琥珀色の戯言

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【読書感想】怖い絵 ☆☆☆☆

怖い絵 (角川文庫)

怖い絵 (角川文庫)


Kindle版もあります。

怖い絵 (角川文庫)

怖い絵 (角川文庫)

内容紹介
残酷、非情で甘美……名画の“怖さ”をいかに味わうか。「特に伝えたかったのは、これまで恐怖と全く無縁と思われていた作品が、思いもよらない怖さを忍ばせているという驚きと知的興奮である」。絵の背景にある歴史を理解してこそ浮き彫りになる暗部。絵画の新しい楽しみ方を提案して大ヒットした「怖い絵」シリーズの原点が、満を持しての電子書籍化。ドガの『エトワール』、ラ・トゥールの『いかさま師』など全22作の隠れた魅力を堪能!


電子書籍版の絵画はすべてオールカラーで収録されています。


本書には、紙版に収録されていた以下の2点の絵は収録されておりません。
フランシス・ベーコン「ベラスケス〈教皇インノケンティウス十世像〉による習作」
岸田劉生切通之写生」


 2017年12月17日まで、東京・上野の森美術館で開催されている『怖い絵』展、すごい人気みたいです。


www.kowaie.com


 人は「怖いもの」に惹き付けられる生き物なのか、それとも、絵の「背景」を知ると、その絵にあらためて興味がわいてくるのか。
 あまりに『怖い絵』シリーズや関連作品がたくさん刊行されているので、どれがどれなんだか……という感じではあるのですが、この『怖い絵』が、原点というか、最初の一冊になります。
 この時点では、後のシリーズのことなど考えていなかったでしょうから、まさに「当時のベスト・オブ・怖い絵」ですね。


 ここで紹介されている絵の「怖さ」には、さまざまな理由があるのです。


 ゴヤの『我が子を喰らうサトゥルヌス』やアルテミジア・ジェンティレスキのように、描かれている題材が「怖い」ものもあれば、ムンクの『思春期』のように「怖いというか、漠然とした不安にさいなまれる」という作品もある、ドガの『エトワール、または舞台の踊り子』なんて、どこが「怖い絵」なのだろう?という感じなのですが、著者が紹介している「この絵の背景」を読むと、華やかな舞台の裏側の現実を思い知らされます。

『エトワール、または舞台の踊り子』へもどろう。背後の書割りの陰にたたずむこの男は、着ている夜会服からして舞台関係者ではなく、上演中の舞台に平気で立っているところから報道関係者でもない。つまりエトワールのパトロンである。これは当時の人々には一目瞭然だったろうが、現代の我々、バレエを洗練された芸術と考えている者には、なかなか見えてこない側面だ。いやにくっきりした黒が使われていながら、目に入ってこないのだ。ところがこうしたことを踏まえて見直すと、エトワールの首に巻かれたリボンの色もまた、紳士の眼と同じ鮮やかな黒で描かれているのが目にとまる。まるで金で縛られていることの象徴のように……。
 しかしもちろんドガは、当時流行のファッションとしてリボンを描いたにすぎない、がちがちの身分制社会の上方に属していた彼は、その階級の男性が持つ常識内にいた。要するに今の基準で言えば、踊り子に対する偏見を持っていた。この時代は観相学全盛でもあり、階級やら犯罪傾向は顔で判断できると信じられていたので、ドガは彼女たちの顔をことさら醜く描き、それが労働者階級特有の顔であることを示した、との説まであるくらいだ(それに関しての判断は日本人には難しい)。


 美しいエトワール(プリマ・バレリーナ)を描いた作品のはずなのだけれど、よく見てみると、舞台の袖に、ひとりの男がいて、彼女に顔を向けているのです。
 絵というのは写真ではないから、描かれているものすべてに、描いた人の「意思」がある。
 あえて、パトロンの姿を描いたドガの心のうちを想像すると、たしかに、ちょっと怖い。


 ムンクの『思春期』というのは、裸のあどけない少女から、大きな黒い影が伸びているのが印象的な絵です。
 僕はこの絵の実物をオスロ美術館で見たことがあるのですが、なんだか「正視するのが憚られる絵」だと感じました。まあ、異国とはいえ、少女の裸をジロジロ眺める中年男、と見なされるのは避けたかったですし。

 ムンクは5歳で母親を亡くした。結核だった。次いで14歳のとき、同じ病気で姉を失う。以来、父親は狂気に近い信仰心の虜となり、ムンクを怯えさせる。その父もムンクが26歳のとき死去し、やがて弟も亡くなり、妹は精神病院に入れられた。「病と狂気と死がわたしの揺りかごの上を漂い、生涯にわたってわたしにつきまとう黒い天使となった」との彼の言葉は、誇張でも何でもない。ムンク本人も子ども時代は虚弱だったし、長じては不安神経症や被害妄想に苛まれ、過度の飲酒、いくつもの女性問題まで抱えた。一度など愛人とのもつれからピストルが暴発し(殺されかけたとも言われる)、左手の指の一部が吹き飛ばされている。
 このように死と狂気への不安がつねにかたわらにあったため、とうとう彼は45歳で自ら進んで精神科へ入院するに至る。この決断は奏功し、心身の健康をとりもどして退院するのだが、皮肉なことに、それ以降81歳の高齢で亡くなるまで、もはや見るべき作品を残すことができなくなった。病める魂が鎮まるとともに、ムンクの天才も消えてしまったのだ。精神の死である狂気を恐れていた間は切実な表現が可能だったのに、その必要がなくなったとたん芸術の死を迎えるはめになった(幸か不幸か……)。


 国立新美術館で開催された『ミュシャ展』の「スラブ叙事詩」を観ながら考えていたのですが、画家が描く絵というのは、必ずしも、本人が本当に描きたかったものとか、精神的に安定していたときにできあがったものが世間や後世から評価されるとはかぎらないんですよね。それは、画家に限った話ではないのかもしれないけれど。
 大部分の人は、「メンヘラ」を敬遠するのだけれど、アートとしては、精神的に不安定な人の作品がもてはやされることが少なくないのです。
 そういう人々の感情というのも「怖い」ですよね。


 マリー・アントワネットが、動物死体運搬用の荷車に乗せられて、見世物にされながら刑場に運ばれていく様子をダヴィッドがスケッチした『マリー・アントワネット最後の肖像』という絵は、ラフに、写実的に描かれているだけに、「描いている側の心境」みたいなものを考えてしまいます。

 ダヴィッドの眼には死にゆく人しか映っていない。すばやい大胆な線で描写されたアントワネットの孤独な姿、仮面のような表情、何も見まい聞くまいとするその様子から、しかしかえって強く周囲の喧噪が伝わってくるようだ。画面の空白部分を埋めるはずの群集やギロチンも見えるし、彼らの憎悪や好奇心さえ感じとれる気がする。
 ここには、すべての虚飾をはぎとられた女性がいる。必要以上に辱めを受ける、堕ちた偶像がいる。かつて「ロココの薔薇」と讃えられた彼女の、華やかに着飾った肖像画の数々を見慣れた目には、まさに衝撃的といっていいほど残酷な絵だ。リアルだからというより、描き手の悪意が感じられるからだ。ラフなスケッチとはいえ練達の筆によって、さりげなく欠点が誇張され、美化ならぬ醜化がなされている。女性なら誰であっても、決してこんなふうには描かれたくないと思うだろう。こんな姿を後世に残されるのは嫌だと思うだろう。


 それでも描きたい、という画家の本能なのか、マリー・アントワネットへの憎悪が筆をとらせたのか?
 ただ、この絵を見ていると、「醜化」されているはずのマリー・アントワネットが、「最期まで背筋を伸ばして最低限の威厳を保とうとしている気高い人」のような気がしてくるし、こんな絵を描くやつはゲスだな、という感じもするのです。
 描くひともまた、他者から、歴史から、見られている、ということなのでしょう。


 「怖い絵」が魅力的なのは、人間が基本的に「怖い生き物」だから、なのかもしれませんね。


「怖い絵」で人間を読む 生活人新書

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