琥珀色の戯言

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【読書感想】誰も語らなかったジブリを語ろう ☆☆☆

内容紹介
世界のアニメーションに影響を与えた“スタジオジブリ”を、これまた世界中からリスペクトされる監督・押井守が語り尽くす。スタジオジブリの劇場公開作を振り返りつつ、「これまでのジブリ、これからのアニメーション」まで縦横無尽に語った痛快&ディープなインタビュー。<目次>第一章 矛盾を抱えた天才 宮崎駿/第二章 リアリズムの鬼 高畑勲/第三章 ジブリ第三の監督たち/第四章 小さな巨人――スタジオジブリ カバーイラスト/湯浅政明


 押井守監督が語る、スタジオジブリの作品たち。
 ジブリの作品は、興行的に成功し、テレビで放映されれば何度でも高視聴率を維持し、映像ソフトでも稼いでいるという「ドル箱」であるため、ジブリ作品に対するネガティブな評価は、なかなか難しい状況なのだそうです。
 もちろん、宮崎駿監督が、「悪口を言うな」と牽制しているわけではなくて、業界全体が「忖度」してしまっている、ということなのでしょう。
 そんななか、あの押井守監督が、本音で「ジブリ作品」を語ったのがこの本です。
 聞き役は、映画ライターの渡辺マキさん。
 

 読んでみると、「けっこう細かいところに揚げ足をとっている」ように感じるところもあり、同業者だけあって、ディテールを徹底的に観ているのだなあ、とも思いました。
 押井さんの話をきくと、『ジブリ』というのは、語られるときに「美化」されがちだけれど、必ずしも「綺麗なもの」だけを描いているわけではないのです。
 

——『ナウシカ』、押井さんは好きなんですか?


押井守僕はまったく好きじゃありません。公開当時からそれは変わらない。世界を救うレベルの話が嫌いだし、ナウシカは完全無欠のヒロインすぎる。


——父親(族長ジル)を助けようとして、敵をメッタ斬りにするのにはちょっと驚きました。ここまで描くんだって。


押井:そうなんだよ。後半には重機関銃まで登場して、ナウシカは腰だめで撃つ。必要とあらば暴力をいとわないボリシェビズム。ナウシカは堂々と殺している。公開当時は「それが嫌だ」という人がいたし、子供文化関係のおばさんは「女の子が人を殺しまくる映画がなぜ評価されるのか理解できない」と言っていた。ある意味、まっとうな意見だと思うけどね。


——でも、自然描写は素晴らしかった!


押井:それは宮さんの十八番。『赤毛のアン』の頃から「自然描写といえば宮崎駿」と言われていたのは事実だから。単純な塗り分けだけですべてを表現できるし、本人も「線と塗り分けだけで表現できないものはない」と豪語していた。実際その通りなのだから、これは認めざるを得ない。
 ほかにも、パンを頬張ったりシチューをすすったりという、ものを食べる描写の上手さは天下一品。あとは服のボタンをかける仕草とかね。宮さんの口癖のひとつは「基本的にアニメーションは感覚の再現」というもので、これは僕も散々聞かされた。感覚を再現できるのがアニメーターであって、正確に手順を踏んで描くのはアニメートではないというのが持論なんだよ。


 押井さんは、なんでもかんでも悪口を言っているわけではなくて、「宮崎駿のすごいところ」は、ちゃんと認めながら話をしておられます。
 押井さんが「宮さんの作品のなかでいちばん好きかもしれない」と仰っている『天空の城ラピュタ』のあの名場面(?)については、こんな苦言も呈しているのです。

 でも、その一方で、残念な矛盾点もある。「(映画を)観ている間、信じられればいい」というコンセプトで作っているくせに、びっくりするような残酷さがあるじゃない? ゴリアテ(飛行戦艦)から兵士たちがバラバラと落ちて行くシーンだよ。しかも、その様子を眺めながらムスカが「見ろ! 人がゴミのようだ」と言って笑うんだから、あれには正直、かなりびっくりした。残酷さはファンタジーに付きものの要素だとはいえ、この映画でやる必要があるんだろうかと思ったわけ。僕に言わせれば「不必要な残酷さ」。作品が目指しているものと、実現したものがある種の破綻を起こしている。それは宮さんのもっている本質的な残酷さだと、僕は思っているけどね。


——確かに、ちょっとぎょっとしました。


 「見ろ! 人がゴミのようだ」のシーンって、あの映画のなかでは、場違いな感じがするからこそ、けっこうインパクトがあるし、記憶に残るんですよね。
 子どもが見る映画としては、そして、『ラピュタ』の作品の世界観からすると、「なぜいきなりこんな残虐シーンが?」と言いたくなるのはわかります。
 でも、そういう「イビツさ」や「違和感」って、観客にとっては、けっこう大事なもののような気がするのです。
 ただし、そういうのを狙ってやっているのが伝わってくると、シラケてしまう。
 難しいものだよなあ。


 押井さんは、『となりのトトロ』の回では、「宮崎駿はアニメーターとしては不世出の天才だが、監督としての力は二流以下だ」とまで仰っているのです。

——二流どころか二流以下?


押井:はい。いつも言っていることです。彼の作品を支えているのは演出力じゃなくて、アニメーターとしての手腕。さっきも言ったように構成力がなく、よって長編もできない。にもかかわらず長編を作ってしまうから破綻している。僕はさんざん言ってきたことだけど、活字として語られたことはないと思うよ。これまで、誰も活字にしなかったから。


 たしかに、ストーリーがいきなり飛躍してしまったり、美しさのなかに、突然残酷さが投げ込まれていたり、というようなところがジブリの作品にはあるのです。それは魅力でもあると僕は思うのだけれど。
 押井さんは「ジブリの作品は、宮崎駿のアニメーターとしての卓越した能力で、記憶に残る名場面をつくることができるのが強みだった」と述べているのです。
 どんな話だったかは覚えていなくても、雨の中に佇むトトロや「精緻に描かれた動く城」の場面は記憶に残っているんですよね。

 
 あの『千と千尋の神隠し』について、押井さんはこうコメントしています。

押井:本当に何度も言っちゃうけど、宮さんの映画を語るときの常套句が「あのシーンが凄かった」「あの子がかわいい」「あのキャラクターが最高」。「あの」しか出てこない。作品全体を語るということが、まずないんだよ。
 で、この作品で僕が気になったのはレイアウト。レイアウト力がめっきり落ちてしまった。釜炊き場の空間や、湯屋の内部の空間に見られる不整合は、いまに始まったことじゃないから目をつぶるとしても、レイアウトのダイナミズムがなくなった。あんな凄い立体的な湯屋を作っておきながら、高さのレイアウトがあまりないんだよ。カメラが横にしか移動しないし、上下移動のときはエレベーターだなんてありえない。昔の宮さんだったらあんなラクチン、絶対しないから。すげえ階段作ってワーワーやるに決まってる。エレベーターという発想なんて、ホントにありえない。驚いた。
 おそらく、最初は「凄いことをやる」というつもりだったんだと思う。でも、気力がそれについて行かなかった。それは『もののけ』の頃から感じていたことで、徐々にほかの原画マンに任せるようになったんだよ。アニメーションの現場ではやはり画のことがもっとも話題になるから、そういう意味で『千尋』のときは「さすがの宮さんも」という表現が多かった。つまり”歳”を感じちゃったわけ。アニメーションは基本、全部手作業だから、そういう変化を隠しきれないんだよ。
 そういう視点で改めて宮崎作品を観てみると、画のクオリティのピークは『魔女宅』だと思う。そして、自分の作品としてのピーク、つまり成熟度は『千尋』辺りからかな。面白いよね、自分の作品としてのピークと、クオリティのピークは一致しないんだよ。それは宮さんに限らず、そいうことになる。『魔女宅』は宮さんがもう一度、観たい映画じゃないと思うから皮肉でもあるんだけどさ。


 『千と千尋の神隠し』は、2001年公開で、宮崎駿監督は1941年生まれ。
 一般的には、ハードな仕事をやりきるには、ちょっときつい年齢ではあるし、少なくとも若い頃よりは、絵を描くことへの体力や集中力は落ちてきているはずです。
 そんななかで、あれだけの作品をつくってきたのは凄い。
 そして、好きなものをつくれる立場になったときには、もうあまり時間がなくなってしまっていた、という面もあるのだろうなあ。
 

 宮崎駿監督や鈴木敏夫プロデューサーと直接の親交もある押井さんだからこそ「語れる」ジブリの作品たち。
 けっこうキツいことも言っているのだけれど、「盲信」している人のレビューよりも、ジブリ作品への溢れる愛情というか、抑え切れない執着みたいなものを感じるのです。

 

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