琥珀色の戯言

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【読書感想】モラルの起源――実験社会科学からの問い ☆☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
私たちヒトは、うまく群れ生活を送っていけるように、その心を進化させてきた。しかし、「群れ」や「仲間」を大きく超えて人々がつながる現代、私たちが対立を乗り越え、平和で安定した社会を築くにはどうしたらよいのか。「実験社会科学」という新たなアプローチで、メタモラルの可能性を文理横断的に探る意欲作。


 この新書は、「正義」や「モラル」というものは、ある集団(部族)において普遍性を持ちうるものなのか、そして、部族や民族をこえて、世界共通の「モラル」を構築することは可能なのか、ということを「実験社会科学」というアプローチで論じたものです。
 この「実験社会科学」というのは、まだできたばかりの概念で、経済学、心理学、政治学、生物学など、異なるバックグラウンドをもつ研究者たちが結集し、「実験」という共通の手法を用いて、人間の行動や社会の振る舞いを組織的に検討しようとする共同プロジェクトだと著者は述べています。

 ここでの「実験」とは、狭い意味での、いわゆるラボ実験だけを指すのではありません。現場でのフィールド実験や調査、コンピュータ・シミュレーションなども広い意味での実験だと考えます。もちろん実験には限界もありますが、これまでの社会科学の各分野が、それぞれの視点からばらばらのアプローチを取っていたのに対し、実験という厳密な共通土俵を自覚的に設けることで、互いの知見や主張に対して妥協のない「ガチ」の議論をすることが可能になりました。

 と著者は述べています。


 この新書を読んでいて驚いたのは、人間以外の生物でも、ミツバチが新しい巣を探すために、先乗りした仲間たちの報告を総合的に判断して決定するという「集合知」的なものを持ち、チスイコウモリが「飢餓状態のときに、仲間に血(栄養)を分けてもらう」という行動を示す、ということでした。
 そのチスイコウモリは、どういう仲間に優先的に血を分けているか、という研究結果が書かれています。

 図では、絶食個体が相手からどの程度の血を絵を分けてもらえるかについて、それぞれの要因がどの程度うまく説明できるかを示しています。もっともよく説明するのは、その相手に対して以前にどのくらいの血を分け与えたかという回数でした。相手の性別や、以前に毛づくろいをした程度、血縁度といったほかの要因は、これと比べ説明率の点で劣っています。
 つまり、以前ほかの個体に血を分け与えたことのある個体は、血を分け与えたことのない利己的な個体に比べて、獲物にありつけなかったときに多くの血を分けてもらえます。さらに、コウモリたちの一部は、以前自分に血を分けてくれなかった相手に対して血の分配を積極的に拒む行動さえ見せたのです。「恩には恩を返す」、「仇には仇で報いる」といった、いかにも人間的な「信義に厚い」行動が、チスイコウモリの社会で観察されたわけです。

 コウモリにも、そんな「信用」みたいなものがあるのか……
 短期的にみれば、自分の血をあげる、というのは「損」なわけですが、コウモリも、こうした長期的な視野をもっているのです。


 ここで紹介されている実験のなかには、「ゲーム理論」などで目にしたものもあるのですが、興味深かったのは、人類学者のヘンリックさんを中心とした研究チームが、「最後通告ゲーム」を世界各地の15の小規模社会(多くとも人口数百名程度の部族や村落)で実施した結果でした。
 彼らは、この「最後通告ゲーム」が、アメリカやヨーロッパ、日本などの大規模産業社会でしか行われていないことに疑問を抱いていたのです。
 ちなみに「最後通告ゲーム」とは、こういうものです。

 互いに未知のAさん、Bさんがペアにされ、二人の間で1万円を分ける経済実験に参加します。実験は二つのステップで進みます。最初にAさんが実験者から1万円を渡され、「分け手」として1万円の分配方法について、Bさんに提案するように言われます。次にBが「受け手」として、Aの提案を受け入れるか拒否するかを決定します。もしBがAの分配提案を受け入れるなら双方の取り分はそのまま確定しますが、納得せず拒否した場合には、双方の取り分とも0円になってしまいます。
 BはAの提案内容をいっさい変更できず、受け入れるか否かを決めるだけなので、この実験ゲームは、最後通告ゲーム(ultimatum game)と呼ばれます。実験では、このゲームをただ一回だけ、分け手、受け手の役割を交換せず、コミュニケーションなしで行ないます。さて、どのような分配のパターンが見られるでしょうか。


 これをアメリカやヨーロッパ、日本でやると、「Bに金額の40〜50%を渡す、ほぼ平等の分配がもっとも頻繁に提案され、受け手もその提案をほぼ確実に受け入れます。20%を下回るような少額の提案はまれであり、また行われたとしても多くの場合に拒否されす」とのことです。
 これは、もし自分が参加していたら……と考えても、納得がいく結果ではないでしょうか。


 小規模社会での「最後通告ゲーム」の結果には、大きなばらつきがみられたそうです。

 たとえば、南米ペルーのマチゲンカ族では15%を渡す提案がもっとも多かったのに対して(平均値は26%)、インドネシア島嶼(とうしょ)部にあるラマレラ村では50%という提案がもっとも多かったのです(平均値は57%)。「どこで実験しても人間はみな同じ」では全くないのです。
 興味深いことに、分配提案額の違いは、その社会がどのくらい市場経済に統合されているか、日常場面でどのくらい協力が行われているかといった、「社会全体のマクロな特徴」の違いによって統計的によく説明できました。たとえば、狩猟採集を主とするハッツァ族の社会では、マーケットでの交換がほとんど行われないのに対して、遊牧に携わるオルマの社会では、家畜の売買や賃金労働が頻繁に行われています。市場統合がなされているオルマの社会の方がハッツァの社会より、平等に近い「フェア」な分配提案が行われています。その一方で、年齢、性別、教育を受けた期間、同じ社会の中で比べたときの富(家畜・現金・土地)のレベルなど、一人一人の「個人としてのマイクロな特徴」の違いは、個人間での分配提案のばらつきを統計的にほとんど説明できませんでした。
 このような比較文化実験は、私たちがふだん当然だと考えている分配の原理が、社会・文化レベルの要因によって規定されているという重要な事実に気づかせてくれます。「どのように分けるのが適切か」に関する分配規範は、生業のかたちを始めとする社会の生態学的な構造に依存するのです。


 この実験って、極論すれば、提案者が9999円、受け手が1円、であっても、受け手が拒否すればどちらも0円ですから、絶対的な損得でいえば、受けたほうがマシ、ではあるのです。
 しかしながら、このような場合、多くの受け手は、自分の取り分がゼロになるのは承知で、拒否することがほとんです。
 僕がこのゲームに参加するとしたら、まず、5000円ずつ、にするか、自分が分配を決められる立場であることと、相手も拒否すれば貰えなくなることを考えて、自分を6000円くらいにするか、というところでしょう。
 でも、それはあくまでも「2017年の日本で生活している人間」の常識であって、世界には、「そういう条件なら、8000円と2000円くらいが妥当だろう」という人が主流であるところもあるのです。
 これは、彼らがとくに強欲だ、というわけではなくて、「それがあたりまえの社会」なのです。


 著者は、「モラル」とか「正しさ」とかは、ある程度同じ文化的な背景をもつ部族・民族の間では共通のものとして成り立ちやすいが、そうでない場合に「国境をこえる」ことは難しいのではないか、と述べています。
 そのためには、「人類全体にとっての功利主義」的なものを「最適解」として共有する、というのもひとつの考え方ではないか、とも。
 まあ、これは本当に難しい問題ですよね。
 宗教は人々の争いの原因になりがちなのだけれど、その信者のなかでは、民族や国境をこえた「文化的な背景」にもなっています。
 「人を殺してはいけない」「財産を奪ってはいけない」というような「(大多数の)人間社会の常識」が成り立っているのは、宗教のおかげ、とも考えられるのです。
 経済のグローバル化が進んでいる一方で、国民感情鎖国化が進んでいる理由には、このような「モラルの共有の難しさ」もありそうです。
 そんなに読みやすくはないのですが、なかなか興味深い新書だと思います。

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