琥珀色の戯言

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【読書感想】運は実力を超える ☆☆☆

運は実力を超える (角川新書)

運は実力を超える (角川新書)


Kindle版もあります。

内容紹介
人との出会いも運ならば、大きな仕事をまかされるのも運だ。会社経営者の多くが、自分がいまあるのは運のおかげだと答える。本人の実力はもちろん関係しているだろうが、運がなければ実際、成功はおぼつかない。株式などの投資や競馬・宝くじ・カジノなどのギャンブルも、結果は運によって大きく左右される。日本中で3000万人以上が株式投資や競馬などの公営ギャンブルなどにいそしみ、星占いなど占いに一喜一憂するのなら、もっと運の引き寄せ方について知るべきである。そして、もっと運のいい人間になるべきではないだろうか。実力で勝つうちはまだ二流、本当に強い人間は運で勝つ――。仕事、恋愛、ギャンブル……、人生の多くの局面で実力を発揮するために、運の本質とは何かを探求していく。


 本職である「宗教人類学者」というよりは、「運やギャンブルにやたらと詳しいおじさん」というのが、僕の著者へのイメージなのです。
 学生時代、日本中央競馬会が出している、馬の写真がやたらと綺麗な競馬専門誌、月刊『優駿』に、エッセイを連載されていたんですよね。
 その隣のページには、高橋源一郎さんが、元妻の直子さんとエッセイを書いていたんだよなあ。
 まあ、我々も年をとった、ということです。
 ちなみに、著者は1990年代の終わりに、競馬に関するテレビ出演や予想などの仕事はやめてしまったそうです。


 「運」とか「ギャンブル」とかいうと、うさんくさい感じがするかもしれませんが、人間がやることに「まったく運やギャンブルの要素がないこと」というのは、実はほとんど無いのです。
 作家・森博嗣先生に「最も期待値の大きいギャンブルは、勉強である。(その次は、仕事)」という言葉があるのですが、人間の努力と成果は、必ずしも正比例するものではありません。
 だからといって、努力しなくても良い、というわけではなくて、少しでも成功率を上げるために、それなりの努力は必要、ということなんですね。


 「確率」というのは、数字から受けるイメージと実際のところが、ちょっとかけ離れている場合があるのです。

 サイコロで3が10回出たとしても、次に出る3の確率は同じく6分の1であって、ゼロとはならない。それでも、サイコロを100回振ってみて3が出ない確率は、ほぼゼロに等しいとは言えるだろう。
 たとえば、サイコロを降り続けて、そのうち1回でも3が出る確率は6分の1だとして、では、サイコロを4回振ったとして、1回でも3が出る確率はどのくらいか? 普通に考えると6分の4、すなわち67%くらいと思いがちだが、実際には、毎回サイコロを振って3が出ない確率は6分の5だから、4回続けて3が出ない確率は6分の5を4回かければいいことになる。したがって、約48%となる(これを相補定理という)。つまり、少なくとも3が1回でも出る確率は100マイナス48で約52%が正解となる。意外と少ないことに気づかされる。


 それで思い出されるのが、クラスでランダムに23人選ぶと、そのうち2人の誕生日が重なるケースが50%を上回るという驚くべき事実だ。もし41人選ぶと、その確率は90%を超えることになる。いったいなぜか。一見すると、365日のうちの23日は、割合にして6.3%だから、ほとんど合致することはあり得ないということになりそうだ。ところが、ペアで考えると、そうはならないのがわかる。たとえば、23人だとペアで数えると253組のペアができることになり、誕生日が同じペアができる確率は50.73%となる。


 こんなふうに「確率」というのは、実際とイメージがけっこうかけ離れていることが少なくないのです。


 著者は「ギャンブルに勝つための方法」をあれこれ述べているのですが、「ギャンブル人生」を送ってきた著者でさえ(だからこそ)必勝法を生み出すことはできていません。
 その一方で、「少しでも勝つ確率を上げるための、さまざまなアドバイス」をされています。

 人間の思考はすぐに頑なで硬直したものになってしまうので、負けが続いたときには、よく盤面を見直してみよう。何か新しいヒントが見つかるまで大きく賭けないことである。負けているのに一発で取り戻そうとすれば、だいたい傷を深くすることにあるだろう。わざわざ言うまでもないが、ここぞという時に大きく賭けられるのがギャンブラーであり、普段は金額を抑えて様子をうかがい、時が来るのを待つのだ。ギャンブルというのはそうやって決着をつけるものなのである。


 さて、そんなルーレットだが、そこにも必勝法らしきものがあることは、これまでにもいろいろなところで書いてきた。すぐに思い浮かぶのはマーチンゲール法、つまり「賭け金倍増」という方法である。勝つまで賭け金を倍に増やしていくというやり方で、最初に1ドル賭けて、負けたら今度は2ドル賭ける、それでも負けたら4ドル、8ドルと賭けていく。そうやっていつか勝てば1ドルの収入になるといういうわけである。たしかに論理的にはそうなるが、しかし、マーチンゲールは、賭博師の破滅を防ぐどころか、それを加速するということがわかっている。「負け続ける場合、賭けなければならない額はすぐに128ドル、256ドル、512ドルと増えていく。資金(あるいは気力)を使い果たすか、カジノのほうから賭け金が多すぎるといって断ってくるか、いずれかだ。そうなると、マーチンゲールをしても、それまで続いた負けを埋め合わせることはできなくなる」。
 例のカサノヴァがこの方法を使ってヴェネツィアのカジノで大負けしたのは有名な話である。


 そうか、マーチンゲール法も「必勝法」ではないのだな……
 というか、予算や賭けられるお金に限度があるかぎり、そうなりますよね。
 そもそも、マーチンゲールで少し勝ったところで、ちゃんと止められるのなら良いのだけれど、ギャンブルというのは、勝つのも難しいけれど、止めるタイミングも難しいのです。
 著者に言わせれば、人生そのものがギャンブルみたいなものなのだ、ということなのですが。


 ギャンブルというのは、それをやる人のメンタルの影響が非常に大きいのです。

 あなたはここで勝ったら大きいと思って、競馬だったらあるレースに50万円賭けてみようと思う。その50万があなたにとってそれほど大きな金額でなければいいのだが、もし1ヵ月の収入を一気に賭けるとか、なけなしの貯金を下ろして大勝負するとかとなると、まず間違いなく負けてしまうことになる。


(中略)


 もちろんほどよい緊張感はつねに必要なので、負けてもいいというような軽い気持ちで勝負に臨んだら、必ず負けてしまうことになる。勝負というものは、勝とうとしても必ずしも勝てるものではないが、負けてもいいというような気持ちでやったら100%負けてしまうものである。とにかく、精神のバランスを壊してまで勝負することはないということである。


 この「賭け金が大きくなると、負けてしまう」というのは、ものすごくよくわかります。
 僕の場合、競馬で少額を賭けるのであれば、思い切って穴狙いに徹することができるのですが、賭け金が大きくなると「これを失いたくない」という気持ちが先に立ってしまって、ついつい人気に引きずられてしまうんですよね。
 とはいえ、まともに予想せずに、ランダムに賭ければ当たる、というものでもない。


 まあでも、正直なところ、「蟹座はダメ人間」というような星占いの話とか、かなり眉唾物ではあります。
「占いを気にしてしまう人間というものの不安感」みたいなものが、たぶん著者を惹きつけているのだとしても。


 著者は「ギャンブルにおいて大切なことは、『変幻自在であること』」だと述べています。
 草食動物が肉食動物から逃げる際に、必ず最短距離を走ると決まっていれば(それは、理屈でいえば「合理的」なのですが)、肉食動物は容易に獲物の進路を予想して、捕まえることができるのです。
 だから、草食動物は、最短距離ではなく、ジグザグに走ったり、スピードに変化をつけたりするのです。

 歴史上の暴君はみんな自分の権力を維持するために、予測不可能に激怒するという戦略を取ってきた。カリギュラヒットラー金正恩もみんなこの「狂犬戦略」をとってきた。ある一定の閾値を超えると怒り出す暴君だったら、配下のものたちは怒りがその閾値に達しないところで振る舞っていればいい。ところが、もし女王に好意を示すハグをしても明るく接していた暴君が、翌日同じことをしたら首をちょんぎるという行動に出たとしたら、配下のものたちはいつも怯えていなければならなくなる。手下を怖がらせるには「不確実性」だけで十分なのである。暴君というものは、真にランダムに人を殺すことができなければ、その地位を守るのは難しい。飽きっぽかったり、気分に左右されたり、一貫性がなかったり、奇抜だったりすることが必要だということで、それもまた変幻自在性の一側面かもしれない。
 ぼくらは、ギャンブルにおいてはつねに暴君のように振る舞わなければならない。別に清廉潔白であってもいいが、そんなふうにしていても誰にも褒められることはない。だから、ギャンブルにおいては、ただ合理的な判断力にすぐれているというのではダメで、あえて「飽きっぽかったり」、「気分に左右されたり」、「一貫性がなかったり」、「奇抜だったり」する必要があったりする。ときには自分でも自分の行動が理解できないという方法を選択するかもしれない。それほど自由でなければならないということである。「実力で勝つうちはまだ二流、本当に強い人間は運で勝つ」というのは、かように複雑な戦略なのである。


 だから、一見したところ、ギャンブラーはみんな悲惨な末路をたどることになると信じられているが、そんなことはけっしてない。彼らはギャンブルから多くを学び、それを人生に活かしたり、まったく別の出来事をギャンブルになぞらえて解決したりして、それぞれの道を歩んでいるのである。あえて言うならば、「財を成す」ことがギャンブラーの最終目的ではない。そうではなく、あえて言うならば、「いかに生きるか」を知ることこそがもっとも大切なことなのである。


 これを読んでいて、佐藤優さんが、「キリスト教において、『神』というのは、理不尽で理解不能なことをするからこそ、『神』であり、信仰の対象になるのだ」というようなことを仰っていたのを思い出しました。
 機嫌次第でひどいことを平然とやる独裁者に、なぜ、なかなか逆らうことができないか、という問いへの答えにもなっていますよね、これ。


 パチンコや競馬、カジノといった「ギャンブル」は、人生における「初心者向けの賭け事」でしかありません。
 堀江貴文さんや林修先生のように「学生時代、競馬にハマって、馬券生活を目論んでいた」ことがある人たちでも、その後、成功をおさめている人はたくさんいるのです。
 天皇陛下の手術を執刀した心臓外科医の天野先生は、学生時代に授業をサボって麻雀に没頭されていたそうです。
 ギャンブルで一生を棒に振ってしまう人は少なくないけれど、それを「貴重な人生経験」にしている人も大勢います。
 とはいえ、「ランダムに人を殺せる」歴史上の暴君みたいな人ばかりがいる世界というのは、ちょっと勘弁してほしいのですけど。


fujipon.hatenadiary.com

偶然のチカラ (集英社新書)

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