琥珀色の戯言

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【読書感想】唐牛伝 敗者の戦後漂流 ☆☆☆☆

唐牛伝 敗者の戦後漂流

唐牛伝 敗者の戦後漂流


Kindle版もあります。

唐牛伝?敗者の戦後漂流?

唐牛伝?敗者の戦後漂流?

内容(「BOOK」データベースより)
六〇年安保を闘った若者たちは、「祭り」が終わると社会に戻り、高度経済成長を享受した。だが、唐牛健太郎だけはヨットスクール経営、居酒屋店主、漁師と職を変え、日本中を漂流した。なぜ彼は、何者かになることを拒否したのか。ノンフィクション作家・佐野眞一が北は紋別、南は沖縄まで足を運び、一九八四年に物故した全学連元委員長の心奥を描く。


 ノンフィクション作家・佐野眞一さん、3年間のブランクを経ての久々の単行本。
 『週刊朝日』での橋下徹・元大阪市長の「ノンフィクション」に関して、大きな論議を巻き起こし、批判をされ、雌伏を余儀無くされた佐野さんが、復帰作の題材に選んだのは、60年安保を闘った全学連の元委員長・唐牛健太郎さんでした。

 安保闘争が最盛期を迎えた60年4月25日、ブント書記長の島は焦っていた。このまま推移すれば、安保条約は自然承認される。国民を味方につける行動に打って出なければならない。
 島の回想によれば(「文藝春秋」1984年5月号)、全学連幹部たちが新宿で酒を酌み交わしていたとき、唐牛は思い立ったように言い放ったという。
「もう決死隊しかない。俺がトップバッターになって装甲車を乗り越えて飛び込むから、その後、俺に続いて飛び込んでくれ」
 翌日の4月26日、国会前に行くと、警察の装甲車とトラックがぎっしりと埋め尽くしていた。どう考えてみても、この分厚い壁を突破できるはずがなかった。
 誰もがそう思った瞬間、唐牛が、車の上から一世一代のアジ演説をぶつことになる。
 このとき唐牛とともに装甲車にあがった篠原浩一郎は、その演説を昨日のことのように鮮明に覚えている。篠原はブントといわば兄弟関係にあった社学同社会主義学生同盟)の元委員長である。
「諸君! 自民党の背後には一握りの資本家がいるに過ぎない。しかし、我々の背後には安保改定に反対する数百万の学生、労働者がいる。
 装甲車の後ろには警官隊たちによって辛うじて埋められた真空があるだけである。恐れることは何もない。装甲車を乗り越えて国会に突入しよう!」
 その声に励まされるように、学生たちが警官隊の渦の中に次々とダイビングしていった。
 あまりの意表をつく行動に、さすがの警官隊員たちも算を乱して逃げ出した。

 石原裕次郎よりもカッコいい、などと言われ、装甲車に向かって颯爽と立ち向かっていく唐牛さんなのですが、学生運動後には「何者」にもなれず、暴力団の顔役の世話になったり、漁師になったり、居酒屋を経営したりしながら、47歳の長いとはいえない生涯をおくったそうです。
 いま40代半ばの僕にとっては、正直なところ、よく知らない人で、「何かポリシーがあったわけじゃなくて、争いごとになったら血がたぎる、というだけの人物だったのではないか」などと思ってしまうところもあるんですよね。
 この本のなかでは、唐牛さん以外の学生運動「ブント(共産主義者同盟・1958年に結成された日本の新左翼党派)」の闘士たちの「その後」も紹介されているのですが、その後も「革命」のためにテロリズムにはしってしまった人がいる一方で、多くは大学や企業で偉くなり、「あの頃の俺たちは熱かった!」みたいな人ばっかりだなあ、と感じてしまうのです。
 彼らと時代を共有していた佐野さんと、そうではない、彼らの子ども世代の僕とでは、大きな「温度差」がある。

 それにしても驚かされるのは、安保闘争を闘った男たちのその後の業績の目ざましさである。
 ブントの”頭脳”として知られた東大経済学部出身の青木昌彦は、その後、京大やスタンフォード大学の教授となり、その理論的業績はノーベル経済学賞に最も近い日本人といわれた。


(中略)


 西部邁(すすむ)は札幌南高校(旧制札幌一中)から一浪して進んだ東大の教養学部時代、ブントに加盟し全学連の中央執行委員もつとめた。その後、左翼運動と決別し、保守派の論客として名を成した。
 東大経済学部出身の柄谷行人は、ブントの活動家として活躍した後、日本を代表する高名な文芸評論家となった。
 東大医学部出身の島成郎は、ブントの書記長時代、北海道大学全学連委員長の唐牛健太郎を発見した。安保闘争後は、精神科の医師として沖縄に移住し地域医療の発展に寄与した。
 ブントには加わらなかったが、2012年3月、87歳で世を去った評論家の吉本隆明も、安保闘争時は全学連に積極的に同伴行動した。


 まさに「錚々たるメンバー」があの運動に参加していたのです。
 あなたたちは、革命だなんだと言いながら、学生時代の終わりとともに、「日常」に回帰し、普通の大人になってしまったじゃないか、と言いたくもなるのですよね。
 いや、ずっと革命を目指して戦いを続けられても、それはそれで困るのだけど。
 キツい部活動を振り返るような顔つきで、「あの時代」のことを懐かしまれても、なんだか、ねえ。
 僕は唐牛さんが暴力団関係者や右翼に「支援」してもらった、なんて話を聞いても「彼の懐の深さ」だなんて思えないし。


 ただ、当時を生きていた人たちの言葉を読むと、あの時代には、あの時代なりの「切実な思い」があったのだ、ということもわかります。

 60年安保を闘った全学連メンバーには、共通して戦前戦中体験があった。
 島博子は「60年は敗戦から15年。戦争はまだ過去形ではなかった。人々は政治が一歩誤れば、またエライことになるという危機感を抱いていた」と語っている(東京新聞こちら特報部」2010年6月16日)。
 それが、かつての敵国のアメリカの傘下に入るとは何事か。そんな素朴な感情が、全国民を巻き込んだ安保闘争の根底の原動力になっている。


 あの時代を生きていた人たちにとっての「アメリカとの安全保障条約」には、複雑な思いがあったのです。
 だって、15年前には戦争をしていた「敵国」だったのだから。
 今の時代を生きている僕には『ゴジラ』が核兵器の脅威を訴えている、というのが知識としては理解できても、感覚的にはわからないのと同じなのでしょう。
 

 このノンフィクションを読んでいると、唐牛健太郎という人は、ものすごい「人たらし」というか、魅力的な人だったんだなあ、というのが伝わってきます。
 その一方で、ずっと「庶子(本妻以外の女性の子ども)」であったことにコンプレックスを抱き続けていたのではないか、とも佐野さんは繰り返し述べておられます。
 ……うーん、僕は佐野さんのノンフィクションのドラマチックなところは好きなんですけど、人間の行動や考え方の源泉を、あまりにも「出自」で説明しようとしすぎているのではないか、とも感じるのです。
 孫正義さんの評伝もそうだったし、問題となった橋下徹さんのことにしても。
 それは、僕自身が、あまり「出自」にこだわらなくてもすんだから、なのかもしれないけれど。
 

 このノンフィクションの凄さは、唐牛健太郎という「全学連の大スター」の栄光の時代ではなく、むしろその「祭りのあと」彼がどう生きたのか、周囲の人は彼とどう接していたのか、を丹念に掬い上げているところにあると思います。

 安保後、唐牛が様々な職業を摸索していたことは、北大の親友で『追想集』に「タッシャでない」という文章を寄せた榊原勝昭(故人)の回想からもよくわかる。
 それによると唐牛は、四半世紀に亘って突然現れては「伊勢湾でくるまエビの養殖をやるから餌を探せ」「鹿島の石油基地で消防隊を組織するから、沖田総司なみに一番隊組長を努めろ」などと持ち掛けた。さらには、マグロのトローリング・ツアーの企画や、アルプスのスキーガイド学校への入学、津軽海峡のトンネル掘りまで脈絡なく、口にしていたという。
 榊原は<咄嗟に思い出せるだけでも縁日の夜店みたいな賑やかさ>と記しているが、この乱雑過ぎる好奇心のベクトルは、”山ッ気”や”気の多さ”だけでは済まないアブノーマルなまでの社会への甘えを感じさせる。それが酷過ぎる見方とすれば、唐牛は学生運動を離れて以来、冷静な精神状態だったことはほとんどなかったのではないか。
 突き放した言い方をすれば、唐牛が輝いたのは60年安保闘争当時のわずが1年足らずのことで、後は呑んだくれの人生を送った、いや、送らされた。


 唐牛健太郎という人は、もしかしたら、あまりにも「普通」になってしまった昔の仲間たちの贖罪を、「何者にもなれない人」として、ずっとひとりでやらされていたのではないか、という気もするし、単に「普通の日常生活に向かない人」だったのかな、とも思うのです。
 僕が考えても、答えが出るような話ではないのは、わかっているのだけれど。