琥珀色の戯言

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【読書感想】清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
PL学園時代の清原和博が甲子園で放った通算13本塁打は、今後破られることがない不滅の記録だろう。この13本は、ただの記録として残っているわけではない。甲子園の怪物に出会い、打たれた球児たちは、あの瞬間の“記憶”とともに、その後の歳月を歩んできた――。
今年6月、清原和博覚せい剤取締り法違反で有罪が確定した。甲子園歴史館からは清原和博の痕跡が消え、踏み入れてはいけない領域に手を染めてしまったヒーローの名前は世間の表舞台から消えていった。そんな中、甲子園で13本塁打を浴びたライバル全員が、30年以上の時を経て、あえて今、静かに口を開いた。これは、18歳の清原と49歳の清原への、打たれた者たちからの“30年越しの告白”である。13本のホームランが生んだ真実が、ここに蘇る。【甲子園の怪物に敗れた男たちの“30年越しの告白”】
「あの決勝戦までフォークが落ちなかったことはなかった。
今、思えば、打たれる運命だったとしか思えない」
(横浜商 投手 三浦将明)


「ケタが違いましたよね。打球の速さも、飛距離も。
あれだけのものを見せられたら……」
(砂川北 投手 辰橋英男)


『Number(ナンバー)908・909・910号』の特集「甲子園最強打者伝説。」の「清原和博・13本のホームラン物語」(文・鈴木忠平)を加筆して単行本化したものです。
この特集記事については、覚せい剤による逮捕、という衝撃的なニュースからまだ間もなかったこともあり(今でも、忘れてしまえるほど時間が経ったとは言いがたいのだけれど)、賛否両論だったのを思い出します。


この本では、清原さんが高校時代に甲子園で打った13本のホームランについて、「打たれた側」である対戦校のピッチャーや、そのチームメイトが振り返っているのです。
ピッチャーにとっては、打たれたことは、「悪夢」みたいなものだと思っていたのですが、清原選手に打たれたピッチャーたちのほとんどは、饒舌に、「そのときのこと」を語っています。
これを読んでいると、清原に完膚なきまでに打たれたピッチャーのほうが、むしろ、吹っ切れたように「あの清原にホームランを打たれたこと」を誇りにしてその後の人生を歩み、勝負できなかったピッチャーのほうが、ずっと引きずってしまっているようにもみえるんですよね。


打った清原がドラマをつくった陰に、打たれた投手にも、それまでの野球人生の積み重ねがあり、打たれたあとにも、「余生(あるいは第二の人生)」があった。
この本は、あくまでも「打たれた側」への取材で構成されており、打った清原のコメントは一切添えられていませんし、現在の清原を罰する姿勢も、擁護する言葉もありません。
ただ、同じ高校生だった対戦相手が、「PL学園の4番・清原和博」を、あのとき、甲子園でどうみていたのか、打たれた選手は、その後、どういう人生をおくってきたのかが淡々と綴られているのです。


読んでいると、あの頃の清原というのは「甲子園の神様」みたいなもので、対戦相手のその後の人生を呑み込み、変えてしまったのではないか、という気がしてきます。
多くの人々の期待を実現し、希望を抱いて立ち向かってくる者たちを完膚なきまでに、叩きのめす。
それが、あのときの清原和博だった。


ある選手は「その後の人生で、甲子園での『あの場面』について周囲から言われるたびに傷ついていた」と告白しています。
その一方で、他の選手は「あまりにも完璧に打たれてしまったがために、かえってすっきりした」と言っているのです。


1984年の夏にPL学園と対戦し、清原に1試合3本のホームランを打たれてしまった(スコアは1−14)愛知・享栄高校の稲葉投手は、先発投手と自分から、それぞれ1本ずつ、計2本のホームランを打っていた清原の5打席めの8回、あえて「ぶつける」ことまでしています。
この意地と歯がゆさからのやつあたりのような左脇腹への死球に対して、清原はどうしたのか?
先発し、めった打ちにされて降板した村田投手は、この死球のことを、こんなふうに振り返っています。

「稲葉は、僕があんなに打たれて、大観衆の前でみじめな姿をさらすのを初めて見たと思うんです。だから、ぶつけた。褒められたことではないかもしれません。でも、僕は、あいつの気持ちがうれしかった」
 そして、稲葉は今でも覚えている。PLの4番が2人の意地をどっしりと受け止め、黙って一塁に歩いてくれた様を。


 最終回にまわってきた6打席目、吹っ切れた稲葉投手は、清原に最後の真っ向勝負を挑みます。結果は、この日3本目になる、特大のホームラン。


「悔しくないんですか?」
 試合後、涙を流していない稲葉を見て、新聞記者が聞いてきた。1試合3本塁打という新記録を許した右腕はこう答えた。
「全く悔しくないです。彼のおかげで、僕らの名前が残るわけですから」
 その記者は不思議そうな顔をしていたという。村田と稲葉がともに戦った最後の試合、怪物は2人の意地を弾き返し、そして、受け止めてくれた。


 僕が子どもの頃、『がんばれ!タブチくん』という、いちいひさいちさんのアニメ映画のなかで、王選手がホームランの世界新記録をつくった756号を打たれた鈴木康二郎投手が、周囲から、「王選手に756号を打たれた鈴木さん」とずっと言われ続ける、というネタがありました。
 僕は笑いながらも、「これって、残酷なことだよなあ」とも感じていたのです。
 ただ、打たれた側にとっては、もちろん勝負師としての「悔しさ」はありつつも、伝説のヒーローに打たれて、歴史に名前が残ってしまったことは、自身の「存在証明」でもあるのかもしれません。その勝負から、時間が経てば、そして、彼自身が人生において「ヒーロー」になれなかった場合には、なおさら。
 彼自身がそれなりの所にたどり着けなければ、甲子園で清原と真剣勝負はできなかったわけですし。


 清原に打たれたことによって、野球をあきらめて新しい人生を摸索した投手がいる。
 清原にしか打たれていないというのが誇りとなり、「だから、他の連中には打たれるわけにはいかない」という強迫観念にとらわれて、苦しみ続けた選手がいる。
 清原と勝負するはずだった試合に投げることができず、ずっと、そのことを悔いている選手がいる。

 
 打席では神々しかった清原も、プライベートでは「普通の高校生」だったことを、多くの対戦相手が証言しています。

 甲西高校は偶然、PL学園と宿舎が同じだった。夕刻、金岡たちがロビーにいると、あの清原が言い出した。
「おい、今度は卓球で勝負しようや」
”卓球大会”が始まった。両校が打ち解ける中、1人、イヤホンをして、握ったボールを見つめている男がいた。桑田だった。
「ごめんな。メンタルトレーニングなんや。あいつのことは構わんでおいてくれ」
 清原が少し、申し訳なさそうに言った。
 金岡はむしろ、そっちに驚いた。
「僕にとっては桑田のあの姿がPLのイメージでした。みんなが常に野球のことを考えているんだろうなって。特に清原なんか天狗やろうなって(笑)。でも、清原こそ、普通の高校生だった。うれしかった」
 他愛もない話で笑い合った。現実味がないほどの特大ホームランより、少年のような笑顔が胸に強く残った。


 同じ高校生にとって、「PLの4番・清原」は「甲子園の神」であるのと同時に、ものすごく魅力的な「野球というスポーツをやっている仲間」でもあったのです。
 その一方で、こういう「付き合いの良さ」みたいなのが、その後の清原の人生を狂わせてしまったのかもしれない、という気もするんですよね。


 彼らが、今どん底にいる清原に「何かできることがあればしてやりたい」と言っているのを読んで、僕は感傷的にならずにはいられませんでした。
 高校球児としてスポットライトを浴びた彼らのなかには、その代償を払うかのように、その後の人生をうまく乗り切れていない者もいるのです。
 うまくいかなかったのは、清原だけじゃない。

 高校野球の聖地から清原和博の痕跡が消えていた。
 2016年7月、甲子園球場を訪れた。右翼スタンド後方には、第1回大会から100年を振り返ることのできる歴史館がある。だが、そこに歴代最多13本の本塁打を放った打者の記録はなかった。かつては飾ってあったユニフォームも、バットも、今はない。踏み入れてはいけない領域に、手を染めてしまったヒーローは、あれほど愛された甲子園からも抹消されていた。
 彼らに会ったのは、そんな時だった。
 今だからこそ、清原を語ってほしい。そう願いながらも、正直、記憶の扉を開けることは難しいと思っていた。
 だが、彼らはためらうことなく語った。世の中から「清原」という名前が消えていく中で、彼らの心には、驚くほどはっきりとその男がいた。投げたボールがバットに弾かれて、空の青に吸い込まれていく。そのわずか数秒間は、彼らの中で”永遠”になっていた。
 なぜ、清原のホームランは痛みにならないのか。
 なぜ、清原の記憶は消えないのか。
 取材は、その答えを探す旅だった。

 自分を打ち砕いたのが「甲子園の神様」だったことが、彼らの小さなプライドになっていた。
 ところが、その「神様」は、のちに、「堕ちた神」として、世間から大バッシングされる存在になってしまった。
「あの」清原に甲子園でホームランを打たれた、の「あの」のニュアンスが、清原の逮捕で、大きく変わってしまった。


 あの甲子園での清原の活躍は、彼のその後の転落を理由に「黒歴史」として、お蔵入りにすべきものなのだろうか?
 少なくとも、高校時代の清原は薬物には縁のない、「甲子園の神様」だったのに。


 「あの頃の清原」のこと、同世代の僕は、あまり好きじゃありませんでした。
 シンプルに言えば、同じくらいの年齢のヤツが、あれほどスポーツの世界で活躍し、みんなにチヤホヤされていることに嫉妬していたのです。
 あまりにも、当時の(今もですが)僕の人生とは無縁のものだったから。


 スポーツの世界、勝負の世界というのは、基本的に勝者の「総取り」で、敗者は多くのものを失ってしまう。
 負けるのは、つらい。
 でも、勝ち続けている側も、「自分の力によって、多くの人の思いや努力の積み重ねを打ち砕いていくこと」に疲れたり、消耗していくのではなかろうか。
 誰かにとっての「神」であり続けるというのは、凡人には想像しえない苦しみを伴うのではなかろうか。


「だから、清原さんの弱さを許してあげたい」と言えるほど、今の僕は純粋ではありません。
彼のような「カリスマ」は、社会的な責任も大きいというのも、「社会的制裁」によって、覚せい剤を抑止しようというのも理解できる。
「清原だから、覚せい剤も大目にみよう」なんて世の中は、間違っている。


 しかしながら、「高校時代の清原和博の凄さを語ること」「清原のファンだったり、彼に勇気をもらったこと」まで、みんなが口をつぐんで「なかったこと」にする必要があるのだろうか?


 僕は「少なくとも、高校時代の清原和博を『なかったこと』にしてはいけないのではないか」と思っています。
 じゃあ、同じ清原和博という人間のなかで、いつまでが「あり」で、いつからが「なし」なのか、というのは、とても難しい問題なのだけれど。

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