琥珀色の戯言

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【読書感想】遺言。 ☆☆☆

遺言。 (新潮新書)

遺言。 (新潮新書)


Kindle本もあります。

遺言。(新潮新書)

遺言。(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
動物とヒトの違いはなにか?私たちヒトの意識と感覚に関する思索―それは人間関係やデジタル社会での息苦しさから解放される道にもなる。「考え方ひとつで人生はしのぎやすくなりますよ」、そう著者は優しく伝える。ひと冬籠って書きあげた、25年ぶりの完全書き下ろしとなる本書は、50年後も読まれているにちがいない。知的刺激に満ちた、このうえなく明るく面白い「遺言」の誕生!80歳の叡智がここに。


 養老孟司先生、25年ぶりの「完全書下ろし」だそうです。
 大ベストセラー『バカの壁』が上梓されたのが、2003年4月なので、あの頃にはもう、「聞き書きスタイル」になっていた、ということなんですね。
 一概にそれが悪い、というわけではなくて、聞き書きのほうが話がわかりやすく整理されていたり、難しいところは編集者や聞き手がうまく調整したりしていたのかな、と今回この『遺言。』を読んでいて感じました。
 『バカの壁』が売れていたとき、同僚が「読んでみたんだけど、なんであんな当たり前のことばかりが書いてある本が売れているのか、よくわからない」と話していたのを思い出します。
 当時、僕も同じことを考えていたのですが、いま、あらためて思うに、そのくらい「わかる」「共感できる」本じゃないと、あんなに売れないのでしょうね。
 それに、わかっているつもりのことを言語化する、というのは、けっこう難しいことですし。


 この『遺言。』、いちおう、現時点で、養老先生が書き残しておきたことをまとめたものだそうです。
 内容としては、人間の身体性の再確認というか、あまりにもコンピューターに頼るようになり、すべてをデータ化してしまう勢いの人間に対して、一石を投じている、というものです。


 僕としては、納得してしまうところが半分、養老先生は、コンピュータや人工知能の進化についていけていないのだろうな、と思うところが半分、という印象ではあったんですよね。
 個人的には、人間はいまだ機能の全貌が明らかにされていないだけの機械だと感じているので。
 まあ、そんな僕の立ち位置はさておき、何が言いたいのかよくわからないのだけれど、なんとなく役に立つものを読んだ気がする「養老節」は健在なのかな、と。

 意味のあるものだけに取り囲まれていると、いつの間にか、意味のないものの存在が許せなくなってくる。その極端な例が神奈川県相模原市で生じた十九人殺害事件であろう(2016年7月に障害者施設で引き起こされた)。障害があって動けない人たちの生存に、どういう意味があるのか、そう犯人は問うた。
 その裏には、すべてのものには意味がなければならない、という(暗黙の)了解がある。さらにその意味が「自分にわかるはずだ」という、これも暗黙の了解がある。前段の「すべてのものに意味がなければならない」までは信仰として許される。しかし第二段の暗黙の了解が問題である。「私にはそういうものの存在意義はわかりません」。そう思うのが当然なのに、自分がわからないことを、「意味がない」と勝手に決めてしまう。その結論に問題がある。なぜそうなるかというと、すべてのものに意味があるという、都市と呼ばれる世界を作ってしまい、その中で暮らすようにしたからである。意味のあるものしか経験したことがない。そういってもいい。
 山に行って、虫でも見ていれば、世界は意味に満ちているなんて誤解をするわけがない。
 なんでこんな変な虫がいなきゃならないんだ。そう思うことなんて、日常茶飯事である。感覚所与には意味がない。世界が変化したということを、とりあえず伝えてくれるだけである。意味は与えられた感覚所与から、あらためて脳の中で作られる。
 感覚所与をできるだけ制限する世界、つまり都市では、意味がひとりでに中心になってきてしまう。だから禁煙。なぜいまここで、タバコに火をつけなきゃならないんだ。その意味は火をつけている本人にも了解不能である。そんなものは雑草と同じだ。引っこ抜け。いろいろ理屈はあるだろうけれども、根元にある感情の一つは、無意味なものの存在を許さないという、それであろう。
 ナチ政権は国家的に禁煙運動を始めた。さらに精神障害者安楽死を積極的に進めた。そういう人たちの存在は、社会にとって意味がないと考えたのであろう。その後に来たのが民族浄化と称するユダヤ人の大量虐殺である。あいつらがいなくなれば、世界はきれいになる。組織的な抹殺にそういう意味を持たせたに違いない。


 そういう「無意味なものの存在への寛容性」というか、「世の中は(自分にとって)有意義なものだけでつくられているわけではない」という感覚がないと、本人にとっても生きづらいのだろうと思うのです。
 世の中、ままならないことばかり、だし。
 人工物には、「そうなっている理由」みたいなものが必ず存在するものだから、それに囲まれていると、どうしても「意味があるはずだ」と考えてしまう。そして、「意味のないものは存在する価値がない」いうところに行きついてしまうことがある。
 それを言葉で説明するよりは、「無意味に感じられるものがたくさん存在しつづけている」自然に接することが大事なのではないか、と養老先生は仰っているのです。
 この「自然と都市」の比較は、「現実社会とインターネット」にもあてはまるような気がします。
 現実社会で、人は良いことばかり、有意義なことばかりしているわけでもないし、とくに理由や戦略も持たずに、なんとなく暮らしてることが多いんですよね。
 そして、それは「悪いこと」ではない。
 そこに「何も考えずに生きているのは悪だ」という解釈が加わらない限りは。

 なぜ少子化なのだろうか。少子化が著しいのは、まず東京都、続いて京都府である。大阪や広島のような大都市も、年齢別の人口比を見ると、二十年前の鳥取県に近い。要するに都市化はヒトを増えなくさせる。そう結論せざるを得ない。増田寛也編著の『地方消滅』(中公新書)では、都会は若者を集めて、増えなくさせるところだと書いてあったはずである。
 こうした例で見るように、子どもが増えないのは、根本的には都市化と関連している。都市は意識の世界であり、意識は自然を排除する。つまり人工的な世界は、まさに不自然なのである。ところが子どもは自然である。なぜなら設計図がなく、先行きがどうなるか、育ててみなければ、結果は不明である。そういう存在を意識は嫌う。意識的にはすべては「ああすれば、こうなる」でなければならない。
 そうはいかないのが、子どもという自然なのである。努力して育ててみるが、どんな大人になるか、知れたものではない。うまくタレントになってくれるかもしれないし、犯罪者になってしまうかもしれない。そんな危ないもの、関わらないほうが無難じゃないか。
 ともあれ人口が全体として増えるほどの数を維持する夫婦は少ない。地方でいうなら、再生産率がいちばん高いのは、当面奄美群島の徳之島、伊仙町である。政治家の皆さん、伊仙町をモデルにして、将来の日本を構築しますかね。


 僕は「経済的な理由で結婚できない、子どもを持てない」というのは、半分事実で、半分は嘘だと思っています。
 いまの日本が高度成長期やバブルの時代ほど他国に比べて相対的に豊かではなくなったとしても、それ以前のもっと貧しい時代に、子どもはたくさん生まれていたのだから。
 結局のところ、子どもを持つことのメリットとデメリットを比べると、それほど良いことばかりではないと考える人が多くなっただけなのかもしれません。
 というか、長い間、男女が結ばれて子どもが生まれるのが「あたりまえ」だと思われていた時代が続いていて、それをほとんどの人は疑問視していなかったのだけれど、「メリットとデメリットを比べる」なんていう発想が許されるようになった、ということのようにも感じるのです。
 そうなれば、子どもを生まないという選択をする人が増えるのも当然ですよね。

 つい先日、プードルを抱いて散歩している人を見かけた。イヌの散歩か、飼い主の散歩か、哲学的にむずかしい問題を発見してしまった。ヒトでいえば、私はどの年配の女性に相談を受けた。あちこちの医療機関で診てもらったが、特別なことはない。でも頭が重いし、元気がないし、しびれ感があるし、耳鳴りがひどい。それを一時間にわたって訴え続ける。聞いていて、ビックリする。この人は感覚が欠如しているのだろうか。外の世界が一切話題にならないからである。目も耳も触覚も、じつは外界を把握するために存在している。でもこの人はそれを完全に無視して、感覚は自分の身体に関することだけに集中している。いうなれば、「意識の中に住む」という、現代人の典型であろう。


 ああ、なんだか身につまされる話だなあ。
 僕もいまさら付け焼き刃でアウトドア人間になれるわけがなく、せめて少しでも外部に目を向けてみようかな、とか、子どもは外で遊びやすいようにしなくては、とか思いつつ読みました。
 でも、時代が変わってきているのも事実なんだよね。


バカの壁 (新潮新書)

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