琥珀色の戯言

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【読書感想】知の仕事術 ☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
混迷深まる現代を知的に生きていくためには、「情報」や「知識」だけではなく、さらに深い「思想」が必要だ。それをいかにして獲得し、更新していくか。自分の中に知的な見取り図を作るための、新聞や本との付き合いかた、アイディアや思考の整理法、環境の整えかたなどを指南する。小説だけでなく、時評や書評を執筆し、文学全集を個人編集する碩学が初めて公開する「知のノウハウ」。


 作家・翻訳家の池澤夏樹さんによる「情報、知識、思想」を極めるためのノウハウ本。
 僕は池澤さんのファンなので、かなり期待しつつ読み始めました。
 でも、率直なところ、ネットではなく紙の新聞を読むように、とか、リアル書店の利用法、とか、情報の整理のしかた、とか、肝心の「ノウハウ」については、どこかで読んだことがあるような話が多くて、あまり新鮮さはありませんでした。
 池澤さんは、この新書のなかでも、「いちばん最初にワープロで書いて受賞した芥川賞作家」と仰っていて、コンピュータにも造詣が深いし、Wikipediaなどのネットの情報に対しても、かなり肯定的なスタンスを取っておられます。


 1945年生まれの池澤さんは、僕の親世代としては、ものすごくバランスが良い人だと思うんですよ。
 ただ、この本に書かれている「知のノウハウ」についても、ものすごく誠実である一方で、あまり極端なものや個性的なものはありません。
 ダイエットの「王道」は、「適正な量の食事をバランスよく取ることと、適度な運動」であり、誰でもこれを実行できれば適正体重になれるはずなのだけれど、世の中には極端な方法の「ラクに痩せられるダイエット本」が溢れています。
 「絶対的な方法」がわかりきっているのに、次から次へと新しい方法が現れては消えていくのは、結局、みんな「ラクをする」というのを重視しているのだな、ということなんですよね。もちろん僕もそうなんですが。

 ものを知っている人間が、ものを知っているというだけでバカにされる。
 ある件について過去の事例を引き、思想的背景を述べ、論理的な判断の材料を人々に提供しようとすると(これこそが知識人の役割なのだが)、それに対して「偉そうな顔しやがって」という感情的な反発が返ってくる。
 彼らは教えてなどほしくない。そういうことはすべて面倒、ぐじゃぐじゃ昔のことのお勉強なんかしないで、この場ですぱっと思いつくままにことを決めようよ。いまの憲法、うざいじゃん、ないほうがいいよ。さっくり行こうぜ。
 こういう人たちの思いに乗ってことは決まってゆく。
 この本はそういう世の流れに対する反抗である。
 反・反知性主義の勧めであり、あなたを知識人という少数派の側へ導くものだ。


 いまは、たしかに昔ほど「ものを知っていること」で尊敬されないというか、かえって反発を受けがちな時代ではあるんですよね。
 「そんなこと、ネットで調べればいいじゃないか!」と言う人も多い。
 どんな知識人でも、自分の専門外ではWikipediaにはかなわない。
 ただ、こういう時代だからこそ、「正しい情報を選択する」技術がないと、間違った情報の洪水に流されて、取り返しのつかないことをしてしまう可能性もあるのです。
 

 池澤さんは作家・翻訳家・詩人であるのと同時に、文学全集の編集(以前は、辞書の編集にも)にも携わっておられます。
 そんな池澤さんは「いまの時代の教養」について、こんな話をされています。

 現在、人は大きな本棚を持たなくなった。全集を買いはしないし、豪華な装丁の本を並べてながめるということをしなくなった。その理由はどこにあるか。
 ストックという言葉を使ったついでにもう一つ経済学の用語を借りれば、教養自体がストックからフローに変わりつつあるのではないだろうか。今や知識は書庫や頭脳に蓄積されて使われる日を待つのではなく、より流動的になって人々の間を駆けめぐっている。標準的な教養のセットは解体されて、もっと大量の細分化された教養が流通している。
 この変化の原因はいくつも考えられるが、その第一は社会そのものが風通しがよくなって、人と情報の動きが活発になったことである。一例として、コピー機の普及を考えてみれば、これは一巻にまとめられた書物というものの権威を相対的に下げた。本当に欲しいのは、書物というハードウェアではなくて情報というソフトの方なのだと人々は気付いた。
 メディアの情報が増えたということもある。われわれは今、書物や新聞の他に、実にさまざまなメディアにかこまれている。新しいメディアはしなやかで、受け手の要求に応じて自在に変化する。全体として個人が受容しうる情報の量は何桁も増えた。日本から一歩も出ることなく、1920年代のニューオーリンズのジャズの展開を一週間単位で耳で追うというようなことが可能になった。


 これは本当にその通りで、ネットによって、多くの情報は「共有されるもの」になりました。
 ただ、人間が一生に使える時間というのは、ネット普及前後でそんなに大きく変化したわけではないので、あれこれとつまみ食いしているうちに人生終わってしまうのではないか、という不安もあるんですよね。
 というか、僕の場合は、もう終わりかけているのかもしれません。
 人類全体としての「知の総量」は圧倒的に増えていると思うのですが。

 明け方などに頭が冴えて、いいアイディアが浮かぶことがないわけではないが、最もアイディアが湧くのは、実は書いているときだ。書くというのはすなわち考えることで、時間をかけて少しずつ構築していくような大きなグランドデザインであっても、書きながら考えることがほとんどだ。
 例えば十年前、河出書房新社の編集部に「池澤さん、世界文学全集を作りましょう」と持ちかけられたとき、「無理ですよ」と言いながらも、ホメロスからずらずらと書きだしてみた。すると十九世紀に到達するまでにA4がいっぱいになっている。それを見て、十九世紀から前は捨てよう、二十世紀半ば以降をメインにしようと思いついた。自分でリストを一度作ったからこそ、ガラッとひっくり返すアイディアが出てきたわけだ。
 同様なことはたびたび起こる。
『日本文学全集』の『竹取物語 伊勢物語 堤中納言物語 土左日記 更級日記』の解説を書く際、メモで日本文学史年表を作りながら、わかりにくいなあと悩んでいた。そのうちに、西暦で始めるからいけないんだ、紀元前・紀元後のようにしたらいいのではないかと思いついた。日本の古典文学史において時間軸の起点になるのは『源氏物語』だろう。そうなったら作るのは簡単。やってみたら果たして、わかりやすかった。


 頭で考えるだけでなく、実際に手を動かしてみるとアイディアが浮かんでくることがある、というのは、僕もわかるような気がします。
 この世界文学全集というのも、紙に書いてみたことにより、古典文学の圧倒的な物量を実感できて、諦めることができたわけですし。


 冒頭にも書きましたが、物心ついたときから、インターネットが存在していた人にとっては、ちょっと「古い」のではないか、と思うんですよ。池澤さんより一世代下の僕でさえ、「正統派だけど、目新しくはない」と感じましたから。
 池澤ファンにとっては、さまざまな余談や事例を読むのは、すごく楽しいのですけどね。
 「知に対する姿勢」を考えたいのであればこの新書は有益ですが、周囲に「情報通」と思われたいのであれば、池上彰さんと佐藤優さんの本のほうが、「役に立つ」と思います。
 

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