琥珀色の戯言

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【読書感想】文豪の女遍歴 ☆☆☆

文豪の女遍歴 (幻冬舎新書)

文豪の女遍歴 (幻冬舎新書)


Kindle版もあります。

文豪の女遍歴 (幻冬舎新書)

文豪の女遍歴 (幻冬舎新書)

内容紹介
下司だ、覗き見趣味だと言われようと、文学者の異性関係を知るのは楽しい。彼らが当時の姦通罪に怯え、世間の猛バッシングに耐えながらも不義を重ねたり、人間の痴愚や欲望丸出しで恋愛し、破滅と蘇生を繰り返し、それを作品にまで昇華させるタフさに畏怖すら覚える。小説はモデルなど詮索せず、文章だけを虚心坦懐に読めと言う人もいるけれど、そんなつまらない味わい方はしたくない――。森鴎外から太宰治芥川龍之介谷崎潤一郎ほかスター作家62名の赤裸々な性愛の記録。日本文学の真髄と、生の根源がここに。


 著者は「まえがき」に、こう書いています。

 私はこれまで、文学者の伝記を5冊ほど書いてきて、今も近松秋江伝の準備をしているところだ。
 作家に限らず、伝記でいちばん面白いのは、異性関係である。もちろん、同性愛者であれば「同性関係」になったりするわけだが、世の中には、そういうことを調べたり書いたりすることを嫌う人というのがいる。最近の人物なら、遺族が嫌がるが、それ以外でも、下司だ、のぞき趣味だ、と言うのである。


(中略)


 私はもちろん、のぞき趣味だ週刊誌だと言われたって、異性関係について読んだりするのが大好きである。本書では、近代文学者たち60人程度について、その異性関係(や同性関係)を記述する試みである。


 夏目漱石森鴎外から、谷崎潤一郎川端康成、そして、開高健高橋和巳まで。
 幕末生まれから、昭和初期生まれまでの、すでに亡くなっている作家が採り上げられているのですが、これを読んでいると、「プライベートの恋愛ネタを書けない有名作家というのは、幕末以降の日本にはいないのではないか」という気がしてきます。
 ちなみに、リストのなかで、もっとも遅く生まれた作家は、1934年生まれの池田満寿夫さんです。
 『週刊文春』も『2ちゃんねる(いまは『5ちゃんねる』なのかな)』もない時代で良かったねえ、と思うほど、性におおらかな人が多いことに驚かされます。
 親族の女性や友人の妻(夫)、弟子、芸者など、「愛人がいない人のほうが珍しい」のです。
 まあ、このエッセイ集のテーマからして、そういうのに縁がない人のことは書かれていないのでしょうけど、じゃあ、これに載っていない有名作家を挙げてみろ、と言われると、ちょっと困ってしまうんですよね。
 昔は今とは倫理観が異なるとはいえ、正直、この人たち、よくこんなに異性関係に費やすエネルギーがあるなあ、と感心するばかりです。
 そのくらいの有り余るものがないと、小説は書けないのかな。


 ネットでは、「私生活を切り売りするメンヘラ」が叩かれがちですが、もしかして、昔は小説にしていたことを、ブログやSNSに書くようになっただけなのでは……。
 「下司なスキャンダル」が多くの人にアクセスされるのは、今も昔も変わりません。


 著者は、最初の夏目漱石の項で、こう書いています。

 漱石、名は金之助。私がいたった結論は、漱石は一度しか結婚せず、多くの子供をなしたが、妻以外の女とはセックスせず、娼婦を買ったこともない、というものである。
 なぜ漱石が「国民作家」になったかといえば、東大卒の英文学者で、東大講師をしており、明治四十年代以降、自然主義が盛んになって、性的な経験を描く作家が増えた中で、漱石は性的なことがらを書かなかったから、中産階級の家庭で、漱石なら読んでもいいということになったからである。大正5年(1916)、漱石門下の赤木桁平は、「読売新聞」に『「放蕩文学」の撲滅』を
書いて、近松秋江吉井勇久保田万太郎後藤末雄など、情痴小説を書く作家を攻撃したが、その際、森鴎外小山内薫谷崎潤一郎はなぜか除外された。そして、そんなことを言ったら、漱石小川未明くらいしかそういうことを書かない作家はいないじゃないかとも言われた。未明は今では童話作家として知られるが、当時は普通の小説家だったのである。


 一昨年、没後100年を迎えた夏目漱石は、多くの関連書籍も出て、日本の国民作家としてあらためて評価されているのですが、言われてみれば、たしかに「親が子供に読ませてもそんなに心配しなくても良いくらい、具体的な性描写は少ない作家」なんですよね。
 だから、子供に「読ませやすい」というのはありそうです。
 『こころ』を読んで、真似して殉死しよう、なんていう人は、今の世の中には、まずいないだろうし。
 村上春樹さんの作品を読むと、「なんでこんなに性描写ばっかりなんだ?」と思うのですが、日本の「純文学寄り」の作品で、長編となれば、性描写を伴わないもののほうが少ない。むしろ、「下司な覗き見趣味を満足させるのが、純文学」ではないか、とさえ感じるのです。


 徳田秋聲の回では、著者は、こう述べています。

 野口冨士男によると、秋聲が関係した女は、娼婦を除くと7人いて、妻はま、順子、そよ、政子のほか、大阪の長洲家の次女、『何処まで』のヒロイン、「挿話」のモデル清川イトだという。『何処まで』のヒロインとは、再会してまた関係をもち、双子を産ませている。
 作家(男)にとっては、女(男)を知ることは小説に使うという意味合いもあり、川端の『雪国』なども典型的な例だが、本当に好きでつきあったのか、小説に使うつもりだったのか、女(男)としては気になるだろうが、双方あいまってということが多いようだ。しかし秋聲の場合、水商売の下層の、必ずしも美しくない女が主で、さして羨ましさも感じない。


 「本当に好きなのか、ネタにするために付き合ったのか?」
 こんなふうに見えてしまう人は、作家じゃなくても、少なからずいますよね。
 作家の場合は、本当にそれをネタにして作品にしてしまうから、たちが悪いとも言えます。
 この「さして羨ましさを感じない」という、著者の主観が堂々と差し込まれているのが小谷野敦さんが書くエッセイの面白い、かつ奇妙な感じがするところで、こういう価値判断も含めて楽しめるかどうか、というのが、小谷野さん向きの読者かどうかの分水嶺といえるでしょう。
 僕は、読んでいるうちに、けっこうハマってしまったのですが。
 「公正な描写」を掲げて、自分の価値観をさりげなく押し付けてくるタイプの文章よりは、潔いとも思いますし。

 宇野千代の男遍歴は『生きて行く私』(1983)がベストセラーになり、テレビでも当人がよく話していたから知られている。「徹子の部屋」に出た時は、黒柳徹子が「尾崎士郎さん……」と言うとすかさず「寝たッ!」と言うので、あとで黒柳が、あんなお昼寝でもするように寝た寝た言う方は初めてだと笑っていたという。ところが小林秀雄だけは、寝たでも寝ないでもなく口を濁したので、あとで訊いたら、雑魚寝をした、という。


 作家というのは、今の「ネット炎上芸人」みたいなものなのかもしれません。
 あまりに濃厚すぎて、お腹いっぱい、という話だらけなのですが、ときどき「あんまり書く事ないや」という人も出てくるのも、それはそれで面白かったのです。


狂うひと―「死の棘」の妻・島尾ミホ―

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