琥珀色の戯言

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【読書感想】文学の読み方 ☆☆☆

文学の読み方 (星海社新書)

文学の読み方 (星海社新書)

内容紹介
''錯覚,,と苦闘する、日本近代文学の一〇〇年史
いったい、日本の文学とは何なのでしょう? 本書の出発点は、そんな素朴な疑問にあります。明治以来一〇〇年以上に及ぶ歴史がありながら、具体的で納得できる「文学」の定義はどこを探しても見つかりませんし、権威ある文学賞の授賞基準もいまだに一定しないようです。なぜ、日本の文学はこんなふうになってしまったのでしょう? 実は、その原因は「文学は現実を描ける」「文学は人間を描ける」といった、いくつもの“錯覚”にあるのです。本書では、それらの錯覚がどのように生まれたのか、各時代の史料から確認しつつ、日本近代文学史を記述していきます。さあ、ともに教科書では語られない、秘められた文学史をさぐる旅に出ましょう!


 著者は、又吉直樹さんの『火花』が芥川賞を受賞した際、『火花』の「文学性」が議論されたことに言及しています。
 和田アキ子さんが、『火花』に対して、

「よく皆さんおっしゃるのは、すごくやっぱりあの“純文学の匂いがする”とかね、“文章に純文学を感じた”とかって……。(しかし自分は)何も感じなかったけど」

 とコメントし、それによってバッシングされたそうです。
 では、その「文学」とは何なのか?

 しかし、ちょっと疑問が残ります。ならば『火花』は200万人にもわかるような文学としての特徴を備えているのに、和田アキ子にはそれがわからなかったということでしょうか? じゃあ彼女が本来感じるべきだったその「文学性」とは、一体どのようなものなのでしょうか。


 それを知るために、僕はこれまで日本で文学であると語られてきた作品やその評価をあれこれ読んで、人々が何をもってある作品が文学であると認定してきたのかを調べてきました。
 ところが困ったことに、それらを読んでも何が文学であるかはよくわからなかったのです。文学について書かれた書物は膨大な数がありますが、みな言っていることがバラバラで、数学や科学法則のように「これこそが文学だ」という系統だった基準が示されることはありませんでした。


 芥川賞の選考基準については、内容云々よりも、選考対象となる文芸誌に掲載されていること、という条件があるようなのですが、「文学とは何か」となると、はっきりとした「定義」は無いのでは、というのが、著者が「文学の歴史」を丹念に追いかけて達した結論なのです。


 ただ、この新書のなかでは、「文学の定義」にとどまらず、「みんなが『文学』だと思い込んでいるもの(錯覚しているもの)は何か?」まで、踏み込んで議論がなされているのです。

 日本文学に染みついたふたつの錯覚の成り立ちについてお話しします。具体的に言うと、そのふたつとは


(1)「文学とは、人の心を描くものである」
(2)「文学とは、ありのままの現実を描くものである」


 というものです。本書ではこれを、「文学的錯覚」と呼ぶことにしましょう。では、これらの錯覚はどのように生まれたのか?


 明治の文学、坪内逍遥二葉亭四迷から夏目漱石森鴎外、そして、芥川龍之介太宰治をへて、村上春樹村上龍へ。
 著者は、芥川賞の選評や文芸評論家の言葉などを引きながら、「文学とは何か」「人の心を描くというのは、どういうことなのか」の時代にともなう変遷を折っていきます。
 いつの時代も「文学とは」「人の心を描くとは」「現実を描写するとは」という問いは繰り返されているのだけれど、それに対する明確な「答え」は出ていないのです。
 自分の内面を露悪的に書けば「文学(純文学)」なのか? 
 社会問題を書けば「現実を描いている」ことになるのか?
 そんな単純なものじゃないだろう、と言いたくもなりますが、現実問題として、そういうふうに考えられているところもあるのです。


 石原慎太郎さんの『太陽の季節』は、その内容の「反倫理性」もあって大きな話題をよび、当時の大ベストセラーになりました。
 若手作家のプロモーションとしての芥川賞、が成立したのも、この『太陽の季節』からだったんですね。
 その「反倫理的」な作品を書いた人が長年東京都知事を務めてきたというのも、なかなか興味深いところはあります。

 江藤惇は、小説に描かれる個別の文化は、その背景にある文化全体を意識しながら描かねばならない、としていました。さもなくば、文学は単に個々の文化を反映したもの——すなわち現実のごく一部を見て、それを文字に直しただけのものになってしまう。
 しかし、言い換えればもともと文学というのは、常に現実の一部を文字に直すことくらいしかできないはずなのです。文学は現実そのものを描けないのだから、ましてその全体なんて描けるわけがない。
 村上龍の小説は、その事実を暴いてしまうものだった。それはつまり、もはや文学に携わる者は作者であろうと読者であろうと、みんなの共通理解としての「文化全体」や「社会全体」を想定できなくなってしまった、という意味です。
 誰もが現実の一側面しか見ることができず、全体を把握することはできない。日本文学が「流れの断絶」を迎えたというのは文学史の大きな潮流がなくなってしまったという意味ですが、言い換えればそれぞれの作品がそれぞれ個別の現実を描いてしまい、複数の流れに拡散してしまったということです。


 著者は、「文学のサブカルチャー化」、文学が現実を描けないということが自明になったことが「文学の限界」であり、「文学の不振」につながっていると考えておられるようです。
 これを読んでの僕の率直な感想は「えっ、そんなの、あらためて本を出して言うような目新しいことじゃないのでは?」だったんですよ。
 これだけいろんな人がいる世の中で、「社会全体」なんて、ひとつの作品で描けるわけないってことは、みんなわかっているんじゃないか、って。


 ただ、それは僕がこの村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』が芥川賞を獲ったくらいの時期に、ようやく本を読める年齢になった世代で、「サブカルチャー化」が既成事実として成り立ってしまった時代を生きてきたから、なのかもしれません。
 個人的には、「なんか自分のことが書いてあるような気がする」あるいは、「世の中にはこんな人がいるのか、と納得できる」というくらいで、十分「文学」だと思うのです。


 著者は「ゲームのような小説」や「リアリズムとは何か」についても言及していて、大変興味深い内容でした。
 「フィクション」こそが、現実を知るきっかけになるというのは、わかるような気がするのです。
 気になるかたは、ぜひ書店で手にとってみてください。
 僕はこれを読んでいて、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』という映画のことを思い出していました。
 これは、スコット・フィッツジェラルド(『華麗なるギャツビー』を書いた人でもあります)の短編小説をもとに映画化されたものなのですが、普通の人間とは逆に、老人として生まれ、どんどん若返っていく男の人生を描いています。
 現実には、そんな人はいないのですが、僕はこれを観ながら、「ああ、自分にとって大事な人と一緒に年を取れる、老いることができるというのは、幸せなことなのかもしれないな」と思っていました。
 そういうのって、直球で、「一緒に年を取れるって、いいですよね」って言われても、いまひとつ実感できないけれど、この作品で「そうじゃない場合はこうなる」ことを見せられることによって、「現実のありがたさ」みたいなものを知ることができるのです。


 率直なところ、なんだかやたらと話をややこしくしているだけなのではないか、と感じる部分もあるんですよ、この本。
 でも、そういうのが、まさに「文学っぽい」のかもしれません。
 悪口を言っているつもりじゃなくて、僕自身にもそういうところはあるなあ、と思うんですよね。


fujipon.hatenadiary.com

ベンジャミン・バトン 数奇な人生 [Blu-ray]

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新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

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