琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【映画感想】15時17分、パリ行き ☆☆☆☆

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2015年8月21日、554人の客が乗るアムステルダム発パリ行きの高速鉄道タリスに、武装したイスラム過激派の男が乗り込み無差別テロを企てる。乗客たちが恐怖に凍り付く中、旅行中で偶然乗り合わせていたアメリカ空軍兵スペンサー・ストーンとオレゴン州兵アレク・スカラトス、二人の友人の大学生アンソニー・サドラーが犯人に立ち向かう


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2018年、映画館での6作目。
観客は20人くらいでした。


予告をみて、列車内での、テロリストと偶然乗り合わせた三人の若者との息詰まる攻防を描く映画だと思っていたんですよ。
映画は、この三人の若者たちの子供時代からはじまります。
彼らの「背景」をある程度紹介しておこう、ということなんだろうな。
しかし、アメリカの学校って、先生が子供の親に、いきなり「あなたの子供はADD(注意欠陥障害)だと思います。病院を受診して、薬を飲ませて集中させるようにしたほうが良いのでは?」とか言うんですね、けっこう驚いた。
あらためて考えてみると、子供たちの学校での日常をみている先生が、そういうことについて、親と話をする環境には、メリットもありそうなのですが。
三人の若者は「生まれつきのヒーロー」ではないのだ、ということが、この作品のなかでは、繰り返し描かれています。
ヒーローどころか、ミリタリー好きの友だちが少ない子供たち。
アメリカでは、「戦場に行く」というのが、日本で僕が感じるほど、特別なことじゃないのかもしれない。
軍隊という組織のなかでも、彼らは、なかなか「周りとうまくやっていけない」のですよね。
「人を助けたい」意気込みはすごいのだけれど、「他人の都合で動かなければならない組織」に、彼らは向いていないようにみえます。
その一方で、彼ら三人の「友情」が、僕は羨ましくもあったのです。
子供の頃、みんなから「問題児」と言われ、途中で離れ離れになったりしながらも、彼らは大人になってもずっと、戦場からスカイプで冗談を言い合っている。
僕はなんとか世の中に「適応」してきたような気がするけれど、結局、こんな友だち、いないよなあ。


ところで、この映画、100分もない、比較的短い作品のわりには、なかなかテロが始まらないな……まだ30分くらいしか経っていないのかな?
……もう60分くらい過ぎているみたいなんだけど……


正直、観ていてどんどん「あれ?」って感じになってきたんですよ。
なかなか「緊迫の場面」にたどり着かない。


そんな僕の疑問をよそに、スクリーンの中では淡々とイタリアでの若者たちの観光地めぐりが続きます。


これ、イーストウッド監督がイタリアに旅行したかっただけなのでは?
イーストウッド監督だから、みんな「深読み」してしまうけれど、『ツーリスト』とか、あの織田裕二さん主演の『アマルフィ』みたいな「観光ムービー」っぽい……
テロと対決する勇気ある若者たちのドラマを観にきたつもりだったのに。


そして、ようやく、パリ行きの高速鉄道で事件が……


事件が終わったあと、世界中から、そして、彼らを「問題児」として糾弾した人たちから「ヒーロー」として誉め称えられる彼らをみながら、僕は涙を流していました。
でも、その涙の理由が、よくわからない。
彼らは勇気を持って行動したけれど、ある意味、幸運が重なったおかげでうまくいったところがあるし、あの事件が起こるまでは、けっして「英雄的な人物」ではなかった。
イタリアでは単なる観光客だし、アムステルダムで羽目を外して二日酔いで、列車に乗っていた。
しかしながら、あの場面で、「自分たちができることを勇気を持ってやった」ことで、彼らの人生は変わります。
それは、必然だったのか、偶然だったのか。
いままでの訓練で「うまくできなかった経験」が結果的に活かされた面もありました。


人は、英雄として生まれるのではない、英雄になるのだ。
あるいは、時代が必要とするとき、英雄というのはみんなの手によって、作られるのだ。


僕はエンドロールをみながら、考えていたんですよ。
人の運命というのは、面白いものであり、残酷なものでもあるよなあ、って。
あの事件まで、彼らは「ちょっと周囲とズレている、生きづらい若者たち」でしかなかった。
どこかでひとつ違う選択をしていたら、3人の英雄のほうが、テロリストになっていたかもしれない。
いまの自爆テロの実行者は、まず「死にたい」という人を探し、その人に「どうせ死ぬなら、ただ自殺するよりも、神のためにテロをやって死んだほうがいい」という刷り込みによって「つくられる」のだそうです。
クリント・イーストウッド監督が本人たちを起用したのは、本人たちが「演じる」ことによって、「英雄を貶めるな」あるいは「美化するな」という声を封じる意図があったのではないか、と僕は思っています。
彼らが「普通の人間」であること、そして、周囲の人たちは、ひとつの事件での彼らの行動で、あっさりと彼らへの評価を変えてしまったこと。
この映画のなかでは、極力、彼らがやったことが、なんでそのシーンが必要なの?と思うほど、そのまま描かれているようにみえるのです。
レビューのなかに、「ドキュメンタリー番組の再現映像みたい」というのがあったのですが、まさにその通りなんですよ。
ただ、再現フィルムであれば、彼らがヴェネツィアでアメリカから来た女の子と一緒に観光をする場面まで入れることはなかったはずです。



……とかいうのも、僕がイーストウッド監督の大ファンだから、なのでしょうね。
そういう「イーストウッド監督作ということで、評価に下駄を履かせる」のでなければ、何これ……「もうすぐ○○戦!」とさんざん煽りながら実際の試合はその2時間後、という大晦日の格闘技中継みたいだ、あるいは、「世界まる見え!テレビ特捜部」で十分ではないか、と思われても仕方ないとも思うのです。
「事件の再現映像」としては、30分でも時間が余るくらいのボリュームしかない。
そして、その「余分なところ」にこそ、この映画の価値がある……ような気がします(あんまり自信はないのだけれど)。


主役の3人を本人たちが自分で演じている、というのを考えると、映画とは、役者とは、演技とは何なのだろう?とあらためて考えさせられます。
素人によくここまで「演技」をさせたなあ、と感心するというより、正直、まったく違和感はありませんでした。
「再現ドラマみたいな映画」は多いし、「歴史上の人物にいかに似せるか」が役者の評価になるような時代でもある。
これから、「本人出演」が流行りになるのだろうか。


fujipon.hatenadiary.com
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