琥珀色の戯言

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【読書感想】書く力 私たちはこうして文章を磨いた ☆☆☆☆

書く力 私たちはこうして文章を磨いた (朝日新書)

書く力 私たちはこうして文章を磨いた (朝日新書)


Kindle版もあります。

内容紹介
テレビや本で多くの人を引き込む解説をする池上さんと、読売新聞の1面に15年間コラム「編集手帳」を書き続けている名文家・竹内政明論説委員の文章術対談。誰が読んでもわかる、うなる文章の書き方を伝授する。自己紹介から企画書まで幅広く扱う。


池上彰さんと読売新聞のコラム『編集手帳』を書いておられる竹内政明さんの対談本。
テーマは「どうすればいい文章が書けるのか?」です。
竹内さんについて、池上さんは冒頭でこう仰っています。

 読売新聞の一面を下から読ませる男。私は竹内さんを密かにこう呼んでいます。一面の左下を定位置にするコラム「編集手帳」。この話はどこへ行くのだろうかと思わせる書き出し。そうか、そう来るかと思わず唸る展開。急転直下、余韻を残して終わる文章。コラムとは、こうあるべきだというお手本になっているのです。
 私はテレビに出ていますので、「テレビで話す人間」というイメージをお持ちの方もいらっしゃるでしょうが、そもそもはNHKの記者。原稿を書くのが本業です。どうすればいい文章が書けるのか、ひたすら試行錯誤を繰り返してきました。そこで出合ったのが「編集手帳」でした。
 どうすれば、こんな文章が書けるのか、お話を聞かせていただきたい。朝日新聞出版の編集者・二階堂さやかさんを通して対談をお願いしたところ、快く(おそらくは)お引き受けいただきました。かくして読売新聞記者と元NHK記者が、朝日新聞の関連会社から書籍を出すという異色の展開になりました。
 対談を始めるに当たっての二人の共通理解は、いわゆる「名文」を書くノウハウのようなものにはしたくないというものでした。


 文学作品とかエンターテインメントの書き方というよりは、コラムやエッセイなどの「そんなに長くない、他人に何かをわかりやすく伝えるための文章術」についての対談なんですよね、これ。
 もちろん、小説にも応用できそうではありますが。
 ブログを書いている人にも、すごく役立つと思います。


「何を書くか」ということについて。

竹内政明:読売新聞社では、「読売中高生新聞」というのを発行しているんですが、その中で月に一度、中高生に書いてもらった作文を私が二本選んで、添削しているんです。テーマとしては、政治や経済、社会問題といった硬派なものを取り上げたものが多いんですけど、私が「ああ、なるほど、面白いな」と感心するのは、その子が家族と交した会話や学校での出来事など、半径二、三メートルの世界について書いた部分がほとんどなんです。そして、身近な世界ほど魅力的に表現できるというのは、中学生や高校生に限った話ではないんですね。大人も同じだと思うんですよ。


池上彰読者は「自分の知らない話」を面白がるものですよね。実は、その書き手にとって「すごく身近な世界」というのは、新聞記事やテレビのニュースで報道されたりしませんから、読者にとっては「自分の知らない話」、つまり新鮮な情報になる。
 記者やジャーナリスト、もしくは何年も一つのことについて調べている研究者などであれば、「身近な話」でなくても、読者の知らないことを提供できるかもしれません。「読者の知らないこと」を探して、発信するのが仕事ですからね。でも、一般の人からすると、それは難しい。世間には、さまざまな分野の専門家や有識者による情報がすでに発信されています。そうしたものに匹敵するような稀少な情報や、みんなの目が覚めるような独創的なアイデアは、なかなか出せるものではない。その中で、「身の回りのこと」というのは、「自分にしか書けないもの」であって、それはかなりの高確率で魅力的な情報になり得る。だから、「書くべきテーマ」として、ヘタに格好つけた話を持ってくるよりも、身近な話を持ってくるというのは、かなり有効な手だと言えますよね。


 ブログを書いていると「みんなに共通の話題」のほうがウケが良いのではないか、と、ついつい、政治とか社会問題、芸能界について書いてしまいますよね。
 そのほうが、みんな興味を持ってくれるのではないか、って。
 でも、実際はそういう話題については、素人の感想ではなくて、もっと詳しい人が、もっと多くの情報や根拠にもとづく記事を書いていて、その中で「注目してもらう」のは難しい。「こいつ、わかってないな」って、バッシングされて目立つリスクのほうが高いくらいです。
 それに比べて、身のまわりで起こったこと、起こっていることというのは、その人だけのもので、競争相手がいません。そして、自分にとって「あたりまえのこと」も、ちょっと環境が違うと「そんなことがあるのか」って、興味を持たれる「ネタ」になるのです。
 ネットでは、「そんな日記は、チラシの裏に書いておけ!」っていう慣用句があるのですが、実は「チラシの裏に書くようなことこそ、価値がある」のです。

池上:話す内容や話し方の許容範囲は、聴衆によって決まります。内輪の支援者たちを相手に話す場合は、極論を言えば、何を言ってもいいわけです。でも、それが報道によって外部に漏れると問題になる。政治家であれば、「外に漏れる」ことも計算に入れて話さないとならないと言えばそれまでですが、日本の政治家が全員、本当にどこでもかしこでも、「誰に聞かれても問題にならない話」を「誰に聞かれても問題にならない話し方」でしかしないようになったら、これはこれで、つまらない世の中だと思いますね。
 例えば、話をするときに、男性ばかりの会場と、女性が多い会場では、話し方が変わってきます。ましてや子どもがいれば、大人ばかりの会場とはまったく違う話し方をする。
 例えば、「自分の立場しか考えずに、ものごとを捉えてはいけませんよ」という教訓話の例として、こんなものがあります。昔、NHKテレビで、専門家の先生が来て、健康について話すという番組がありました。その日は、産婦人科の先生が来て、子宮の病気について語っていた。聞き手の男性アナウンサーは、番組中、なるほどと相槌を打ちながら、何度も何度も「子宮の入り口が」「子宮の入り口が」と繰り返していたんですね。でも、その放送が終わったあとで、産婦人科の先生が、「ところで、あなたが入り口と言っていた場所は、女性からすると出口なんですよ」と。男の立場と女の立場では、入り口と出口が反対になる。その男性アナウンサーはそれに気がつかずに、全国放送で「入り口が」と連呼してしまったわけです。そのときの放送内容から考えれば、本当は「出口」と言うべきだったのに、それができなかったのは反省すべきである、と。そういう教訓話です。
 さて、この本で、この話をしてもよかったのかどうかは、きわどいところですが、どうなりますかな。


竹内:私のセリフは、「(困惑した様子で)なるほど」と書いておいてください(笑)。


 池上さんは「きわどいところ」だと仰っていますが、この本に収録されたということは、「セーフ」だったということなのでしょう。
 というか、これはすごく、身につまされるというか、ひとりの男としては「自分がこのアナウンサーの立場でも、同じように『入り口』と言い続けていたのではないか」と考えずにはいられません。


 いまのネット社会だと、「観客を意識する」とはいっても、クローズな場所で発言したことも、「あの人がこんなことを言っていた」と拡散されて、「失言」として大きな問題になることが少なくありません。
 昔だったら、「ラジオの深夜放送だから、まあよかろう」あるいは「オッサンしか読まない男性誌ではあたりまえ」みたいな内容が、多くの人の目や耳にふれてしまう。
 元がどんな状況で発せられた言葉だったとしても、それが公になってしまうと、聞いた側は「こんな発言をするなんて不快だ」と感じるのです。
 内輪の飲み会くらいならともかく、ある程度人が集まる場所では、「失言」のリスクは高いのです。
 失言とされている言葉も、「喋っている本人は内輪で話しているつもり」という状況で発せられたものが少なくありません。


 池上さんは「いい文章を書くためのトレーニング」のひとつとして、「名文を読むこと」にも意味がある、と仰っています。

池上:本当にうまい文章というのは、「技巧が凝らされている」ということを、読者に気づかれないんですよね。井上靖の文章も、こうして分析しながら読むと、さまざまな工夫が浮かび上がってきますが、一人の読者として読んでいくときには気がつかない。ただ、「あっ、なんだか読んでいて気持ちがいいな」と思うだけなんです。「いかにも名文を書いてみました」ということが主張されている美文調でゴテゴテと装飾を施した文章というのは、名文とは言えませんよね。
 ただ、率直に言って、この文章は、「一般の方が真似をするための参考資料」としては高度過ぎると思います。プロであっても、こういう文章はなかなか書けるものではありません。
 それでは、「いい文章が書けるようになりたい」という人は、こうした名文を読むことに意味がないのか、というと、そういうわけでもないんです。文章の執筆には、「書く力」だけではなくて、「読む力」もとても重要になってくる。プロであっても、アマチュアであっても、文章を書く人というのは、自分の文章を書きながら、同時に、自分の文章を読んでいるわけですからね。そのときに、「読む力」があれば、より綿密な推敲ができるようになる。だから、名文を読むことで、「この文章のどこがうまいのか」「どのような技巧が凝らされているのか」を考えてみるのは、大切なことだと思います。


竹内:文章を書く「いろは」があるとして、その「い」のところは「書く」ことではなくて、「自分が興味を持って読み続けられる良い文書を見つける」ことかもしれませんね。


 校正者がついてくれるわけではない素人の場合、ある程度「読む力」がないと、自分で書いたものを修正できない、どこに問題があるのかわからない、ということになりがちです。
 設計図なしで家を建てているようなもので、ひたすら「迷走」してしまうのです。


 多くの人に読んでもらうための文章を書く、というのは、気を遣うことも多いのだな、と考えさせられる対談です。
 その一方で、あまりにも「みんな」を意識しすぎると、どっちつかずというか、書いた人の顔が見えなくなってしまうところもあるのです。
 「ゼロから何かを書きたい」というのではなく、「とりあえずいろいろ書いてみてはいるのだけれど、なかなか読んでもらえず、壁にあたっているような気がする」というレベルの人に、いちばん響く本ではないかな、と思います。

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