琥珀色の戯言

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【読書感想】綾瀬はるか 「戦争」を聞く II ☆☆☆☆

綾瀬はるか 「戦争」を聞く II (岩波ジュニア新書)

綾瀬はるか 「戦争」を聞く II (岩波ジュニア新書)

内容(「BOOK」データベースより)
爆心直下で被爆しながら奇跡的に命をつないだ人々、被爆直後の惨状の中で生まれた命、原爆症の父を支え続けた娘…。戦争体験者の言葉を通して平和の意味を考えます。大きな反響を呼んだNEWS23綾瀬はるか『戦争』を聞く」シリーズの書籍化第2弾。


 NEWS23の「綾瀬はるか『戦争』を聞く」では、広島県出身の綾瀬さんが、戦争体験者と時間をかけて、直接話をされています。
 この本によると、なるべく自然な形で話をしてほしい、ということで、「あの綾瀬はるか」が来る、ということは、取材相手には事前に知らされない、ということでした。これを読んでいると、被爆体験をされた年齢層の方には、綾瀬さんを知らない人も少なくないようです。
 
 
 広島、長崎に原爆が落とされたのは、1945年。もう70年以上が経過しており、あのときのことを語れる人の数は、減り続けています。
 被害者の4分の1は、現在でも自分が被爆者であることを誰にも話せずにいる、との統計も紹介されているのです。
 福島の原発事故のあとに起こったとされている、さまざまな差別をみても、その気持ちはわかるような気がします。


 7歳のときに被爆した神戸美和子さんは、中学1年生のときに朝鮮戦争がはじまった際に、こんな体験をされています。

神戸「原爆がどんな悲惨なものか、どんな凄惨なものか、友達にすごく言ったのね。そしたら二日くらいたって私の周りからスーッと誰も私に近づかなくなったの」


綾瀬「やっぱり被爆者だと思われたから?」


神戸「うん。それまで、とても仲のいい友達もいたんだけど。で、私はその子の袖をギューッと掴んで、校門のところまで引きずっていって、『私が何したの? どうしたからみんなに私は嫌われているの? 言うて!』ってすごく言ったら、その子ね、ポロッと泣いて、『あんた、被爆しているでしょ』って。『あんたから放射能が出てみんなにうつるから、みんなそばに行かないようにしてる』って。で、私もうびっくりして、うちに帰って母にウワーッと泣きながら言ったのね。そしたら母が『これから先、絶対に被爆のことは言ってはいけない』って固く口止めされたの」


 当時、原爆や放射線に対する知識はほとんどなく、何の根拠もないままに「ピカの毒がうつる」などの偏見が広まっていたのです。


 以来、被爆のことを封じてきた神戸さんでしたが、45歳の夏、入院している兄嫁の見舞いに行った時のことでした。


 末期ガンに冒されていた兄嫁の雅子さんは、原爆で酷いヤケドを負い、体にケロイドがありました。
 ケロイドは、ヤケドの跡が盛り上がったもの。
 その醜い姿は、多くの被爆者を苦しめました。


神戸被爆のことを黙っててはいけないって私を一生懸命さとすんです。両方の肩から着物を脱ごうとしるんです。で、私が『どうしたの?』って言ったら、『私の背中には酷いケロイドがある』って。右側全部がケロイドだったのね。こういう形で(右方向から)被爆したんですって。『この体を写真に撮っておいてほしい。で、世の中の人が汚いとか気持ち悪いとか言ったら、原爆に遭うとこういう体になるんですよって言ってちょうだい』って言うんですね。『私はそれでいいから』って。それでもう私は写真撮る勇気もなかったし、『姉さん、いいからいいからいいから』って……」


綾瀬「……」


 この一週間後、政子さんは息を引き取りました。
 遺言となった想いを託され、神戸さんは40年間隠し続けた被爆体験を語るようになったのです。


 あれから70年あまり。
 科学技術が進み、みんなの知識も進歩したように思い込んでいたけれど、東日本震災後に起こったことを考えると、人間そのものは、劇的に進化したわけではないのです。


 広島では、工場や作業場に動員されていた中学生たちが、多数、原爆の犠牲になっています。
 そのなかで、あの日、軍の命令に背いて生徒たちを建物疎開の作業に行かせなかった学校があったそうです。
 いまも広島市内にある比治山女子中学校・高等学校の女学生たちは、「今日は風がなくて、空襲の危険が高そうだから」という校長先生の判断で、あの日、疎開に加わらず、被爆を免れました。


 その女生徒のひとり、大石雅子さんに、綾瀬さんは問いかけています。

綾瀬「でもすごいですね、その時の先生の判断で色んなことが変わる……」


大石「そうですね。なかなか言いづらいことですけれどもね。やっぱり、うん……、話したくない人が結構いますよ。結局、他校の同級生は亡くなっていて、そのお母さんもいるわけですよ。お母さんお父さんもね。『あんたはどうして生きているのか。うちの子は死んだ。あんたはどうやって生きているのか。どうやって助かったのか』そうやって聞かれるのがつらいって、生き残った同級生の皆さんはおっしゃったですね。でもやっぱりあの、私は……本当のことを伝えていかなければ、伝わらないって思いますね」


 この判断をした比治山高等女学校の国信先生は、戦後、地元の新聞の取材でこう語っておられます。

「ほとんど全滅という当時一、二年の生徒の中で、比治山高女生が助かったことは、神に感謝している。しかし反面、悶死した他生徒のことを思うと、運命の皮肉に胸がしめつけられる思いだ」


 生き残った人たちは、何も悪いことをしたわけではなく、「運がよかった」だけなのに、そのことに負い目を感じたり、「生き残った意義」を考えたりしながら生きてきたのです。


 僕はこの本で、奄美大島の女性たちが手先の器用さを買われて長崎の兵器工場で働かされ、そこで被爆し、多くの人が亡くなったことを知りました。
 生き残った彼女たちは、戦後、奄美大島が米軍統治となったこともあり、しばらく帰郷することもできず、被爆者として国の援助を受けることもできなかったそうです。


 この本が出版された時点(2016年7月)で、綾瀬さんは40人の戦争体験者と会って、一人一人から、何時間もかけて話を聞いてきたそうです。
 巻末の「体験者の声を聞き続けて」という綾瀬さんと膳場貴子さんの対談より。

膳場貴子被爆者の方の平均年齢は80歳を超えていますから、直接お話を伺う機会は本当に貴重ですよね。取材のVTRを見ていて、綾瀬さんが高齢の方と外を歩きながらお話を聞いている時に、腕をとって、さりげなく支えながら歩いている様子がとても印象的でした。


綾瀬:そうですか? あまり意識していませんけど……。おじいちゃんおばあちゃんには自然に寄り添える気がします。お年寄りが好きだからかな?


膳場:おじいさんやおばあさんが近くに居る環境で育ったんですか?


綾瀬:はい、ずっと祖母といっしょに住んでいました。


 この「戦争体験者の声を聞く」というのは、ものすごくつらい仕事であり、誰にでもできるものではなさそうです。
 綾瀬はるかさんの所作や話を聞く姿勢をみていると、人気女優だから、というより、綾瀬さんだからできることなのではないか、と思うのです。


 お二人は、こんな話もされています。

膳場:一人一人の出会いが、ほんとうに貴重な一期一会になっているんですね。取材中に戦争の体験談だけではなく、プライベートな話題になることも多いと聞きました。「あなた、早く良い相手を見つけて結婚しなさいよ」なんて言われたりして。


綾瀬:あははは。


膳場:まるでおばあさんとお孫さんが話しているような雰囲気ですね。綾瀬さんを孫のように感じていらっしゃったのかもしれません。


綾瀬:スタッフの方が、「綾瀬さんに何か言いたいことはありませんか?」と聞くと、どうしてもそういう方向の話になってしまうことが多いんです。お孫さんと世代が近いからかな。


膳場:もちろん取材の目的は戦争体験を聞くことなのですが、そういう、お孫さんをかわいがっていらっしゃる一面が見えたりすると、それぞれの方が、戦争の辛さを抱えながらもそれだけでなく、豊かな人生を過ごされているんだなということが垣間見えて、少しだけホッとします。


綾瀬:こっそり人生のナイショ話を話してくれることもあるんですよ。昔の恋愛の話とか…。そういう時はつい、「なになに、それってどういうことですか?と」と興味津々で突っ込んだりして。


膳場:そういうお話をできる関係っていいですよね。


 そうなんですよね。観る側は、語ってくれている人たちを「戦争体験者」という先入観だけでみてしまうのですが、本人にとっては、戦争が終わったあとも、取材を受けるまでの長い人生があって、つらい記憶とともに、生きていたからこそ味わえた、楽しかったこと、嬉しかったことも、きっとあるはず。
 そして、戦争で亡くなった人たちは、そういう「豊かな人生」を過ごす機会を奪われてしまった。
 それこそが、戦争の罪なのではないか。
 われわれが話を聞くことができるのは、戦争で生き残った人だけで、犠牲になった人たちの声を聞くことはできないのです。


 今日は、72年目の8月6日です。


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綾瀬はるか 「戦争」を聞く (岩波ジュニア新書)

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