琥珀色の戯言

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【読書感想】「司馬遼太郎」で学ぶ日本史 ☆☆☆☆

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)


Kindle版もあります。

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 NHK出版新書

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 NHK出版新書

内容(「BOOK」データベースより)
当代一の歴史家が、日本人の歴史観に最も影響を与えた国民作家に真正面から挑む。戦国時代に日本社会の起源があるとはどういうことか?なぜ「徳川の平和」は破られなくてはならなかったのか?明治と昭和は本当に断絶していたのか?司馬文学の豊穣な世界から「歴史の本質」を鮮やかに浮かび上がらせた決定版。


 僕も中学生から高校生くらいにかけて、学校の図書館にある司馬遼太郎作品をほとんど読破するくらいハマった記憶があるのです。
 その反動もあったのか、だいたい読みつくしてしまったからなのか、20代から30代くらいにかけては、いわゆる「司馬史観」に対して、「著者の主観が入りすぎていて、これは本当の『歴史』ではないのでは」と疑問になり、しばらく離れてもいたんですよね。

 これまで歴史学者が「司馬遼太郎」を論じることは、ほとんどありませんでした。現代の日本人の歴史観に最も影響を与えた作家であるにもかかわらず、学問としての歴史は司馬さんに触れてこなかったのです。
 大学生は面白いことに、大学教授の本よりも司馬遼太郎さんの本を多く読んでいます。しかし、大学の歴史講義では「あれは文学」とされて、教授と学生が司馬文学について語り合うことは、まずありません。
 その意味で本書は、歴史学者が「司馬遼太郎」をあえて正面から取り上げ、司馬作品から入って、体系的に戦国時代から昭和までの日本史を学ぶ珍しい本です。


 司馬さんが膨大な量の資料を読んで作品を書いていたことはよく知られていますが、あまりにも売れてしまったからなのか、エンターテインメント性が強いからなのか、学問の世界からはスルーされてきたところがあります。
 歴史小説の場合は、「どこまでが本当のことなのか」と疑問を抱き始めると、キリがないところもありますし。
 人間って、自分自身の過去の記憶でさえ改変してしまうことがあるのですから、昔の人が何をしたか、何を考えていたのかなんて、わかるわけもない。
 昭和の後半を生きた僕としては、「そんなに明治時代の日本人ばっかり偉かったのか?」と思うところもあって。


 この本では、歴史家の磯田道史さんが、司馬遼太郎さんはどのように「歴史」をとらえていて、何を描こうとしていたのかを考察しておられます。
 これを読んでいくと、僕が「ちょっと古臭い」と感じていた司馬遼太郎作品が、なぜずっと読み継がれているのかが、理解できたような気がしました。

 戦争体験を持つ司馬さんは、「なぜ日本は失敗したのか」「なぜ日本陸軍は異常な組織になってしまったのか」という疑問から、その原因を歴史のなかに探りました。


 司馬さん自身は、小説として昭和の時代を描くことはなかったのですが、この「なぜ軍部が暴走し、太平洋戦争という失敗をおかしてしまったのか」を探る、というのが、司馬作品の大きなテーマなんですね。
 

 司馬さんは、歴史上の人物の好き嫌いについては、あまり語らなかったそうです。その一方で、作中で登場人物をけっこうはっきり評価しているしてもいるのです。

 たとえば一般的な小説では、主人公の性格が明るいか暗いかとはっきり書くより、明るい面もあれば暗い面もあるというように、人間の抱える矛盾を描くことが重要視されます。しかし、司馬さんの場合は、信長という人物の内面を描くより、信長という存在が与えた社会的影響を明らかにするほうが大事でした。ですから、あえてその人物の性格や資質をひと言で定義します。「いずれも二流の人物である」「無能であると言ってよかった」とはっきり書く。人物評価に対する言明が明確な点が司馬文学の特徴です。それで面白がられている部分があります。
 ただ気づいていただきたいのは、そうした低い評価を与えられる人物は、その作品中である「役割」を与えられています。つまり、その人が有能であってはいけない。もしかしたら軍事指揮や政治で「二流」と書かれた人物が、じつは手芸や書では一流だったかもしれませんが、そうした多様性は取り敢えず置いておき、社会に与えた影響という面で大雑把に人物を切り取るところが司馬作品のひとつの特徴なのです。
 司馬さんの描く人物像を史実ではないと言う人がいますが、それは一面的には正しい。しかし先に述べたように、司馬さんは大局的な視点、世の中に与えた影響という点から、可能なかぎり単純化して人物評価していることを理解しなくてはなりません。司馬作品を読むときには、一定の約束事、言わば「司馬リテラシー」が必要なのです。


 司馬作品には、魅力的な人物がたくさん登場するのですが、司馬さんが本当に描きたかったものは「歴史の流れ」のようなもので、個々の歴史上の人物には、あまり入れ込まないようにしていたような気もします。
 僕は『竜馬がゆく』を読んだとき、竜馬が暗殺され、物語が終了していく場面が、かなりあっさりしているのが、ちょっと気に入らなかったのです。そのときは、司馬さんは竜馬に思い入れが強すぎて、死ぬところを長々と書きたくなかったのかな、と思ったのですが、あらためて考えてみると、そういう「お涙頂戴的な演出」をあえて避けたのかもしれませんね。


 著者は、司馬作品のなかで、大村益次郎を主人公にした『花神』を最高傑作のひとつとして紹介しています。

 では、司馬さんが大村益次郎の人物像について、どのように語っているかを見てみましょう。

「無口な上に無愛想で、たとえば上野の山の攻囲戦のとき、最激戦地と予想される黒門口の攻撃を薩軍にわりあてた。軍議の席上、西郷があきれて、『薩軍をみな殺しになさる気か』と問うと、『そうです』と答えたという」(『この国のかたち』四、80「招魂」)


「大村は、農民の出でもあって、諸藩の士がもつ藩意識には鈍感で、むしろ新国家の敵と心得ていた。/武士をさえ、尊敬しなかった」(同前)


 ここで描かれているのは、大村の、信長をさらに発展させたような合理主義です。身分制度にも大して興味がなく、便利であれば、既存の価値を捨ててすぐに新しいほうに乗り換える。高度経済成長期の1960年代から70年代にかけて、復員軍人をはじめ戦争体験のある世代には、こうした大村の在り方への共感はとても強かったと思います。
 解剖学者の養老孟司さんが次のようなことをおっしゃっていました。日本人というのは、とにかく戦争で目に見えない「思想」というものに痛めつけられた。神州不滅--日本は神の国だとか、七生報国--七回生まれ変わっても国に尽くすといった思想をさんざん吹き込まれ、ひどい目に遭った。だから、ちゃんと目に見える、即物的なものを信じる合理的な世代が生じて、高度成長期のときに一気に物質文明に向かったのだ--と。
 非常に説得力のある指摘だと思います。司馬さんもその一人だったのかもしれません。司馬さん自身が、敵味方の戦力の差や軍艦の性能を比較して論じるのではなく、「精神力で突撃せよ」という非合理的な精神論で戦車に乗せられ、九死に一生を得たわけです。であればこそ、即物合理主義を訴える必要と、それを重んじる哲学を抱くに至ったのです。その体現者として、司馬さんは大村益次郎に出会いました。
 非合理的な組織と化した日本陸軍をつくった非常に合理的な人物との邂逅--それが『花神』という傑作を生み出した原動力だと私は思います。


 そう言われてみると、司馬遼太郎作品では、織田信長にしても、坂本龍馬にしても、非合理的な時代、あるいは組織のなかに生まれた合理主義者が、化学反応を起こして時代を変えていくんですよね。
 それがテーマとなったのは、司馬さん自身、そして太平洋戦争を体験した日本人が「不合理な精神論」に苦しめられた、ということが影響しているのでしょう。
 今のように「合理主義が異端ではなくなった時代」では、司馬文学は、読者に訴える力が少し弱くなってしまうのかもしれません。


 この本を読むと、「わかったつもり」だった司馬遼太郎作品を、もう一度読み返してみたくなります。
 いまの時代に読むと、また違った読み方ができるのではないか、という気がするんですよね。


花神(上中下) 合本版

花神(上中下) 合本版

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