銃、ショットガン、ライフル、そして大量の弾丸を持った彼は、少女らを監禁し、五人を射殺、五人に重傷を負わせ、自らもその場で自殺した。
 静かな田舎町の学校で起きたこの惨事は、衝撃的な事件として報道された。しかし、事件そのものよりも、さらに人々を驚かせたものがある。それは、その被害者遺族や近隣住民たちの反応であった。殺された少女の家族らは、事件後すぐに「私たちは、犯人を赦します」と言ったからである。それだけでなく、彼らは自殺した犯人の家族たちをも気遣い、ともに悲しみと苦悩を分かち合って、金銭的な援助までしたのであった。
 このニュースは、アメリカのみならず世界各国に報道された。悲しみと怒りのなかにいるはずの被害者遺族たちが、犯人を赦し、犯人の家族をも思いやったこということは、キリスト教的な愛の実践として、国内外の多くの人々を感動させたのである。
 この事件が起きたのは、ペンシルバニア州のニッケルマインズという場所である。そこは「アーミッシュ」と呼ばれるプロテスタントキリスト教徒たちが住んでいる地域で、被害者を含め、近隣住民のほとんどはアーミッシュであった。


 僕がキリスト教徒ではなく、特定の信仰を持たない人間だから、なのかもしれませんが、これを読んで僕が感じたのは「なんともいえない、居心地の悪さ」でした。
 そんなことまでされて、大事な人を失っても、「赦す」のは「正しい」のかもしれない。
 でも、そんなことができる人間が「正気」だとも思えないのです。
 アーミッシュの人たちに対しては、失礼な言い方になってしまうのですが……


 キリスト教で説かれている「愛」を現実世界で究極的に実践すれば、たぶん、こういうことになると思うのです。
 しかし、実際にそういう光景を目の当たりにしてみると、心がざわめかずにはいられない僕のような人間も少なからずいたようです。

 ところが、こうしたアーミッシュの感動的な「赦し」に対しては、批判や疑問の声もないわけではなかったのである。
 あるコラムニストは、アーミッシュが悪に対し善によって報いようとした姿勢は、確かに感動的であったという。しかし、憎しみは常に悪いわけではないし、赦しが常に適切とも限らない、と論じた。彼は「われわれのなかに、子供が虐殺されたのに誰も怒らないような社会に本気で住みたいと思っている者が、どれだけいるだろうか」と問いかけたのである。

 ごもっとも!
 これはこれで、「では、どこまでが適切な憎しみや赦しなのか?」という問題も生じてきて、それはものすごくデリケートなものなんですけどね(というか、それが「普通の人」にとっての日々直面している問題なわけです)。


 結局のところ、宗教としての理想は理想として、現実世界で「字義通りの愛の実践」をやるのは難しいのです。
 著者は問いかけています。


「もし本当に何をされても『赦す』ような宗教があったとしたら、それが世界中に広まることが可能だと思いますか?」


 まあ、難しいですよねそれは。
 徹底した「不害」を説くジャイナ教が、世界で多くの信者を得られなかったように。


 この本のなかでは、「テロとの戦い」を容認したカトリックや、「農民たちを殺し尽くせ」と言い放ったマルティン=ルターのエピソードなど、古今の「神の名のもとに戦争を行ってきた人々のレトリック」の数々が紹介されています。
 でも、こうしてみると、「嘘つき!」というよりは、「人間が人間であるかぎり、戦争というのは、避けては通れないものなのかな」とも思えてくるのです。
 歴史のなかには、キリスト教の信仰に基づいて、たしかに、多くの人に無償の愛を注いだ人もいるわけで、マザー・テレサさんや、アウシュヴィッツのコルベ神父の名前が挙げられています。

 さて、カトリックプロテスタントを問わず、キリスト教徒はこれまでさまざまな形で戦争や暴力に加担してきた。戦争と平和に関する議論においては、しばしば、「キリスト教徒は言っていることと実際にやっていることが違うではないか」という批判がある。だが、その批判は必ずしも正当ではない。というのも、見てきたように、カトリックプロテスタントも、そもそも場合によっては暴力や武力行使をはっきりと是認することがあるのだから、キリスト教徒たちの言行は、おおよそのところではむしろ一致しているのだと開き直ってもよい。
 聖書に「右の頬を打たれたら左の頬をも向けよ」と書かれているから、キリスト教徒はみあ、せめて建前上は絶対平和主義であり非暴力主義者だろうと考えるのは、「宗教」に対しても「戦争」に対しても、認識が甘いのである。もちろんなかには、いかなる暴力をも拒否して平和主義を貫徹する人たちもいた。今でもいる。しかし、そうした彼らは、キリスト教全体のなかでは、あくまで少数派であり、珍しい連中に過ぎないというのが現実である。


 「聖書」というのは、表現が抽象的であるため、多様な解釈が可能であり、実際にそうされている、というのもあるんですよね。

 聖書にはっきりと「いかなる理由によっても戦争をしてはいけない」とか「暴力はどんな状況でも禁じる」などと書いてくれていれば、話はもっと簡単であった。ところが、聖書では、「敵を愛せ」などと、良くも悪くも常識とは異なる表現がなされているものだから、では、やむをえないかぎりの実力行使でもって悪人を善の道に導くならば、それは敵に対する「愛」の行為に相当するのではないか、とか、無条件の非暴力主義は時には悪を放置・黙認する無責任な姿勢であり、愛に反する態度でもありうるのではないか、などと、議論が錯綜するのである。
 聖書というのは、それぞれの人生や社会状況と重ね合わせて読まれる書物である。人や社会は、同じ教典を読んでいても、さまざまな人生経験を念頭に、またさまざまな平和を思い描きながら感じ、考え、行動する。キリスト教徒といえども、誰もが必ず「愛」と「暴力」は矛盾すると考えるわけではないのである。


 オウム真理教の信者たちは、「それが相手のためなのだ」と信じて「ポア」しようとしていました。
 率直なところ、本当にそんなこと信じていたのだろうか、と信仰を持たない僕は考え込んでしまうのですが、彼らは、それが「善行」であり、「相手のため」「人類のため」だと思っていたのでしょう。
 宗教絡みとなると、「自分たちの解釈では『善い』こと」が、世間一般の常識からすると、とんでもない悪事になることもあるのです。
 そもそも、宗教云々に関わらず、人は「人殺しをする」ために戦争をするわけではなくて、「自分たちが生きる場所を守るため」「世界を救うため」に戦争を行うのだよなあ。


 この新書のなかで、こんな話が紹介されています。

 戦争や争いにはさまざまな原因が考えられてきたが、その一方で、何らかの目標のために戦争をするという発想そのものを疑う研究者もいる。例えば、イスラエルの戦争研究者マーチン・ファン・クレフェルトは、『戦争の変遷』(原書房)のなかで、戦争が目的を達成するための一つの手段に過ぎないというのは正しくないとし、実際はその逆で、「人々はしばしば戦うために目標をつくりだす」という。
 クレフェルトの戦争論についてはあらためて詳細な検討が必要だが、この「人々はしばしば戦うために目標をつくりだす」という指摘は、宗教的な戦争やテロを考えるうえでも重要な視点だと思われる。彼の「戦争は宗教を継続する行為である」という議論も、一つの見方として興味深い。

 極論すれば、平和で豊かな時代には、宗教の「必要性」というのは薄れてくるのもまた事実なのかもしれません。
 しかしながら、物質的に豊かになっても、今度は「精神的に貧しくなった」というような思いが蔓延してきて、新しい宗教が流行ることもあるのですから、人間というのは、どんな状況でも「戦い」を止められない生き物であるような気もするのです。