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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】日本占領史1945-1952 ☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
1945年の敗戦後、マッカーサーを頂点にGHQの支配下に置かれた日本。当初占領政策は非軍事化・民主化を推進、平和主義を追求した日本国憲法が花開く。だが冷戦が深まる中、日本を「反共親米」にすべく、政策は経済復興に転換される。51年、朝鮮戦争の最中に結ばれたサンフランシスコ講和条約日米安保条約とセットの締結となった。本書は、21世紀まで続く「戦後体制」が創られた日本占領7年間の全貌を描く。


 1945年から1952年の7年間におよんだ、占領下の日本の歴史を概観した新書。
 日本側だけではなく、アメリカ側の「事情」や、同じ時期の沖縄の状況をあわせて紹介することによって、当時の日本の「占領政策」を浮き彫りにしていきます。
 350ページをこえる、新書としてはかなり分厚い本です。
 これを読むと、1945年8月15日の敗戦から、1952年のサンフランシスコ講和条約および日米安保条約までに、こんなにいろいろなことが起こっていたのか、と、その濃密な時間を考えさせられます。
 日本史の授業では、近現代史は時間もないので流されてしまいがちで、終戦のあと、GHQの話がちょっと出てきて、いきなり「サンフランシスコ平和条約が1952年に結ばれ、日本は独立を回復した」という感じだったので。

 アメリカ、イギリス、中国によるポツダム宣言を受諾し、サンフランシスコ講和条約が発行して独立回復するまでの7年弱、日本は明治維新に匹敵する、あるいはそれ以上の政治的、経済的、社会的、さらには心理的な変革を迫られた。現代日本の法的、政治的基盤は、この時期に創られたと言っても過言ではない。
 連合国最高司令官として日本に君臨したダグラス・マッカーサーは、自らの権限について「歴史上いかなる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことはなかった」と語ったように、明治維新以降、厚い岩盤のように築かれた帝国日本のシステムに挑み、変革を試みていった。
 当初は、日本を再び軍国主義化させないことを目的とし、徹底した民主化を推進する。だが、アメリカとソ連による冷戦が深刻化していくなか、民主的な「平和国家」の創設という目的に、新たに「親米反共」国家にすることが付け加えられていく。この二つの顔を持つ占領を日本側はどう受けとめたのだろうか。


 これを読むと、アメリカの「占領政策」も一筋縄ではいかず、戦後の日本の政党も、まさに「右往左往」だったことがわかります。
 吉田茂さんの自由党が、当時、GHQから「極右政党」だとみられていたり、マッカーサー元帥が退任し帰国するときに国会で感謝決議が行われた、などいう話を読むと、当時の人々の感覚と、70年後を生きている人間が「当時の人はこう思っていたのではないか」というイメージは、けっこう違うものなのだな、と感慨深いものがあります。


 この新書、この濃密な7年間のことをなるべく著者の主観を排して、淡々と、客観的に事実を並べているような印象を受けます。
 著者の誠実さが伝わってくるのですが、その一方で、「読み物」としては、色気がないというか、あまり抑揚がない感じで、読んでいてちょっと眠くなってしまいました。
 もちろん、なんでも「ドラマ化」してしまうべきではないと思いますが、この時代にとくに興味がない人にとっては、通読するのはちょっとつらいかも。
 

 アメリカに占領されたおかげで、日本は民主国家として生まれ変わり、良い国になった、と多くの日本人は考えているのではないでしょうか。
 少なくともソ連に占領されるよりはマシだっただろうと僕も思います。
 しかしながら、歴史を辿ってみると、アメリカの占領政策というのも、必ずしも善意に基づいたものではなくて、国際情勢、とくにソ連を中心とした共産主義陣営とのパワーゲームのなかで、目まぐるしく変化しているのです。
 たった、7年間のあいだに。


 「平和憲法」を日本につくらせたアメリカも、ソ連の影響力が強まり、朝鮮戦争が始まると「日本も武力放棄なんて生ぬるいことを言ってる場合じゃない」と方針を転換してしまいます。
 ほんの少しタイミングが違っていたら、日本国憲法は、ああいう形のものにはならなかったかもしれません。
 朝鮮戦争がなければ、サンフランシスコ平和条約での日本への処遇は、これほど寛容なものにはならなかった可能性も高いのです。
 

 また、アメリカも一枚岩だったわけではなく、マッカーサーとアメリカ本国政府の「温度差」もかなりあったようです。

 マッカーサーとアメリカ政府は、日本経済の復興が必要であるとの認識で一致した。ワシントンはこののち、ケナン、ドレーバー、ヤングらを次々と東京に送り込んでいく。両者は復興の方策をめぐって対立する。マッカーサー民主化の強化を妨げない範囲で経済の安定を支持したのに対し、ワシントンは経済の安定を妨げない範囲で民主化を支持したからである。それはマッカーサーの威望のもと、独立国家のような行動をとっていたGHQ内に次第に影響を及ぼしていく。


 そして、日本の政治家も、GHQに唯々諾々と従っていたわけではありませんでした。

 1950年10月の中国の朝鮮戦争への介入は、講和問題をめぐって社会党左右両派の対立を再燃させた。右派が朝鮮戦争によって米ソ対立が決定的になったとし、単独講和容認へと傾斜したからである。
 1951年1月に開かれた社会党第7回大会は左派優勢のなか、右派の単独講和もやむを得ず、再軍備にも原則的に反対でないという含みを持たせた要求を342対82という圧倒的大差で退けた。代わって、「平和三原則」に再軍備反対の一項を加えた「四原則」を採択する。大会では委員長に鈴木茂三郎が選出され、左派の優勢を特徴づけた。このときの鈴木茂三郎の「青年よ銃をもってはならない。断じて背ノウを背負ってはならない」という発言は、有名な反戦スローガンとなっていく。
 この間、吉田(茂)は女婿の麻生太賀吉や武見太郎ら側近を通じて、社会党勝間田清一鈴木茂三郎に接触し、再軍備反対の運動を起こすよう依頼している。(『対日講和と冷戦』)。吉田は再軍備反対を主張する社会党を対米カードとして利用しようとしたのである。それは自社提携とも言えるものだった。

 政治っていうのは恐ろしいというべきか、このくらいの権謀術数を操ることができるほうが、頼もしいと考えるべきなのか。
 

 読みこなすのはけっこう骨が折れますが、この時代に興味があって、まとまっているものを読みたい、という人には、ちょうど良い新書だと思います。