琥珀色の戯言

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【読書感想】文学としてのドラゴンクエスト 日本とドラクエの30年史 ☆☆☆☆

内容紹介
2016年に誕生30周年を迎えた『ドラゴンクエスト』シリーズ。
ドラクエの作者・堀井雄二は「物語を体験する」ゲームを作り続けてきました。
あるいは、あなた自身が主人公になることが出来る
文学を描き続けてきたとも言えるでしょう。
その試みは、実は村上春樹や、ライトノベルといった
日本のすべてのポップカルチャーの進歩と密接な関係があるのです。
いま、ドラクエが切り開いた新しい文学の地平への冒険が始まります。


 『ドラゴンクエスト』と日本、そしてゲームプレイヤーの30年史。
 僕はオンラインの『ドラゴンクエスト10』を除く、すべてのナンバリングタイトルをリアルタイムでプレイしており、『6』『7』『9』以外はクリアしています。
 この本の冒頭の部分を読みながら、これは野心的かつ興味深い論考だなあ、と思っていたんですよ。

 ドラクエは、80年代前半から2010年代の現在まで全10作がリリースされ、そのいずれもが100万本以上の売れ行きを見せています。最大のヒットを飛ばしたものになると、400万本以上売れています。
 今の日本で、400万本も売れているコンテンツは、なかなかありません。もしあればゲームに限らず、本でも、音楽でも、映画でも大ヒットだと言われるだろうし、優れた内容を持ったものとして世間も注目するでしょう。
 しかしゲーム作品の場合、数百万本売れたからといって、小説や映画並みの話題にはされないのが普通です。もちろんヒット作としてニュースになったりはするかもしれませんが、その内容がどんなものであるのかまでは、あまり一般には解説されないし理解もされません。そもそもニュースを見て、「そんなに面白いなら自分も遊んでみよう」と思う人だって、ファミコンが大ブームだった昔ならいざ知らず、今は減っているのではないでしょうか。
 一方で、ゲームが大好きなゲームファンなら、ゲームのことをべらぼうに高く評価するはずです。しかしそういう人たちは愛情ゆえに絶賛してしまったりもするので、それはそれで多少の問題がある見方だと言えるかもしれません。たとえばゲームを、映画や小説なんかよりも優れていると語ってしまったりします。別に、優劣で論じなくたっていいと思うんですけどね。


 僕自身も「ゲームはエンターテインメントとして、文学や音楽より低くみられているのではないか」と長年思っていたんですよね。
 それでも、インベーダーゲームカセットビジョンの頃の「テレビゲームは不良がやるもの」「暗い遊び」というようなイメージは、過去のものとなりました。
 僕が中学生の頃は「テレビゲームはマニアックな男子がやるもの」だったのに。
 今は、ゲームが趣味なんていう若い女性も全然珍しくはないし、ある意味「たった30年で、ここまで文化として認知されてきた」と考えるべきなのかもしれません。
 先日の『2016 M-1グランプリ』で、ハライチがコンピュータRPGをネタにしていました。あれがゴールデンタイムの人気番組で通用する時代になったんですね。
 僕みたいに、子どもの頃からテレビゲームに親しんできた人間が、それなりの年齢になって、社会を運営する側になってきた、ということもあるのでしょう。


 著者も触れていますが、現在のライトノベル作品の設定をみると、『ドラゴンクエスト』をはじめとする「コンピュータRPG」は、若者たちの「基礎知識」になっているのです。

 
 そして、『ドラゴンクエスト』の特徴は「日本ではものすごく売れているのだけれど、海外ではそんなに盛り上がっていない」ことなんですよね。

 たとえば2009年発売の『ドラゴンクエスト10 天空の守り人』は日本国内で430万本以上売れています。しかしこれが世界市場になると、各国を合わせても105万本です。つまり、明らかに海外より日本で売れている。
 海外でもそれだけ売れていれば十分だと思うでしょうか? しかしたとえば、同じ2009年に発売された『ファイナルファンタジー8』(スクウェア・エニックス)は、日本で190万本以上、海外だと660万本以上を売り上げています。2006年発売の『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』(任天堂)は日本では60万本ですが、世界で880万本以上売れています。
 だいたいドラクエは、1990年に発売された『ドラゴンクエスト4 導かれし者たち』までは海外でも発売されましたが、その後は2000年発売の『ドラゴンクエスト7 エデンの戦士たち』まで、海外版が作られませんでした。もし海外でもヒットしているシリーズだったなら、そんなことありえませんよね。


 『ドラゴンクエスト』って、『ファイナルファンタジー』シリーズよりも「万人向け」だと僕は思っていたのですが、実は「日本人の琴線に触れる」ゲームみたいなのです。
 なんでこんなに海外では売れないのか、疑問ではあるのですが。


 著者は、この本のなかで、『ドラゴンクエスト』を『1』から『10』まで時系列に紹介し、それぞれのコンセプトと「堀井雄二さんは、何をそれぞれの作品で重んじたのか」を語っています。
 堀井さんの黎明期のなかで、僕にとっては懐かしい、エニックスのソフトウェアコンテストの話も出てきて、デビュー作となった(堀井さんは数学が得意だったそうで、最初は自身でプログラミングもしていたのです)『ラブマッチテニス』も紹介されています。
 堀井さんを語る上で、タイトルはいつも出てくるゲームなのですが、詳しい内容については、僕はこの本ではじめて知りました。

 しかし、今あらためてこの作品をプレイしてみると、いかにも堀井雄二らしいというか、後の「ドラクエ」につながるような部分を感じさせるところがあります。『ラブマッチテニス』はその名の通りテニスゲームなのですが、その特徴を簡単に言うと、当時にしてはやけに饒舌なゲームだということになると思います。


 『ラブマッチテニス』のキャラクター選択画面では、「easy/normal/hard」という「難易度選択」ではなくて、3人のキャラクターのセリフで、難易度を「示唆」しているのです。

 いちばん弱い「くみこ」は、「わたし まだへただから、あなたがラケットの えにあてても OKにしてあげるねっ」というセリフで紹介されています。
 たしかに、堀井さんらしいな、って。


 『ドラゴンクエスト5』のストーリーについて、著者はこう述べています。

 仮に、勇者である主人公の息子が主人公の物語であれば、その最終目的は「魔王を倒すこと」だったかもしれません。しかし「勇者の父親」である主人公には別の目的があり、別の物語があるのです。これは『ドラクエ4』が群像劇で描いたのと全く同じで、キャラクタ—の一人一人に思惑と背景があるということですね。『ドラクエ5』は、主人公自身を「魔王を倒す物語」の勇者ではない、いわばヒロイックファンタジーの主役ではない人物に据えることで、登場人物の一人一人に背景があり、人生があることを表現しようとしているわけです。


 指摘されてみると、「物語の根幹」の部分で、かなり冒険しているんですよね、『ドラゴンクエスト5』って。


 『ドラゴンクエスト6』と村上春樹さんの『ねじまき鳥クロニクル』の比較も興味深いものでした。

 違う言い方をすると、村上はそれまでと全く逆のこと(デタッチメントからコミットメントへ)をやろうとしながらも、結局はふたつの世界が存在するという、かつて『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でやったのと同じモチーフでそれを描こうとしたわけです。
 おそらく、『ドラクエ6』も同じなのではないでしょうか。同様にふたつの世界があるという物語でありながらも、フィクションの世界を現実と別の場所として分離することを選んだ『ドラクエ3』と違って、現実世界と精神世界という二項を立てつつ、それらが引き裂かれてしまっていることを問題に感じて、パズルのピースを埋めるようにしながら次第に一致していくことを目指した。それが『ドラクエ6』という物語であるように思えてなりません。


 さらに、著者は『ドラクエ6』と『7』の世界観の類似性も指摘しています。
 僕がシリーズのなかで「なんとなく遊びづらい」感じがして、クリアできなかった2作でもあり、なんだか腑に落ちた気がしたのです。


 正直なところタイトルの「文学」の定義がなかなか難しいこともあって、論考の「核」がいまひとつ摑みづらい感じはするのです。
 それでも、『ドラゴンクエスト』シリーズと30年一緒に生きてきた人間としては、とりあえずこういう評論が出てきて、そして、それを読めてよかった、と思いました。


文学の読み方 (星海社新書)

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