琥珀色の戯言

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【読書感想】笑福亭鶴瓶論 ☆☆☆☆☆

笑福亭鶴瓶論 (新潮新書)

笑福亭鶴瓶論 (新潮新書)


Kindke版もあります。

笑福亭鶴瓶論(新潮新書)

笑福亭鶴瓶論(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
鶴瓶こそが“最強”の芸人である―。大物と対等にわたりあう一方で、後輩にはボロクソにイジられる。全国を訪ねて地元の人々と交流した翌日には、大ホールで落語を一席。かくも老若男女に愛される「国民的芸人」の原動力とは何か。生い立ちから結婚、反骨の若手時代、「BIG3」との交遊、人気番組「家族に乾杯」秘話まで、その長く曲がりくねった芸人人生をたどり、運と縁を引き寄せるスケベで奥深い人生哲学に迫る。


 笑福亭鶴瓶という人は、本当に不思議な芸人だよなあ、と思うのです。
 鶴瓶さんといえばこれ、という持ちネタがあるわけではなく、人の好さと座持ちの良さで、なんとなく生き残っている人なのではないか、という感じもしていたんですよね。
 この本を読むまで、僕はいま、鶴瓶さんが古典落語の高座を年間100回もこなしているなんて、まったく知りませんでしたし。
 しかも、それが知られていないのは、鶴瓶さんが、自分の落語のCDやDVDを生前は表に出すことを許していないから、なのだとか。
 僕は落語初心者なのですが、落語家・笑福亭鶴瓶の噺を一度聴いてみたいな、と思うのです。


 この新書では、著者が、鶴瓶さんに関する、さまざまなエピソード(の中でも、信ぴょう性が高いもの)を集めてきています。
 そういう事実の積み重ねこそが、「笑福亭鶴瓶という不思議な芸人の全体像、みたいなものを浮かび上がらせてくるような気がしてくるのです。
 著者も、鶴瓶さんの場合は、誰かが主観をこめて論評すればするほど、そこから、するりと逃げてしまうように感じていたのではないでしょうか。

 鶴瓶は基本的にサインを断らない。
「言うとくけど、俺、日本で一番サインしてるよ。二千円札より俺の方が多いわ(笑)」
 と鶴瓶はうそぶく。
 映画の撮影などで長期間同じ場所に滞在すると、最後には1世帯につき2~3枚以上のサインを書くことも少なくないという。
 一度、変わった名前の人にサインを書いた。普通の名字の前に『コ』という一文字がつくのだ。
 漢字を聞き返すと「故」だという。
一家に一つ、誰々さん、誰々さんで、死んだ人にまでサインを書いたんですよ」
 もう家族みんなにサインをもらったのであろう。既に亡くなった故人へのサインまで頼まれたのだ。映画撮影期間、ロケ地周辺の文房具屋から色紙が消えたという。
 求められたら拒まない。サインには積極的に応じ、声をかけられれば家にも上がり、トイレはおろか風呂まで借りることさえある。
 映画『ディア・ドクター』(2009年公開)の撮影時には、こうした鶴瓶の態度によって、「市が一つになった」とロケ先の市長が評したほどだ。


 そんな「ファンサービス伝説」が語られる一方で、こんな話も著者は紹介しています。
 鶴瓶さんは、明石家さんまさんとさんまさんがデビューしてからすぐの頃からの付き合いだそうなのですが、二人がまだ若かりし頃、こんなことがあったそうです。

 まだ二人が大阪に住んでいた頃、鶴瓶が前述の『ミッドナイト東海』出演で名古屋に、さんまが東京に、同じくラジオの仕事に行く新幹線で鉢合わせになることが多かった。
 駅のホームにはファンが集まっていた。そのファンに向かって鶴瓶は会釈をし、愛嬌を振り撒いていた。
 さらに鶴瓶は、そんなファンから差し入れにおにぎりをもらった。新幹線が発車するまでの間に、鶴瓶はそのおにぎりを頬張った。
 ファンからもらった食べ物は食べられない、と訝しむさんまに向かって鶴瓶は言った。
「たしかに何か変なものが入ってるかもしれんしな。俺も怖いよ。でもな、俺はファンを信じてこれを食べんねん。見てるとこで食べると喜んでくれるやろ。芸人は喜んでもらってなんぼや。俺はファンを大事にしたいねん」
 新幹線が発車し、ファンが見えなくなると、食べかけのままそのおにぎりをしまった。「もう食べないのか」と問うさんまに鶴瓶は当たり前のように言って笑った。
「見てないところで食べてもしゃあないがな。俺は今、あんまり腹空いてないねん」
 そんな鶴瓶の言動にさんまは呆気にとられるとともに、感心したという。


 このふたつのエピソードを聞いて、「なんだ、そんな裏表がある人だったのか」と、がっかりする人もいるかもしれません。
 でも、僕はこの後者を読んで、なんだか、ちょっと安心したんですよね。
 なんだ、鶴瓶さんも、聖人君子じゃなくて、ひとりの人間なんだな、って。
 鶴瓶さんというのは「表裏があっても、ファンや一般の人には表しか見せないことを自分に徹底的に課している」のです。
 そして、それを習慣づけているうちに、ファンサービスとして努力してやっていることなのか、性格として身についてしまったのか、自分自身でもわからなくなっているようにもみえます。
 「黒さ」が全く感じられなかったら、鶴瓶さんというのは、ここまで魅力的な人ではないのかもしれません。


 鶴瓶さんは、若かりし頃は納得できない扱いに対しては、徹底的に喧嘩をしたり、ラジオ番組でリスナーの家族と言い争いをしたり、局部露出事件で長年テレビ東京を出入り禁止になったりもしています。
 温厚そうにみえるけれど、「事なかれ主義」の人ではない。
 奥様とのなれそめや、その後の関係についても、大変勉強になるというか、身につまされます。
 鶴瓶さんほど忙しい人にできるのなら、僕にだってできることはたくさんあるよなあ、って。
 

 2011年の東日本大震災のときも、いち早く鶴瓶は『家族に乾杯』で以前訪れた場所を再訪問した。
 会う人、会う人、おばあさんから小さな子供までもが「鶴瓶や!」と言って駆け寄り、元気になってくれた。
 その姿を見て「僕を見たら喜んでくれる。そんな存在になりたかった」という思いをさらに強くした。
 のちに鶴瓶はアイドルグループ・ももいろクローバーZにこんな言葉を贈っている。
「震災のたびに自分が力のないことを痛感するんですけど、すべて言えるのは、むこうに行ったら『鶴瓶さん!』って寄ってきてもらえる。”すぐに分かる力”っていうのが大事なんで、マスコミは本当に大事ですよ。だから絶対にマスコミから外れたらダメですよ。
 いかにミッキーマウスに近づくかですね。ミッキーマウスって分かりやすいじゃないですか。どこへ行ってもミッキーマウスくらいの威力があったらいいなぁって思いますんで、だから僕はテレビから去らないでしょう。絶対テレビは大事なんですよ」
 鶴瓶は「求めるな、与えよ」を実践するためにテレビに出続け、顔を売る。
 それこそが、鶴瓶の考える芸能人の本懐なのだ。

 
 「ここまで他人に愛されたくて、芸能人をやっている人」って、少ないんじゃないかと思うんですよ。
 もちろん、自己実現とか有名になりたい、という理由で芸能界に入る人は多いのでしょうけど、成功していくと、お金であったり、名誉であったり、「自分自身の具体的な欲望を満たすこと」にシフトしていくケースが多いのではないでしょうか。
 ところが、鶴瓶さんは、自分の知名度を「人に愛され、人を幸せにするため」に利用しつづけているのです。


 著者は、鶴瓶さんの長寿番組『家族に乾杯』のロケに密着したことがあり、そこで、鶴瓶さんの「作らないことへのこだわり」に驚いたそうです。

 スタッフはロケハンには行くが、それは土地勘を掴むためだけ。事前に『家族に乾杯』のロケが来ることが絶対に漏れないように役場の担当者など必要最低限の人にしか伝えない。ロケに密着する僕たち取材班にも直前まで具体的な行き先は秘密だった。移動もいわゆるロケバスではなく、地元の大型タクシーを使う。だから、そのタクシー1台に乗れるだけの必要最小限のスタッフしか帯同しない。ゴールデンタイムの番組として異常なほどスタッフが少ないのだ。
「作ったらアカンのです。見る人には、わかる。”あざとい”と感動できない。面白いものは、後からできあがるんです。段取ったらダメなんですよ」


 テレビでは「ゆるい」イメージが強いけれど、譲れないところは、絶対に譲らない人でもあるのです。
 さまざまなエピソードを読めば読むほど、「本当はどんな人なんだろう?」と、わからなくなっていくんですよね。
 どこまでがウソで、どこからが本心なのか。
 もしかしたら、人間なんて、虚実入り乱れているのが「普通」であって、あとは、どこまで自分を律して、あるいは鼓舞して、演じ続けられるか、なのかもしれませんね。
 自分も演じていることを忘れてしまう演技なら、それは「人柄」と同じなんだよなあ。

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