琥珀色の戯言

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【読書感想】「考える人」は本を読む ☆☆☆☆

「考える人」は本を読む (角川新書)

「考える人」は本を読む (角川新書)


Kindle版もあります。

「考える人」は本を読む (角川新書)

「考える人」は本を読む (角川新書)

内容(「BOOK」データベースより)
仕事も勉強も人間関係も、困ったときはまず「検索」。便利さとひきかえに失っているのが、自ら考える時間かもしれません。読書の海を泳ぎ続けてきた著者が「考える」をテーマに25冊を厳選。きっと大切な一冊に出会えます。


 このタイトルをみて、正直、押しつけがましい「読書至上主義者の自画自賛本」だと思ったんですよ。
 でも、読み始めてみると、著者が選んだ本も、語り口も、説教臭いものでは全然なくて、本が好きな人なんだということが伝わってきました。
 著者が長年出版業界に身を置いてこられたこともあり、紹介されている本のなかには、それぞれの書き手との思い出がつづられているものもあります。
 また、個々の本への感想だけでなく、ひとつのジャンルのなかでの、その作品の位置づけが説明されているものもあり、既読のものでも、他の関連本にも手を伸ばしてみようかな、と思えてきます。


 映像技術の進歩によって、それまでは現地で観戦するか、ラジオで音だけを聴くか、文字で結果を確認しするかなかったスポーツの「プロセス」を、多くの人が視覚的に体験することができるようになりました。

 アスリートたちの内面--研ぎ澄まされた感覚と、メンタルに繰り広げられる自分との闘いの内実が、未知の領域としてそのまま残されます。観客という所詮は傍観者の立場であるにせよ、より過激に<見る>ことに徹しようとするならば、目の前のシーンを鋭く感じ、それを<読む>必要がありました。その言葉への渇望がかつてないほどに高まって、器のふちから危うくこぼれそうになったのが、ちょうど1980年前後だったと、いま改めて思います。
 沢木耕太郎氏の『敗れざる者たち』(文藝春秋、1976年)がひとつの転機でした。その後、ヤクルトスワローズを初優勝に導いた広岡達朗氏をモデルにした『監督』(海老沢泰久、新潮社、1979年)や、「プロレスは、真面目に見るものでも、不真面目に見るものでもない。では、どうすればよいのか? プロレスは、そう、クソ真面目に見なくてはならないのだ」という村松友視氏の『私、プロレスの味方です--金曜午後八時の論理』(情報センター出版局、1980年)が現われ、さらには文芸誌「海」(中央公論社)を舞台に、その特異なレトリックで読者を幻惑した謎の女性ライター草野進氏(代理人は作家・仏文学者の蓮實重彦氏)の『どうしたって、プロ野球は面白い』(中央公論社1984年)など、この時期に見るべき作品が次々と生まれました。 <見る>ことと<読む>ことの循環が、スポーツの世界をかつてない人間のドラマとして”再発見”させるのです。
 その一瞬のドラマのきらめきは、無名のアスリートたちの上にも訪れました。『スローカーブを、もう一球』でも引かれているのは、ヘミングウェイの台詞です。「スポーツは公明正大に勝つことを教えてくれるし、またスポーツは威厳をもって負けることも教えてくれるのだ。要するにスポーツはすべてのことを、つまり、人生ってやつを教えてくれるんだ」。


 山際淳司さんの『スローカーブを、もう一球』の初版本の発行日は、1981年の8月31日だそうです。
 僕は、山際さんの影響を受けたスポーツライターたちが書いたものを先にいろいろ読んでから、山際作品に触れたのですが、当時、リアルタイムで接した人たちの興奮が伝わってきます。
 著者が、山際さんを「もっと長生きしてほしかった大事な友人の一人」と仰っているのが、すごく印象に残りました。
 著者は、生前の面白いエピソードや仲良しアピールではなく、作品で盟友を語っているのです。


 『姉・米原万里』(井上ユリ著・文藝春秋)の回では、著者と、米原さんの思い出が語られます。

 面白くて、あっという間に読み終わってしまいそうで、それが唯一の心配でした、もったいない……。ところが案に相違して、途中からゆっくりしたテンポになりました。
 というのも、ありし日の万里さんの面影を、ついあれこれと思いめぐらせ始めると、いつの間にか心がページを離れたからです。とりわけ初めて万里さんに会った頃の面影です。彼女は東京外国語大学を卒業後、いったんは小さな出版社に勤めましたが、1年後に東大の大学院生としてまた学生の身分に舞い戻り、ロシア文学の勉強を続けていました。3歳年少の私は、同時期に学部生として同じ研究室に在籍しました。40年も前ですが、本書のおかげでいろいろな場面が甦ります。

 この姉妹は、食いしん坊であるのが共通点ですが、未知の食べ物に対する態度は対照的でした。勇猛果敢な著者に対し、「知らないもの、食べなれないもの」には非常に慎重な姉。「ちょっと怖じけて、二の足を踏んだ」という性格は、自らの進路をめぐってもそうでした。
 それでハタと思い出す表情があります。米原さんといえば、豪快、大胆の姉御肌で、いわば怖いものなしのゴッドマザー的存在と見られました。とくに亡くなる前の10年ほどは、その”迫力”と”大物ぶり”が代名詞でした。ところが、大学院生時代の彼女には、そういう印象は希薄です。人が良くて、派手で大柄(化粧もファッションも目立つし、体もグラマー)ではあるけれど、むしろ繊細で、どこか不安そうで、さびしがり屋の表情が強く印象に残っています。


 あの米原万里さんが「ときどき話をする、ちょっと気になる異性の先輩」だった人がいた。
 著者が語っている、米原さんの素顔と、秘められていた可能性を読んで、僕はもう一度米原さんの作品と、この『姉、米原万里』を読み返してみたくなりました。
 

 あと、ランス・アームストロングさんの『ただ、マイヨジョーヌのためでなく』を読んで感銘を受けた著者が、ドーピング疑惑に対しての困惑を書いている回も印象に残りました。

 本書の言葉が、今後も輝きを失わないでいてほしいと願わずにはいられません。


 この本でのアームストロングの闘病と復活、「ツール・ド・フランス」制覇があまりにも劇的で、記憶に残るものであるだけに、僕も「感動を返せ!」みたいな気持ちになったんですよね。
 というか、どうせ騙すなら、騙し切ってほしかった……ような気もします。
 厳しい闘病生活に耐え、癌を克服したのは本当なのだと思う。
 でも、ドーピングの事実を知ってしまうと、彼がこれまでやってきたことすべてが、嘘のように感じられてしまう。
 ノンフィクション、だからこそ、裏切られる怖さもあるのです。


 本好きの人なら、著者に自分を重ね合わせられるところが多い書評集だと思います。
 紹介されている本にも魅力的なものが多くて(というか、すごく魅力的な紹介なんですよ)、僕も『小倉昌男 祈りと経営』と、『さもなくば喪服を』をさっそく買ってしまいました。


姉・米原万里 思い出は食欲と共に (文春e-book)

姉・米原万里 思い出は食欲と共に (文春e-book)

さもなくば喪服を (ハヤカワ・ノンフィクション・マスターピース)

さもなくば喪服を (ハヤカワ・ノンフィクション・マスターピース)

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