琥珀色の戯言

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【読書感想】ゴールをぶっ壊せ - 夢の向こう側までたどり着く技術 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
16歳でデビューしたバンドは4年で解散。「あいつは終わった」と言われた日々からノーギャラライブや15年にわたるアルバイト生活を経て頂に立つ、アニソン界のパイオニア影山ヒロノブ。苦難の先で出会った「CHA‐LA HEAD‐CHA‐LA」、アニソンレジェンドたち、そしてJAM Project。なぜ諦めなかったのか?なぜファンは、世界は彼を愛するのか?


 影山さん、熱い人だなあ、そして、諦めない人だなあ。
 『電撃戦隊チェンジマン』の主題歌や『ドラゴンボールZ』の「CHA-LA HEAD-CHA-LA」で知られる影山さん。16歳のときにバンドのボーカルとしてデビュー。
 本来はハードロックバンドだったのに、事務所の意向でアイドルとして売り出されることになったのです。
 そういえば、あのチェッカーズも同じように「不本意ながらアイドルとしてデビューさせられた」というのを聞いたことがあります。
 1977年にアイドルバンド・LAZYとしてデビューし、最初は苦戦したものの、1978年に発表した「赤頭巾ちゃん御用心」が大ヒット、テレビの歌番組にたてつづけに出演し、ライブは連日ソールドアウト。コントや水泳大会など、歌う意外の仕事もたくさんこなすことになりました。
 LAZYは、自分たちのやりたい音楽とアイドルとして売られていることのギャップに苦しみ、1981年2月に解散を宣言することになります。
 メンバーのうち、高崎さんと樋口さんはヘヴィメタルの伝説的なバンド『LUODNESS』を結成し、井上さんと田中さんはポップバンド、NEVERLANDで成功をおさめるのですから、LAZYに、もともと音楽的な実力があったのは間違いありません。
 しかしながら、影山さんは、「曲も詩も書けない、やりたい音楽も、目指しているものもわからない」という、ひとり、取り残されてしまったような状況に陥ってしまい、昔のファンを昔のヒット曲で喜ばせる、というじり貧の芸能生活を続けていくのです。

 
 レコード会社からもクビになり、路頭に迷っていた際に、バースデーソングという会社の山岸達治社長を紹介されたのが、影山さんの転機になりました。
 しかし、この転機が、影山さんに成功をもたらすためには、長い時間がかかったのです。
 「お金はいらないから、とにかく歌いたい、ライブをやりたい」という影山さんに、山岸社長は「テレビにも出してやれないし、事務所としてのプライベートなサポートなどもできないけれど、ノーギャラで良いというなら、死ぬほどライブをやらせてやる」と告げ、本当にそれをふたりは実行したのです。

 同行するバンドにギャラが発生しても、俺だけギャラなし。旅費だけは会社が出してくれる、赤字が出れば会社がかぶる、という条件でのツアーが始まりました。
 ただし旅費といっても、社長が調達してきたボロボロのハイエースを楽器車にし、そこで寝泊まりしながら全国でライブをする、というだけ。年に100本を超えるライブをする毎日はそれから5年間続くことになります。
 お客さんは、最初まったくいませんでした。LAZY時代からのファンが来てくれることもあったけれど、地元のアマチュアバンドに前座をやってもらっても数十人ほどの動員です。
 もっとも少なかったのは、長野でのことだったと思いますが、わずか5人(笑)。これは、ステージの上の俺たちとまったく同じ数です。それだけ少ないと、お客さんも緊張して、なかなか前に来てくれない。目の前の会場はスカスカで、フロアが見えていました。
 そんな毎日で、おそらく会社がかぶった赤字額はさぞ莫大だったのではないでしょうか。でも社長は約束通り、ツアーを組んでくれた。


 このライブは、影山さんに、アイドル時代とは異なる「強い声」をもたらすことにもつながりました。
 これって現代的な感覚でいえば、好きでやっているとはいえ、「やりがい搾取」というか、「ブラック労働」ですよね。
 でも、この時期がなければ、いまの影山ヒロノブの成功はなかった。
 努力したって、夢はかなうとは限らない、僕もそう思う。
 だけど、極限まで努力した人には、夢のほうから微笑みかけてくれることがあるのかもしれませんね。
 ちなみに、影山さんは食べていくために建設現場のアルバイトを30代半ばまで続けていて、現場監督にまでなっていたそうです。
 この5年にわたるライブ生活ののち、「次のスーパー戦隊シリーズの主題歌を歌いませんか?」というオファーを受けることになるのです。
 それが「電撃戦隊チェンジマン」。
 僕も1番はいまでも歌える、『チェンジマン』。


 周囲は、「アニメソングを歌ってくれるのかな」と半信半疑だったものの、影山さんは、自分の歌を必要としてくれる人がいるということに心底喜び、このオファーを快諾します。
 子供たちに伝えるための歌い方については、かなり試行錯誤もあったようです。
 「今後ロックシンガーとして進むのであれば、子供向けの歌のイメージが邪魔になるかもしれないから」と、この曲だけ『KAGE』という名義になっているそうです。

 『チェンジマン』のパワフルな歌が評価され、影山さんの元には、アニメソングの主題歌のオファーが次々と舞い込むようになりました。


 影山さんは「アニソン」をこんなふうに定義しています。

 当たり前のことですが、アニソンは言葉の通り、アニメや特撮の番組のために作られた歌です。
 たとえばオープニング主題歌は、いよいよ物語が始まるという時に、週に1回の放送を待ちに待っていたテレビの前の視聴者をわくわくさせてくれる、つまり気持ちをアゲてくれる歌です。一方でエンディング主題歌は、ヒーローやヒロインと一緒に戦ったり冒険したりして、高ぶった気持ちをリセットし、興奮のスイッチを切ってくれる、という役割を与えられているのでしょう。
 そこに付け加えるなら、アニソンとは、番組の『主人公への応援歌』であるべきだと俺は思います。つまりスポーツ観戦のように、主人公の戦いをスタンド的な場所から見守り、主人公にパワーを送ろうとする、それこそがアニソンに与えられた役割で使命ではないでしょうか。そこを踏み外してしまうと、たとえアニメのために作られた歌であっても、アニソンというよりは、イメージソングになってしまう。俺はそう考えています。


 歌に対する姿勢やブラジルをはじめとする海外への手探り状態からの進出など、アニソンというジャンルを切り拓いてきた影山さん自身もアニメや特撮のヒーローみたいだなあ、なんて思いながら僕はこの本を読んでいました。
 

 もともと俺がロックを目指してこの業界に入ったこともあり、「アニソンシンガーと名乗ってはいるけれども、本音ではロックを歌いたいんじゃない?」という「疑念」を持つ方が結構います。
 正直に告白すれば、そういう時期がなかったわけではありません。「電撃戦隊チェンジマンからしばらくの間、自分がやりたい、歌いたいと思っているものと、周囲から歌うことを求められているアニソンは違う、と違和感を覚えていた時期も確かにありました。
 でも、今はまったく違う。
 それはかつて俺が「いい」と思ってきたロックよりも、今、アニソンとして作っているものの方が、ずっとハードでパワフルな音楽になってきているからです。しかも、ジャンルを横断する才能が集まってきている分、その可能性は無限大。
 もし、当時の自分が「アニソンはロックじゃない」なんてぼやいているところに居合わせたら、「このボケ! どの口が言うてるんや!」と言ってどつきたいくらい、今のアニソンは十分にロックしています。
 何より、アニソンがその世界を表現しなければならないアニメやゲーム、特撮の方が、目覚ましい進化を遂げている。アニメ「ワンパンマン」にしても、ゲーム「スーパーロボット大戦」シリーズにしても、もちろん「スーパー戦隊」シリーズや「牙狼GARO)」のような特撮だって、一作ごとに新しいテクノロジーが使われ、よりリアルに、より迫力のある映像が生まれてきています。
 そういう映像に、俺たちは歌を当てる使命を与えられています。だからこそ、自分の歌や世界観を演出していればいいJ-POPよりも、さらにスピードや進化に敏感でいないと、本編の方から置いて行かれてしまう。
 こうした変化が起こっているのは、ハリウッドと日本くらいではないでしょうか。僕たちが子供の頃見ていた作品と比べたら、一目瞭然。それはとてつもない進化で革新です。


 アニソンを愛するファンがいて、音楽的な進化を求め続けているアーティストがいて。
 カラオケでアニソンをみんなで歌うのが当たり前の時代を過ごしている若者たちをみると、僕は少し羨ましくなります。
 でも、そうなったのは、これまで、みんなで積み上げてきたものがあればこそ、なんだよね。


ドラゴンボール超 超主題歌集

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