琥珀色の戯言

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【読書感想】日本史の内幕 - 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで ☆☆☆☆

内容紹介
忍者の子孫を訪ね歩き、東海道新幹線の車窓から関ヶ原合戦追体験する方法を編み出し、龍馬暗殺の黒幕を探る――。
著者は全国をめぐって埋もれた古文書を次々発掘。そこから「本物の歴史像」を描き出し、その魅力を伝えてくれる。同時に、歴史は厳しいものでもある。地震史研究にも取り組む著者は、公家の日記などから、現代社会への警鐘を鳴らす。
歴史を存分に愉しみ、現代に活かせる「歴史通」になりたいあなたへ。


 僕が磯田道史さんを知ったのは、『武士の家計簿』という本でした。「家計簿」という「ただの記録」のようにみえるものから、当時の武士の生活をあぶりだしていくという目のつけどころと、それをひとつひとつ解析していくという好奇心と実行力に驚かされたんですよね。
 この『武士の家計簿』は、さまざまな書評などでも採りあげられて人気に火がつき、映画化もされています。
 日本人には、「歴史好き」が本当に多いですよね。
 この新書は、磯田さんの身辺雑記であるのとともに、歴史の裏話や、ふだん、どうやって史料を集めたり、史跡を調査しているのか、ということが紹介されています。
 日本には、長年古文書を扱っている古書店や史料を保存している施設があって、磯田さんは、さまざまな人から「こんな面白そうなものがありますよ」という情報提供を受けているのです。
 だからこそ、効率よく、さまざなま古文書に接することができるし、素性が確かな相手だから、ガセネタをつかまされるリスクも少ない。
 長年、古文書に接し、歴史を解読してきた人だからこそ、史料を提供する人も期待や恩義を感じていて、そういう人のネットワークが磯田さんの研究を助けているのです。
 「磯田道史著」として世の中に出ている文章は、磯田さんひとりのものではない。


 それでも、古文書の真贋とか、本物であっても、そこに書かれていることが本当のことなのか、というのは、また別の話で、信じる、信じないの線引きはどうやっているのかなあ、というようなことも考えさせられました。
 この新書の最初のほうに、「風聞記」という冊子が紹介されているのですが、この本に書かれた、幕末の勘定奉行小栗上野介に関する記述は、史実とは異なっているものです。
 著者は、この文書に対して、「史実とは違うけれど、当時の人々が小栗をどういうふうに見ていたかがわかる史料だ」と評価しています。
 なるほどなあ、そういう見方もあるのか。
 でも、幕末であれば、まださまざまな史料と比較検討できるかもしれないけれど、もっと古い時代だとどうなのだろうか。
 それが「事実」なのか「噂」「誰かから聞いた話」なのか、「自分で見たこと」なのか、あるいは「想像で書いたこと」「政治的な圧力のなかで、美化したり、悪く書いたりしたもの」なのか。

 今回、私は国立公文書館で徳川譜代大名の井伊家の記録「花莚記(かえんき)」という史料をみていて、この記述をみつけた。「真田左衛門佐の験を家康公が実検にそなえられたところ、お床几(イス)をおはずしなされ、『そのほう、たびたび、お敵いたさるところ、不慮に、ご対面ならるとの御意なり』」。家康は真田の首に丁重に対した。そのほう、と呼びかけだけは上からの物言いだが、席を立ち、「君はたびたび敵対されたが、このように不慮なことでご対面となられましたな」と丁寧に語りかけている。家康は信繁の首と信じていたらしい。私に出会うまでこの家康発言は、ずっと書庫のなかで眠っていたようだ。


 歴史ドラマとしては、こういう場面があればいいなあ、と思いますし、家康がこのくらいの丁重な態度をみせても、おかしくはなかったような気がします。
 でも、これは本当に「史実」なのか、だとしたら、誰がこの場面に同席し、記録したのか。
 井伊家の文書であれば、徳川家の重臣中の重臣であった井伊直政が、その場にいて見た光景を記録したのだとしても、おかしくはなさそうですが。
 いまの世の中でも、「密室で行われた会話」「ごく一部の関係者しか同席していない場でのエピソード」なんていうのは、そこにいた人の証言に頼るしかない。
 しかしながら、その人が本当のことを言っているのかなんて、本人にしかわからない。いや、記憶って、時間や状況で改変されがちだから、悪気がなくても、正確とはかぎらない。
 「わからないからこそ、研究や解釈をする甲斐があるし、面白い」とも言えるのでしょうけど。
 何百年も前の歴史的事実なんて、そんなに変わるわけがない、と思いがちだけれど、いまの歴史の教科書をみてみると、僕が小学校で勉強していたときとは、違った解釈がされているところも少なくないのです。
 世の中が変われば、歴史の見方も変わるというのは、日本の太平洋戦争時の楠木正成への礼賛や70年前と今の「社会主義」への評価の変化をみればわかります。


 三方ヶ原の戦いは、8000の徳川勢+3000の織田の援軍対、3万で上洛をめざす武田信玄の軍勢の戦いで、家康の完敗に終わったというのが通説ですが、織田の援軍はもっと多かったのではないか、という説を著者は紹介しています。

 問題は信長からの援軍の人数3000である。これは1685年頃成立の『織田軍記』の記述「都合三千の人数を遣わされ」を根拠にしている。実は、これが怪しい。複数の史料に照らすと、どうみてもこれは過小な数字で織田の援軍はもっと多かった可能性が高い。
 秘蔵文書の一つ、「前橋酒井家旧蔵文書」は最古参の徳川重臣酒井家で作成された記録で、成立年代は不明だが、非常に詳しい両軍兵力の記述がある。信玄軍2万8000人、徳川軍6000人、織田の援軍2万人としている。しかも織田援軍の詳細な配備状況まで書いてある。初めは信じなかったが、武田側の史料『甲陽軍鑑』にも織田援軍2万人説を裏付ける記述があるのを見つけて考えを改めた。
甲陽軍鑑』には「信長加勢を九頭まで仕る」「岡崎中・吉田・しらすかまで取りつづけて信長被官ども居る」との記述がある。「頭」は軍団の単位。「前橋酒井家旧蔵文書」には、織田の援軍は「一頭に二千百ヅツ」とあり、九頭は約2万人だ。家康は信長から2万人に及ぶ援軍をうけていたことになる。しかし、その2万の援軍は全部が浜松城や三方ヶ原にいたわけではなく、岡崎城(愛知県岡崎市)~吉田城(同県豊橋市)~白須賀(静岡県湖西市)にかけて分散配備されていた。
 通説で劣勢を覚悟して出陣したとされるが、おそらく、家康は無謀ではなかった。三方ヶ原の信玄軍に攻撃をしかける時も、闇にまぎれて逃げられる時間帯をねらい、2万に及ぶ織田の援軍の軍事力を背景にしていた。たとえ負けても、浜松城以西には織田の援軍がびっしりいるから、そこへ逃げ込めば、信玄は容易に手を出せない状況にあった。
 それで信玄の家臣は浜松城包囲戦に反対した。「家康と合戦をとげ、勝利を得たが、敵が大軍で、くたびれた味方へ、かかってきたら、疑いなく信玄は後れをとる」「浜松と美濃岐阜の間に信長勢が打ち続き陣取っているのは必定。いま浜松を攻めても(落城させるのに)早くて二十日かかる。その間に、信長の後詰(援軍5~8万)がきてしまう」。『甲陽軍鑑』にそう記録されている。
 三方ヶ原の戦いは「神君」家康が大敗した合戦である。徳川の世になると、家康が十分な援軍をうけながら信長に負けた事実が隠ぺいされたのかもしれない。敵の武田軍は多く、味方の織田援軍は少なく書かれた可能性がある。それが証拠に、三方ヶ原の信玄軍の数は後世の記録ほど多くなる。江戸中期の『四戦紀聞』では4万人。江戸後期の『改正三河風土記』ではなんと4万3000人になる。
 権力の都合で情報は操作される。ゆえに国家機密の保護は必ず後日の情報公開とセットでやらないと、検証が不可能になり、国を誤る。


 これを読むと、たしかに、三方ヶ原の戦いでの織田の援軍は、最大の脅威であった武田軍と戦うにはあまりにも少なすぎるし、家康は無謀な挑戦をしたわけではない、とも言えそうです。武田軍が大勝利のあと、浜松城を囲まなかった理由も説明できます。
 もちろん、どれが正解か、なんていうことは証明するのが難しいのですが、江戸時代の後年になるほど増えていく武田軍の数をみると、史料の数字は意図的に、あるいは面白くしようとどんどん話が大きくなってしまって、事実と乖離していくのではないかと想像してしまいます。


 歴史というのは、いまも書き換えられ続けているということを、書き換え続けている人の言葉で知ることができる新書です。
 磯田さんって、堺雅人さんとも友達なのか……歴史好きがつないだ縁って、すごいな……


「司馬?太郎」で学ぶ日本史 NHK出版新書

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