琥珀色の戯言

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【読書感想】オペラ座のお仕事――世界最高の舞台をつくる ☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
国内随一のオペラハウス、新国立劇場で専属の合唱指揮者として活躍する著者が、知られざる波瀾万丈の舞台裏とその人間模様を明かす。個性的な外国人音楽家たちと繰り広げるバトル、今を時めくスター歌手の輝き、バイロイト音楽祭の愉快なワグネリアンたち、スカラ座で見た「火事場の馬鹿力」、北京に乗り込んだ日中共同公演でのハプニングなど、壮麗で威厳ある舞台からは想像できないエピソードが続出!さらに、「水泳」をキーワードにカラヤンを読み解き、「理想の指揮者」からリーダーシップについて考えるなど、ユニークな指揮者論を展開。クラシック音楽ファンならずとも、オペラの舞台や音楽家たちが愛おしくてたまらなくなる!


 クラシック音楽好き、というわけでもなく、著者の三澤洋史さんのこともよく知らず、「珍しい仕事をやっている人の書くものって、面白いよね」という感じで手にとってみました。
 率直に言うと、やっぱり、クラシック音楽に造詣が深い人のほうが愉しめる内容だとは思うんですよ。
 僕だって、カラヤンくらいは知っています。
 とはいえ、この本に登場してくる音楽家たちのさまざまなエピソードは興味深いけれど、音楽家としてどんな人なのかわからないと、「へえ、あの人が!」って感じにはなりませんし。
 でも、「音楽を仕事にする」ということや「音楽家という人間」について、少しだけわかったような気分にはなりました。


 著者は、「大工の息子」として生まれ、家の跡継ぎになることを期待されて育ったものの、なぜか音楽に惹かれて合唱指揮者となった異色の音楽家です。
 合唱をやるようになったのが、スタートが遅くて、「いまから楽器をやっても、子どものころから続けている人には追いつかない」という判断もあったそうです。
 音楽家っていうのは「音楽一家出身のエリート」と、著者のような「突然変異っぽい才能」が同じフィールドで勝負する、面白い世界なのだなあ、と。 
 
 
 著者が「世界で最も尊敬する合唱指揮者」として挙げているノルベルト・バラッチュさんのエピソード。

 バラッチュの作り上げた合唱は、どんな時でもバラッチュの”響き”がしていた。僕が彼から学んだ一番大きなことは、合唱指揮者とは合唱のサウンドを作り出す芸術家なのだということだ。合唱指揮者は、合唱団の音取りなどの下ごしらえをして公演指揮者に渡すための仲介者などではないのだ。
 練習中のバラッチュはとても恐い。しかし一方で、彼は、自分の理想の響きのイメージを合唱団全員に伝えることにかけては天才的だ。惚れ惚れするような良い声で自ら歌い、自分がどういう歌声で全体を統一したいのかを鮮やかに示す。なんといってもウィーン少年合唱団出身だ。ご幼少の頃から鍛えに鍛えた声だし、声楽のテクニックのことを知り尽くしている。ソット・ヴォーチェ(柔らかい声の表現)の個所では、どのくらいまでファルセット(裏声)の響きを混ぜて歌うべきか、かなり具体的なところまで指摘する。
 音程にはもの凄くうるさい。ある個所などは、ソプラノの高音域の音程が低いと言って、二小節くらいを何度も何度もやらせ、しまいに、
「ここだけで20分も経っちゃったじゃないか。いい加減直せ!」
 と真っ赤になって怒る。女性たちは本当に震え上がっている。
 朝はまだ声が起きていないので、どの合唱団でも午前中の練習では音程が下がってしまうのが普通だが、バイロイト祝祭劇場の合唱団は、朝からピッチがきちんとしている。それだけバラッチュが恐いのだ。


 僕はピアノを幼少時にちょっとだけかじった経験がある程度なので、音楽(とくに演奏するほう)には疎いのですが、「朝はまだ声が起きていない」とかいうのがあるのだなあ、と。
 そして、そんな「人間の生理的なリズム」にすら妥協しないバラッチュさんの迫力!


 この本を読んでいて痛感したのは、腕の立つ音楽家というのは、それぞれ個性があるにせよ、自分の作品をつくるためには、けっして妥協しない人々なのだ、ということでした。
 それは、傍からみればエゴイスティックにみえることも少なくないのだけれど、それができなければ、「自分の作品」にはできないのです。
 著者は、この本のなかで、舞台の上、あるいは舞台裏でのさまざまな指揮者や演出家、他の合唱指揮者との交流を描いています。
 彼らはみんな、自分の音楽のために、言いたいこと、言うべきことをキッチリ主張してきます。
 それに対して、著者も、合唱指揮者としての立場から、最善の音楽のために、主張をする。
 仲悪そうだなあ、と思うのですが、さにあらず。
 むしろ、「お互いにちゃんと自分の領分を主張した上で、より良い作品をつくるための落としどころを探る」のが大事なんですね。
 何も言わないのは、何も考えていないのと同じになってしまう。
 そして、結果として良い作品ができれば、言い争ったことは水に流して、お互いを認め合う。

 何も僕はこの本で、対立を避けて”なあなあ”になってしまおうとする日本人の傾向を正したり、縦割り社会の硬直性にメスを入れたりしようなどという大それたもくろみを持っているわけではない。けれども、僕が劇場内の話を誰かにすると、決まって、「三澤さん、こういう話を是非本にして下さいよ。日本の組織を変えるヒントを示すためにも!」と言われる。
 そうした言葉に乗せられて、ひとつだけ自惚れて言いたいことがある。それは、日本人はみんな「いいこ」になりすぎるのではないかということである。あるいは嫌われるのを恐れすぎると言った方が良いかもしれない。自分のやりたいことは迷わずやればいい。人の目など気にすることはない。
 同時に、自分がどういう人間なのかを他人に知ってもらうための努力は惜しむべきではない。自分が何にこだわり、何をめざし、何は受け入れられないのか、はっきり示すことから人間関係を始めるべきではないかと思うのだ。
 でも、ただのワガママ人間になってはいけないとも思う。その全ての思考と行動の原点には、”善意”がないといけない。善意は「いいこ」と似ているようだが全然違う。それは、月並みな言葉だけれど”愛”から導き出される無私なる感情だ。


 お互いの目的が「良い作品をつくること」であれば、どんなに無茶苦茶なところから出発しても、妥協点、みたいなとことは見つかるみたいなんですよ、この本を読んでいると。
 

 著者は、恩師である指揮者・山田一雄先生のことを、こんなふうに愛情をこめて(?)書いておられます。

「今後僕の演奏会がある。リハーサルを見せてあげるから来なさい」
 何度目からのレッスンの時に先生は言った。僕は天にも昇る気持ちで練習場に行く。それは東京フィルハーモニー交響楽団によるチャイコフスキー作曲交響曲第五番のリハだった。僕は先生の真後ろに座って練習を見せてもらった。 
 のっけからびっくりした。山田先生はいつもレッスンの中で僕に、
「君の指揮の身振りは大きすぎる! 指揮者というものは聴衆に自分の足の裏を見せてはいけないのだ」
 と力説していたが、先生は冒頭から足の裏見せまくりで、まるで檻の中で興奮した猿のように暴れている。
 休み時間、僕は恐る恐る言う。
「あのう……先生も結構動かれるんですね……」
「ばかもの!」
「ひっ!」
「君とは全然違うのだ! 君は最初から意味もなく動くが、『動いてはいけない動いてはいけない』と自分に言い聞かせ続けても、それでも自分の内面から音楽が溢れ出てきて、とめどもなく溢れ出てきて、自分で自分を抑えきれなくなる時だけ動いてよろしい」
「はあ……」
「というより、動いてしまうんだよなあ……」
 と遠くを見つめて言う。こんな時の山田先生は自分で自分の言葉に酔っている。究極のナルシスト。でも、それにしては最初のクラリネット二本の導入部分からもう暴れまくっていたような気がするが――。ま、いっか、これ以上言うと、何を言われるかわかったもんじゃない。


 「このように指揮台で激しく動きまくる山田先生は、”邪魔だカズオ”とオーケストラの楽員たちに呼ばれていた」そうです。
 師匠に対して、あまりにもひどい……んだけど、大笑いしてしまいました。
 音楽家って人たちは、なんて面白いんだろう!
 

 「世の中には、こんなにヘンな人たちがいて、でも、そのヘンな人たちこそが、多くの人を楽しませる作品をつくっている」ということを知るだけで、なんだか元気が出てくる本です。
 僕も、こういう人たちが作り上げる音楽を、聴いてみたくなりました。