琥珀色の戯言

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【読書感想】健康を食い物にするメディアたち ネット時代の医療情報との付き合い方 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
WELQ問題の火付け役 朽木誠一郎が語る
医療デマから身を守り、誰も騙されない世の中をつくるために今できること


ネット時代の今、私たちの「健康になりたい」という切実な想いが狙われています。
ウソや不正確な健康情報を粗製乱造するメディアたち、量産される健康本、健康食品ビジネスの闇。
さらには、高度に発達したテクノロジーにより手口が複雑化し、見分けるのがますます難しくなってきている医療デマ。


なぜ、私たちは医療デマに「騙され」てしまうのか、医療デマに「騙されない」ためにはどうすればいいのか――。


WELQ問題」の火付け役となった著者は、医学部卒業後ウェブメディアの編集長を経て医療記者となり、
「ネット時代の医療情報との付き合い方」というテーマで取材を重ねています。
本書は、このテーマでの取材内容をまとめ、なぜ健康・医療に関してウソや不正確な情報、デマが発生しやすいのか、
それらから身を守るために今私たちにできることを紹介するものです。


 僕はこれを読みながら、『「ニセ医学に」騙されないために』という本のことを思い出していました。


fujipon.hatenadiary.com


 「ニセ医学に騙されてしまう人たち」を「愚かだ」と切り捨ててしまうのではなく、「人間とは、とくに病に苦しんでいる人間は、信じたくなってしまうのが当たり前なのだ」という前提に立って発信している人は、そんなに多くはないのです。
 医療の側にも、メディアの側にも。
『ニセ医学に騙されないために』が、医療者側からのアプローチだとすれば、この本は、メディア側からの歩み寄り、と言えると思います。


 著者は、医学部医学科を卒業後、医者ではなくライターという仕事を選び、ネットメディアでの情報発信に携わってきました。著者が最初に指摘した「WELQ問題」は、「医療に関するデマ」と「そのデマを検索上位に常時させるネットでのテクニック」の複合汚染と言うべきもので、医療とネットメディアの特性について熟知していないと、その問題の大きさが理解しがたい、というものだったのです。
 正直、WELQで問題になったデマ記事を読んだときには「こんな与太話、みんな信じないに決まってるよ」と僕は思ったのですが、ネットで検索上位に表示されるだけで、大きな影響を及ぼすことがあるんですよね。

 医療記者として、私は、この構造を巡るさまざまな問題を取材してきました。WELQと同じ手法で急拡大したいくつかの医療系ネットメディアや、深刻な出版不況で過激な「健康本」を作らざるを得ない出版業界……。このような事例を基に、「私たちはなぜ騙されるのか」、「どうすれば騙されにくくなるのか」を、本書を通じて考えていきたいと思います。


 「どうすれば騙されないのか」ではなくて、「どうすれば騙されにくくなるのか」。
 著者は「絶対に騙されない人はいない」という前提で、この本を書いていて、それはとても大事なことだと感じるのです。

 本の売り上げが落ちてくるなかで、「健康本」とくに、「がんは放置してよい」というような「読者をミスリードする可能性が高い、偏った健康本」は、出版社にとっては、貴重な「売り上げが期待できる本」なのです。
 「賢いエリート」のはずの出版業界の人たちが、なんでこんなおかしな情報を大手出版社の名のもとにまき散らすんだ……と愕然とすることも少なくありません。
 そして、医療の専門家でない人が主張する「治療法」は、まず疑ってかかるべきだけれど、医師免許を持っているからといって、必ずしも正しいことを言っているとはかぎらないんですよね。
 僕もさまざまな医者をみてきましたが、「トンデモ医療」や「個人の経験だけに基づく素晴らしい治療法」を主張する医者も、少なからずいるのです。
 しかも、そういう人に限って、大手出版社から、「わかりやすくて簡単な治療法や健康に関する本」を出版しがちです。
 そして、彼らの多くは、「本当に自説を信じている」のです。


 そして、普通の医者の普通の日常診療のなかにも、「100%患者さんのため」とは言い切れないような状況というのもある。
 著者は、こんな例を挙げています。

 医師が、必ずしも患者の利益のことだけを考える存在ではないという点にも、注意が必要です。このことは、私たちが騙されにくくなるためにも、知っておかなければなりません。
 医師も人間であり、意識的か無意識化によらず、「ズル」をすることがあります。これを専門的には、医療において医師は「不完全な代理人」であると表現します。
 「完全な代理人」としての医師というのは、患者の利益を最大化することだけに集中している存在です。しかし、実際は、「患者の利益を最大化する」と同時に、「自分の利益を最大化する」ように行動してしまうのが人間です。ここでいう利益とは、経済的なものに留まらず、「研究のため」なども含まれます。何も、不当にお金を儲けたり、研究のために人体実験をしたり……というわかりやすいズルだけを意味するものではありません。


 例えば、5歳のたかしくんが公園で転倒したとしましょう。医師は適切に診察をして、大きな問題はないので「帰宅させて様子を見よう」と判断しました。医師がそう保護者に説明すると、たかしくんのお母さんは「先生、心配だから念のため頭のCTを撮ってください」といいます。
 さて、ここで「念のため」頭部CTを撮影することは、医学的に妥当でしょうか。不必要な頭部CTは将来のガンのリスクをわずかではあるが上げるという報告があり、基本的には避けたい、とこの医師は考えました。しかしここに、このクリニックにはCTを撮影するための機器があって、ある程度は稼働させないとクリニックが赤字になるという事情があったとします。この医師がCTを撮影する誘惑に駆られない保証はあるでしょうか。
 この場合のポイントは、医師に「たかしくんのお母さんを安心させる」という大義名分ができてしまったことです。もしかするとこの医師は、医学的には妥当ではなくても、CTを撮影してしまうかもしれません。もちろん、リスクはわずかなものであり、このような特殊な状況での医師の行動を責めるのはフェアではありません。
 あえてこのような例を紹介したのは、これもまた一つの経済合理性の形であることに注目してほしかったからです。経済合理性は、医師に対しても働き得るものなのです。


 患者さんのために仕事をする、というのは大前提なのだけれど、じゃあ、無給でも、あるいは、食べていけないほどの安月給でも、医者として働いていけるか?と問われたら、「それはちょっと無理」だと思う医者のほうが、多いのではないでしょうか。
 昔の中国では、公務員の汚職が当たり前のように行われていました。
 汚職をやらないと食べていけないくらいの報酬しかない、という現実があったのです。
 そういう状況では、「普通の人」は、「生きていくため」だと自分に言い聞かせて、多少の不正はやむなし、と考えてしまうものなのです。


 僕の実感としては、ネットでこういう状況について書かれていると「親を説得しろ、CTなんて撮る必要はない!」という人が多いのに、救急外来では、「もし検査しないで、何かあったらどうするんだ!」って言う親が多いんですよね。
 人は、自分のこととなると、「科学的であること」よりも「不安」のほうが先に立ってしまう。


 出版業界も、景気がよければ、自浄作用も働きやすいだろうけれど、いまの出版不況のなかで、モラルが低下していくのも、「当たり前のこと」なのかもしれません。出版という仕事の性格上、それじゃ困るのですが、トンデモ医療も「表現の自由」だと言い張ることだって、理屈としては、できなくはない。そして、評価されるのは、「良い本をつくった人」よりも「売れる本をつくった人」になりがちです。
 メディアも、「ウケる記事」の魅力に抗うのは難しい。
 「ちゃんとした内容」を書いても、読まれなければ、書いてないのと同じではないのか?
 「ラクだけど、効果が怪しかったり、危険だったりするやりかた」を選んでいるのは、受け手のほうじゃないか。われわれは、押し売りしているわけではないのだから」
 「ダイエットのためには、食事制限と運動療法」みたいな、当たり前のことを述べても、誰も耳を傾けてはくれない。
 「そんなことはわかっている。われわれが知りたいのは、『ラクして痩せる方法』なんだ」
 いや、ダイエットであれば、失敗しても、即、命にかかわる、ということはないのだけれど、癌の治療となれば、初期対応を誤れば、治るものも治らなくなります。
 いまの医療では、早い時期の癌であれば治癒率はかなり高いですし、ある程度進行したものでも、かなりの延命が期待できる治療も存在しています。
 にもかかわらず、人は「標準治療」を信頼できない。
 なにか「特別な方法」があるのではないか、と思い込んでしまう。
 スティーブ・ジョブズでさえ、膵臓がんが見つかったときには比較的早期で、手術をすすめられたにもかかわらず、「もっと良い治療法」を探った末に、若くして命を落としました。
 もし、「医者たちが自分たちの金儲けのために隠している秘密の治療」があるのだとしたら、いまの世の中で、VIP中のVIPであり、最先端の医療を受けられたはずのジョブズがそれを享受できない、なんてことがありうるでしょうか?
 

 著者は、日本テレビの報道記者・ニュースキャスターである鈴木美穂さんのこんな話を紹介しています。
 鈴木さんは、2008年、24歳のときに乳がんを発症し、8ヶ月の休職・治療ののち職場に復帰し、現在は本業とともにがん患者を支援する活動を続けておられるそうです。
 著者も参加していた座談会のなかで、鈴木さんは、こんな話をされていたそうです。

 例えば、突然あまりよく知らない人から連絡がきたり、イベントに行ったときに話しかけられたりして。「あなたがやっている抗がん剤治療は毒だから、一刻も早くやめたほうがいい」とか、「それは標準なんだけど、お金さえあればもっと簡単に治療できるんだよ」とか、そんなことを言われました。


 もちろん、標準治療は並の治療という意味ではなく「最善の治療」です。鈴木氏は、「有名だったり、お金があったりするほど、標準じゃないものを選んでしまいがちなのでは」と懸念します。「標準じゃなくて、特別なことができると思うからでしょうか」と鈴木氏。

 私は10年前、2008年に乳がんになりました。こういうと、「がんになって10年経ってそんなに元気で、何か特別な治療をしたんですか?」と聞かれることがあります。でも、私は特別なことはしていません。ガイドラインに沿ったもの、「標準治療」と呼ばれるものを受けただけです。


 しかし、治療中にはやはり、このような誘惑により迷いが生じたこともあったそうです。

 私は記者で、納得がいくまで調べて精査したうえで、この治療を選んだ、とわかっていても、そのときは心が揺れました。やっぱり当時、抗がん剤治療はつらくて、これをやらないで済むのであれば、(他の何かを(著者注))やってみたいと思ったことは何度もあります。結局はやらなかったのですが。


 ではなぜ、鈴木氏はこのような誘惑に屈しなかったのでしょうか。背景には、鈴木氏が医療者と積極的にコミュニケーションを図ったことがあります。

 私の場合は、積極的に医師の意見を聞きに行き、知識を収集したからだと思います。自分の病気について、主治医以外の他の医師に意見を聞くことを「セカンドオピニオン」といいますが、私もそうしました。


 複数の医師に相談し、病気についての知識を身につけていく間に、「少しずつ自分にとって何を選ぶのがベストなのかが見えてきました」と鈴木氏。当時の誘惑について、「今振り返ってみると、選ばなかった中には『こっちを選んでいたら、今、私はここにいないだろうな』と思うものもある」と話します。


 特殊な民間療法や健康法で「治った」という人の体験談は積極的に発信されています。
 それはもちろん、発信する側の「宣伝」でもあるのですが、実際には「標準治療を受けて、病気が良くなったり、長く生きることができている人」のほうが、ずっと多いのです。でも、「標準治療を受けて、うまくいった人」の肉声というのは、なかなか拡散されない。
 鈴木さんのように、セカンドオピニオンも含めて、広く視野を持って自分で病気のことを知り、決断しようとしている人は医者にとっても説明しやすいんですよね。セカンドオピニオンだって、どんどん利用してもらったほうがいい。自分の命がかかった問題なのだから。


 その一方で、患者さんのなかには「自分の信じたいものしか信じない」あるいは、「他人の話に耳を傾けてくれない」人もいて、どうすればいいのか……と困惑することも少なくないのです。
 そういう患者さんや家族が、のちに「医者はちゃんと説明してくれなかった」とクレームをつけてくることもあって、人と人とのコミュニケーションの難しさに悩まされます。
 正直なところ、多くの患者さんは、医療者が提供する「情報」よりも、目の前の医療者の「人柄」に左右されているのではないか、と感じます。


 基本的に、人は「信じたいものを信じる」ものです。
 だからこそ、ネットなどの「前向きなトーンの怪しげな治療」に引き寄せられやすい。
 そして、病気になると、人は「孤立感」にさいなまれる。
 そこに、「ニセ医学」は、忍び寄ってくる。
 「ニセ医学」も、「金儲けのため」にやっている人ばかりではなくて、本当に信じている人たちもいる。
「でも、実際にそれで治ったという人もいるんです!」と言われた場合には、科学的であろうとすれば、「標準医療が、さまざまなデータを積み重ねた結果、現在、いちばん可能性が高い治療法である」という説明しかできないのです。その医療者が、真摯であろうとすれば。
 ツーアウト満塁で、打率3割の代打と、1割の代打のどっちを起用するか問われれば、ふつう、3割のほうを出しますよね。
 しかしながら、そこで、「いまは打率1割だけど、こっちのほうが打ちそうな感じがする」あるいは「3割の選手は、いま、調子を落としているんですよ」とか、耳元でささやく人がいる。
 結局、最後に決めるのは、監督なのです。


 医者をやっていると、「じゃあ、自分では専門的なことはよくわからないので、先生が決めてください」って言われることが、少なからずあるんですよ。
 そういうときに、「いや、最終的に決めるのは、患者さんの権利だから」と話をしながら、僕は考えるのです。
 これまで、腎臓が2つあることも知らなかった、という人には「よくわからない」というのが現実だろうし、ネットなどで検索して目に入ってきたものを信じてしまうのは、仕方がないのかな、とも思う。医療を20年やってきた僕だって迷うようなことも少なくないのに。だからこそ、人間の医者というのが、まだまだ必要なのかな、とも。
 実際のところ、患者さんは「この情報が正しいか」よりも、「目の前の医者は、信頼できる人間か」で、決断をしているのではないか、と感じるし、医者の側にも、「手術の成功率は80%」と説明するか、「うまくいかない可能性が20%あります」と言うかで、相手の結論を誘導できるという怖さもある。
「この抗がん剤の治療はラクではないし、お金もかかるけれど、平均半年間延命できて、やり残したことができる」と説明するのと、「お金がかかってきつい治療に耐えて、うまくいけば半年間長生きするのと、痛みを抑えるような治療で、身体が動くうちはやりたいことをやり、あとは自然に任せるのと、どちらが良いでしょうか?」と問いかけるのとでは、当然、相手がどちらを選択するかの割合も変わってきます。
 そもそも、医療の情報というのは、わかりやすくしようとすればするほど、いろんなものがこぼれ落ちていくものです。

 しかし、ここで考えてみたいことがあります。私たちは科学的でなければいけないのでしょうか。科学的であることは、非科学的であることを責め立ててもいいほどの「正義」なのでしょうか。
 

 誤解のないようにいっておくと、私は医学教育を受けた医学の徒であり、科学的な思考をする人間です。医療記者になるまでは、非科学的なものごとに対して「インチキ」「トンデモ」という言葉を使っていました。ところが、医療記者として、日々さまざまな医学的論争を目にするごとに、少しずつ考え方が変わっていったのです。
 それは科学の限界に気づいたからなのかもしれません。どれだけエビデンスが強いといっても、「嫌だ」「怖い」という人に、無理やり何かを強制することはできるのでしょうか。
 できないのです。できないから、科学的な人ほど、そのことに苦しみます。
「なぜ、これほどまでに科学的に明らかなことが通じないのか」と。残念なことに、そうすると次第に、科学的であることに先鋭化する人が現れます。主張がどんどん極端になっていったり、その主張を理解できない人に攻撃的になっていったり。
 これまでに繰り返し説明したように、健康・医療情報というのは複雑です。複雑なことを丁寧に伝えようとすると、伝わらない。単純で過激なウソのメッセージのほうが伝わってしまう。このことに無力感を持つのはまだいいほうです。本当に怖いのは、自分の主張もどんどん単純かつ過激になっていくこと……。こうして変質してしまった専門家の方を、私は何人も見てきました。


 非科学的なことを信じ込んでいる人にも、理由があるものです。例えば、子どもがなんらかの薬を飲んで、たまたまごく稀な副作用が出てしまった、とか。そうなってしまった人たちに「その副作用が起きる確率は1%以下のもので、不運だっただけです」「社会全体として病気を防ぐためには、みんながその薬を飲んだほうがいい」といったところで、通じないでしょう。
 なんの落ち度もない自分の子どもが被害を受けたのです。その事実は、その薬を飲むことに反対する理由としては十分でしょう。しかし、科学への信頼の強い人たちは、科学を有効なものとして考えて話します。その言動は、不運にも科学の恩恵にあずかれなかった人を傷つけてしまうのです。


 著者は、インターネットの医療情報の危うさに警鐘を鳴らすとともに、ネットには自浄作用も生まれてきていていることを紹介しています。
 「WELQ問題」は、「PV、お金至上主義の末路」だと思われがちだけれど、これからのネットと医療の歴史を考えると、良い方向へのターニングポイントとして語られる可能性も十分にある。


 「ネットで医療情報を調べる人」の弊害は、現場でさんざん感じてきたけれど、その一方で、これまでは「親や近所の人たちの口コミや家庭の医学書」でしかアプローチできなかった医療というものに、多くの人が気軽に触れられるようになった、というメリットもあるのです。
 医者としては、「ネットで調べました」という患者さんにちゃんとした情報を説明できるように、よりいっそう勉強しなければいけないな、という自戒もあるのです。それは、医療者の側からしても、「大変だけれど、悪いことばかりではない」。


 蛇足になるのですが、僕は「医者になりたくなかったのに、結局なってしまって、加齢とともに現状を受け入れつつも、こうやってネットばっかりやっている人間」なので、朽木誠一郎さんの仕事を応援しつつも、「ああ、羨ましいな。こういう仕事、僕がやってみたかったな(できるかどうかはさておき)」なんて思ってもいたのです。
 その一方で、本当に立派な医者っていうのは、ネット活動にいそしむよりも、論文読んだり回診したりしているよな、と自嘲してもいる。
 医者に、科学者になりきれない人間だからこそ、向いている仕事や役割というのもあるのではないか、そんなことを考えながら、読みました。


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