琥珀色の戯言

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【読書感想】競争社会の歩き方 - 自分の「強み」を見つけるには ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
怒った人は、リスクを過小に評価し、悲しんでいる人は利益を重視して他者と協力しなくなる。感情が経済行動にどう影響するかを理解すれば、競争社会を有利に生き抜けるかもしれない。競争社会というと、日本では否定的にとられることが多い。しかし、「競争が少ないと、自分の本当の長所を知ることができない。競争のおかげで私たちは自分の長所を見つけることができる。私たちは、下手に自分探しをするよりは、競争にさらされたほうが、自分の長所を知って創意工夫ができるようになるはずだ」と著者は言う。需給バランスを満たすルール作りの難しさがよくわかるチケット転売問題から、国が取り組む女性活躍推進、社会保障給付の問題まで。競争社会が抱える課題にヒントを与える一冊。


 新自由主義が悪い、競争社会の弊害が人を追い詰めている……
 僕もそんなふうに感じることが、少なからずあります。
 その一方で、本当に競争がない社会というのを考えてみると、「頑張っている人とそうでない人が同じ成果しか受け取れない」のは、かえって「不公平」にも思われるんですよね。
 ソ連という共産主義を標榜した国家の失敗をみても、人間は「自分もみんなも全部同じにする」というシステムを運用することができないのではないか、という気がします。


 著者は、「競争」についての話をするために、身近な例として、「チケット転売問題」を例にあげています。
 ミュージシャンやイベント主催者たちは「チケットの高額転売に反対」の声明を出しているけれど、「チケット転売のために、本当にチケットが欲しいファンに行き渡らない」というのは事実なのか?

 

 抽選制度の場合だと、抽選に当たる人の中には、その価格ならコンサートに行くけれどそれよりも高いとコンサートに行かなかったという、それほど熱烈ではないファンもいる。逆に、抽選に外れた人の中には、もっと高い価格を払ってでもコンサートに行きたいという熱烈なファンがいるだろう。
 抽選に外れた熱烈なファンは、高い価格でもチケットが欲しいと思っているし、抽選に当たった熱烈ではないファンならより高い価格であれば売りたいと考えているかもしれない。転売業者は、両者の願いを叶えることに成功しているのである。熱烈なファンは転売業者に高い価格を払ってでも、コンサートチケットを手に入れることで便益を受け、熱烈ではないファンは、転売業者にチケットを売ることで、コンサートに行くよりも高い便益を受けている。アーティストにとっても、大したファンでもないのに、偶然チケットの抽選に当たった人たちがコンサート会場に混ざっているよりも、熱烈なファンでコンサート会場が埋め尽くされている方がうれしいのではないだろうか。つまり、「本当にチケットが欲しいファンに、チケットが行き渡らない」のは、チケット転売がない抽選制なのである。
 こういう伝統的経済学の説明に対して拒否感をもつ人は多い。特に、アーティストを熱心に応援する程度を、「いくらまでならお金を出してチケットを買いたいと思うか」という指標で測るというのは適切ではないというものだ。熱心なファンであっても「お金がないからチケットが高くなったら買えない」のであって、熱心さが足りないというわけではない、というものである。確かにそのとおりだが、残念ながら人の気持ちの大小を比較することはできない。他人との比較ができるのは、気持ちの大小ではなくて、その行動をするのに、何かをどの程度犠牲にしていいか、という客観的な指標でしかない。それに、気持ちの問題なら、いくらでも噓をつけることになる。


 このチケット転売問題って、「落としどころ」がけっこう難しいんですよね。
 著者は「では、チケットを購入するために何時間なら自分の時間を提供してもいいと思うか」という指標を例にあげているのですが、それはそれで「単に時間が有り余っている人が有利になるだけ」なのです。
 この問題には、「チケットが転売によって高額で取引されても、アーティストや主催者にはメリットがない」ということ含まれています。
 それだったら、いっそのことオークション形式にしたり、一部のチケットを高額で売り出して「高いお金を出しても欲しい人が優先的に買える」ようにすれば良いのではないか、という提案もなされているのです。
 そんな横暴な、と言う人もいるかもしれませんが、すでに、一部のマラソン大会などでは、高額の参加費を払える人のための「チャリティ参加枠」をつくっているんですよね。
 チケットが高額になるのはイメージが悪い、というのであれば、「どうしても観たくて、お金を払える人」のために、「定価との差額を寄付する」というような形にする、という手もあるのではないか、と著者は述べています。
 なんのかんのいっても「お金」というのは、「気持ち」を比較することができない以上、わかりやすい指標ではあるのです。
 しかしながら、「結局、金かよ!」と、多くの人に反感を持たれがちなのも、また事実なんですよね。


 著者は、伝統的な経済学者が想定する「常に合理的な判断をする人間」というのは、なかなか普通の人には理解し難い存在であり、人間は感情に左右されやすい生き物である、ということを説明しています。


 感情が意思決定に与える影響について、アメリカ国立衛生研究所(NIH)のフェラーらは、多くの研究結果をまとめており、それによると「怒っている人は不確実なことでもより確実に生じるように感じ、周囲のことを自分で統制できるように感じ、リスクを受け入れるようになる」一方で、「恐怖を感じている人は、不確実性を大きく感じ、リスクに対して回避的な行動をとりやすくなる。そして、直感的にではなくて、論理的に意思決定しやすくなる」そうです。

 怒りの感情のために日常生活で失敗することは多いが、私たちがよい選択をする方向に機能する場合もある。たとえば、がんだと診断された患者が、どのような治療法をとるかという選択を迫られた場合を考えよう。手術をすれば、手術が失敗した場合に命を失うリスクはあるけれど、生存の可能性が高い。手術をしないで放射線療法だけだと放射線による死亡のリスクは小さいが、がんの完治の可能性が下がるので、がんそのものによる死亡率が高い。仮に、医学的には手術の方が望ましい場合、治療のリスクそのものを重視すれば、医学的には望ましくない治療法を選択するかもしれない。
 しかし、がんの宣告を受けた患者が、がんになったこと自体に怒りの感情をもっていたとすれば、手術のリスクを小さめにみたり、がんを克服できるという統制可能な感情をもちやすいために、医学的に望ましい治療法を選択できるかもしれない。一方、がんを宣告されて恐怖を感じている患者は、本来はリスクをとった方がいいのに、リスクは小さいがあまり効果のない治療法を選んでしまうかもしれない。恐怖を感じている患者は、論理的な意思決定をより重視するので、医師は論理的な説得をすることが有効になるという。
 逆に、リスクのある治療法をとらない方が望ましい場合は、恐怖を感じている患者は医学的に望ましい選択をしやすいが、怒っている患者は望ましくない選択をする可能性が高くなるということになる。この場合は、患者に少し恐怖感を与えるようにした方が、医学的には望ましい選択がなされるのかもしれない。


 この話、治療法の相談をするときに、思い当たるところもあって、医者というのは、病状や治療法の説明のしかたによって、ある程度患者さんの選択をコントロールできるのかもしれません。もちろん、それを悪用してはならないわけですが。
 ギャンブルとかでも、外れまくって頭に血が上っているときって、無謀な大勝負をして傷口を広げてしまうことがあるんだよなあ。
 後で、「なんであそこで撤退しておかなかったんだろう……」って後悔することが多いのですが、こういう仕組みだったのか。


 この新書を読んでいて、いちばん印象的だったのが、以下の話でした。

 では、互恵性を高めるような教育としてはどんなものが考えられるだろうか。競争よりも協力を重視する教育の一番極端なものは、様々な成績の順位をつけないというものだろう。日本でも運動会で順位が明確になる徒競走を種目に入れないとか、仮に徒競走をしても順位をあえてつけない、極端な場合は手をつないで全員一緒にゴールするというようなことをした小学校もあった。そういう教育慣行を小学校で受けた人たちは、競争を嫌い、互恵的になっただろうか。
 伊藤・窪田・大竹の分析結果は衝撃的だ。反競争的な教育を受けた人たちは、利他性が低く、協力に否定的で、互恵的ではないが、やられたらやり返すという価値観をもつ傾向が高く、再分配政策にも否定的な可能性が高い。おそらく教育が意図したことと全く逆の結果になっているのではないだろうか。
 競争による差を見えなくする教育の思想の背景を指摘した刈谷剛彦の議論を読めば、その謎は解けそうだ。平等主義教育と聞くと「手をつないでゴールへ駆け込む運動会の徒競走シーン」をイメージするが、その背後にある考え方として刈谷は「ほとんどの子が100点をとるような力を本来もっている」のだから、授業のやり方や教育の内容次第では、全員が100点をとれる。それが「正しい」教育であり、そう「しなければならない」ことだと考えられていると指摘する。
 つまり、「学力差を生まれながらの素質の違いとは見なさず、生得的能力においては決定的ともいえる差異がないという能力観、平等観を基礎としている」のだ。「このように能力=素質決定論を否定する能力=平等主義は、結果として努力主義を広め、『生まれ』によらずだれにも教育において成功できるチャンスが与えられていることを強調した。……だれでも、努力すれば、教育を通じて成功を得られる。だからこそ、だれにでも同じ教育を与えるように求める。その結果、より多くの人びとが同じ教育の土俵の上で競争を繰り広げることになった。教育における競争に人びとを先導する役割を果たしたのだ」と、刈谷は、平等主義で反競争的な教育が、逆に、教育における競争を激化させたという皮肉な結果をもたらしたと指摘している。
 伊藤・窪田・大竹の結果はさらに皮肉な結果だ。反競争主義的で協力する心をもたらそうと考えた教育が、能力が同じという思想となって子どもたちに伝わると、能力が同じなのだから、所得が低い人は怠けているからだという発想を植えつけることにつながった可能性がある。つまり、能力が同じなら、助け合う必要もない、所得再分配も必要がない、ということになってしまったのではないだろうか。やり方を少し間違えると、教育は意図したものとは異なる価値観を子どもたちに与えてしまう。競争と助け合いの両方が大切だという価値観をうまく伝えていく必要がある。


 「平等」を意図的に植えつけようとしても、現実には、差ができてしまう。
 そこで、「人の能力は本来平等なのだ」という考えをもとにすれば、「結果に差が出るのは、本人の努力不足なのだ」「自業自得ではないのか」という結論に達することもある、ということのようです。
 僕としては、本当にそんな皮肉な結果になるのだろうか?とにわかには信じられない気持ちもあるのですけど。
 もともと才能に違いがあるのだから、「できる、できない」は、どうしようもないよね。だから、できる人は、できない人を助けてあげよう、と言い切るのも、それはそれで、「できない人の向上心を奪ってしまう」ような気もします。
 みんな結果は同じにはならなくても、「努力することには、その人なりの効果はある」のは事実でしょうし。
 とはいえ、「競争と助け合いの両方が大切だ」というのを、バランス良く伝えるのは、凄く難しいことだろうな、と思うのです。


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