琥珀色の戯言

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【読書感想】永遠のPL学園~六〇年目のゲームセット~ ☆☆☆☆


Kindle版もあります。
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内容(「BOOK」データベースより)
桑田真澄清原和博立浪和義宮本慎也前田健太…など、プロ野球選手81人を生んだ、甲子園96勝、全国制覇7回の名門野球部の「謎の廃部」の真相に迫る。第23回小学館ノンフィクション大賞受賞作。


 今年の春の甲子園は、大阪桐蔭履正社という大阪の高校どうしの勝戦となりました。
 桑田・清原より少しだけ年下の僕にとっては、子どもの頃から、高校野球で大阪といえば、PL学園の存在感が図抜けていたのです。
(PL以前には、浪商の牛島投手と「ドカベン」香川捕手のバッテリーも印象にのこっています)
 PLといえば、その強さとともに、校歌もインパクトがあったんですよね。
「ああ、PL PL 永遠(とわ)の学園 永遠の学園」
 どれだけ自分の学校を宣伝すれば気が済むんだ!「永遠の学園」は、さすがに言い過ぎなのでは、と思っていたのですが、PL教団という「宗教」が基盤にある学校だったからこそだったんですよね。


 その名門・PL学園の野球部は栄光とともに、さまざまなスキャンダルも起こしてきました。
 このノンフィクションのなかで、著者は、PLの伝統としての「暴力行為」についても書いています。
 当時の指導者たちが、それを「選手たちとの真剣勝負の結果として」恥じていなかったということと、そういう行為が行われているのはPLだけではなく、関係者もそれを知っていた、ということも。


 また、PL学園の厳しい先輩・後輩の上下関係は、卒業生のプロ野球選手がバラエティ番組などで話していることもあり、よく知られています。
 新入生は3年生の「付き人」として野球の練習の際だけではなく、ふだんの身の回りの世話もしていたのです。

 後輩は先輩に対し「はい」「もしくは「いいえ」でしか答えることが許されず、先輩の前で白い歯(笑顔)を見せることも御法度だ。こういう付き人制度がいつの時代にできあがったものなのかは、清水やプロ野球に進んだOBに訊いてもわからなかった。10期生の中村順司の学生時代はどうだったのだろうか。中村は自身の入学当時を、こう振り返った。
「同じです。私も『はい』と『いいえ』でしか答えることは許されなかった。先輩のユニフォームを洗濯するのも当たり前。食事の用意をし、先輩が食事している間は横に立っていなければならかった。ただ、1960年代の高校の寮生活というのは、どこの高校もそんな感じだったんじゃないかな。僕らの時代では当たり前のことでした。
 ということは早創期から既に、厳格な上下関係は存在したということだ。
 全国屈指の強豪へと成長していく過程において、いつしか野球部員の寮生活には次の不文律ができあがっていた。
「三年神様、二年平民、一年奴隷」


 そこまでして、PLで野球をやることにこだわらなくても……と思うのですが、その一方で、PL学園からプロ野球に行って活躍した選手が多いのも事実です。
 ヤクルトスワローズ2000本安打を達成した宮本慎也選手は、高校での三年間を振り返って、こんな話をしたそうです。

「今の時代には、ふさわしくない伝統だとは理解しています。しかし、PLの三年間……というより、一年生の一年間を乗り切れたからこそ、社会に出た時にどんな苦境にも耐えられる。いや、社会における理不尽なことなんて楽勝なんですよ(笑)。毎日、三年生のお世話が終わり、ホッとすると、夜中なのに同級生と研志寮の屋上で隠れてお菓子を食べたりしていました。見つかったら大事だし、疲れ切っているんだから少しでも寝りゃあいいのに、それが幸せの時間でね。“今日も生きてた”って、今の時代にはふさわしくない上下関係ですが、だからといって僕らの時代まで否定してほしくない」


 「生存者バイアス」というか、「その地獄の通過儀礼を乗り越えて成功してきた人」だからこそ、なのかもしれないけれど、スポーツの世界で頂点を目指すというのは、いかに過酷なものなのか、ということを考えさせられます。
 PLの卒業生以外にも、活躍した野球選手はたくさんいる、たしかにその通りなんですけどね。
 PLだったからこそ開花した才能もあれば、PLに入ってしまったがために潰れてしまった選手もいたのだろうし。


 PL学園の野球部が実質的に終わりを迎えたのは、2016年7月15日、夏の大阪大会の初戦で、東大阪大柏原に敗れた瞬間でした。
 「あのPL学園が廃部になる」ということで、彼らの「最後の夏」は、メディアでもかなり大きく採りあげられていたのです。
 著者は、その「最後の夏」に向かっていった、満身創痍の12人の野球部員たちの姿を書き残しています。

 試合後には、30分という地方大会の初戦としては異例の取材時間が設けられていた。220人の報道陣が花園球場内になだれ込み、主将の梅田翔大と、記録員の土井塁人を真っ先に囲んだ。
 他の部員は嗚咽を漏らし、黒土のグラウンドに伏していたが、梅田は気丈だった。
「一つでも多く勝って、一回でも多く校歌を歌いたかった。その思いでずっとやってきたんで、一回も校歌を歌うことができず、OBの方々には申し訳ない結果に終わってしまったんですが……悔しいです」
 それでも一度は逆転に成功した。公式戦勝利を飾ることはできなかったが、いくつもの不遇をかこちながらも、懸命に白球を追ってきた彼らを責める人間がどこにいようか。
「最高に悔いが残る一戦。でも、最高に誇れる一戦です」(梅田)
 ベンチの中では、前日に大ケガを負った河野が、仲間に向かって頭を下げ続けていた。
「最後の最後に、ケガしてしまって、ほんまにごめんな」
 そんな河野を、仲間の一人一人が抱擁していた。


 僕は12人になってしまったPL学園の野球部員たちが、公式戦で1勝もできなかったというのを知って、「最後はもう、モチベーションを失って、ボロボロになっていたのだろうな」と想像していたのです。
 しかしながら、この本を読んで、彼らは最後まで高いモチベーションを維持しつづけていたし、有望な選手もいて、「普通に戦えば普通に勝てる高校もたくさんあったのに、くじ運が悪くて、ひとつも勝てなかった、という面もある」ことを知りました。
 そして、周囲の思惑はさておき、彼ら自身はずっと「甲子園出場を目標とする、みんなと同じ高校球児だった」ということも。


 暴力事件による教団のイメージ低下への懸念やPL教団信者数の減少による教団の財政悪化などが廃部の原因となったのではないか、と言われていますが、最終的な決断がどのようになされたのかは、明らかにはされていません。
 かつての野球名門校でも、さまざまな原因でフェードアウトしていくことは珍しくないのですが、「新入部員募集停止による廃部」という明確な線引きがなされるのは、珍しいとも言えます。

 全国に400あった教会が半数以下になった。(橋本)統一は、教団に奉職していた頃、信者の実数を知ることのできる数少ない立場にあったが、「公称265万人とされた黄金期でも実数は約90万人」で、公称90万人とされる現在は「数万人程度でしょう」と証言した。それが事実であれば、あの広大な300万坪という敷地をどうやって管理し、信者数の減少によって生徒が減りゆくばかりの学園を同運営しているのか。
 PL学園高校の2015年度の入試では、外部受験者が28名しかいなかった。理文連結コースの競争倍率は、大阪の私立で最低の0.23倍。かつて高校だけで1000人以上が寮で暮らしたマンモス校の面影は既にない。
 翌2016年5月1日時点で、生徒数は三学年でわずか188人しかいない。もし仮に、野球部が復活して甲子園に出場したとしても、この生徒数ではアルプス席に人文字を作ることはとうていできない。
 元教団教師が証言する。
「野球部の廃部以前に、学校が廃校になるのではないかと危惧しています。老朽化した寮や短大の校舎を取り壊さないのも、学校経営がうまくいっておらず、資金繰りが苦しいからではないでしょうか。そもそも、教団の存続すら危ぶんでいる元教員も大勢います」


 栄枯盛衰は世の常ではありますが、あのPL学園、そして、PL教団は、ここまで凋落しているのか、と驚かされました。
 これでは野球どころではない、でも、PL学園から野球をとったら、何を再建の道しるべにしていくのか?

 「最後の部員たち」には、これからも野球を続けていく選手が多いようですし、彼らのこれからの人生に幸あれ、と願うばかりです。

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