琥珀色の戯言

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【読書感想】かがみの孤城 ☆☆☆☆☆

かがみの孤城

かがみの孤城


Kindle版もあります。

かがみの孤城

かがみの孤城

内容紹介
あなたを、助けたい。


学校での居場所をなくし、閉じこもっていたこころの目の前で、ある日突然部屋の鏡が光り始めた。輝く鏡をくぐり抜けた先にあったのは、城のような不思議な建物。そこにはちょうどこころと似た境遇の7人が集められていた――
なぜこの7人が、なぜこの場所に。すべてが明らかになるとき、驚きとともに大きな感動に包まれる。
生きづらさを感じているすべての人に贈る物語。一気読み必至の著者最高傑作。


 「2018年本屋大賞」ノミネート作。
 不登校の子どもたちが集められた、不思議な城……
 こんなの童話じゃないか、とも思うし、なんか説教臭い話なんだろうな、と身構えて読み始めたのです。
 でも、読んでいるうちに、この物語の世界に引き込まれてしまって。
 設定が、「こんなことあるわけないだろ」っていうようなものであるにもかかわらず、登場人物の感情の動きや周囲の人の反応があまりにもリアルで、「大きな噓」が気にならなくなっていくんですよ。
 何より、「この話、どういうふうに決着がつくんだろう?」と、けっして明るくない題材にもかかわらず、面白くて(と言っていいのかわからないのですが)、どんどん読み進めてしまうのです。
 ただ、いま、その嵐の中にいる人には、現実を突きつけられて、読むのがつらい本かもしれません。「親が子どもに読ませたい本」って、いうのは、大概「子どもにとっては読みたくない本」なんだよなあ。
 僕も、今だから、もう、そういう時期を通り過ぎてきたからこそ、こうして昔の傷跡みたいなものをなぞるつもりで読める。
 そして、大人たちが「子どもたちのために」とやっているつもりのことは、なんでこんなにいつも的外れなのだろう、と打ちのめされるのです。


 僕がこの小説を好きだと思えるのは、安易な解決や相互理解を描いていないから、なんですよね。
 わからないものは、わからない。
 そして、これを読んでいてあらためて思うのは、「イジメや嫌がらせをするような人たちは、なぜ、そんなことをするのだろう?」という「加害者の気持ちや動機」というのを語る人は、ほとんどいない、ということなのです。
 そんなこと言ったら、叩かれるに決まってますからね。
 ネットで、元コーネリアス小山田圭吾さんの「いじめた経験」の話を読んで、胸糞悪くなってしまったことがあるのですが、これはある意味、貴重な証言でもあります。


matome.naver.jp


 『かがみの孤城』でも、主人公・こころがクラスの中心の女にいじめられている(というか、精神的虐待とか恐喝を受けている)場面を読んで、僕は本当に腹が立って仕方がなかった。
 僕自身も、軽くいじめられたりしたこともあったし、他人がいじめられている状況に、見て見ぬふりをしてきたこともあった。
 「無罪」ではない。

 ——どうして、自分があの人たちに目をつけられてしまったのか。
 無視される。
 陰口を言われる。
 他の子にも、こころと仲良くしないほうがいいよ、と話をされる。
 笑う。
 笑う笑う笑う。
 こころを、笑う。
 おなかが痛くて、閉じこもったトイレの個室で、真田さんが外で笑う声が聞こえる。もうすぐ休み時間が終わってしまうけれど、あの子たちがいるから外に出られない——。泣きそうな気持ちで思い切って外に出ると、すぐ隣の個室から、「あ」という短い声とともに真田さんが出てきた。こころの顔を観て、ニヤニヤ笑う。


 こうして大人になって考えてみても、あいつらが、なんでイジメをやっていたのかは、よくわからないのです。
 いじめられたり、いじめを止められなかったことを気に病んでいる人たちが、そのつらい思い出から逃れられないのに対して、イジメを楽しげにやっていた連中は、自分がやっていたことを覚えていなかったり、「あの頃は若かったね!」なんて子どものいたずらみたいに考えたりしている。
 世の中の「教育委員会的な発想」では、イジメをやる連中といじめられた側の生徒は「対話」し、「和解」するべき、それが正しい、と思われている節があるけれど、世の中の「イジメ上手な連中」は、「やり返してきたら、お前も同罪だからな」と恫喝したり、「私たちは謝りたいんですけど、相手が対話に応じてくれないんです」と周囲にアピールしたりする。大人は、「ちゃんと話し合って、仲良くなりました」という「理想のストーリー」に拘泥して、被害者の気持ちを無視してしまうのです。
 この作品には「そういう場面」が、きちんと描かれています。


 結局のところ、いじめられている、という現実から脱出するには、「大人になって、もっと広い世界のなかで、自分の居場所を見つける」しかないのかもしれません。
 少なくとも、僕は、そう思っています。
 もちろん、自分が学生のときには、そんなふうには考えられなかったのだけれど。
 学生時代って、家と学校と部活くらいが、「自分の世界」だったから。
 そして、自分は、その中での役割をうまくこなすことを求められていると知っていたから。


 「いじめる側」だって、人間なのだとは思う。でも、そんな人間とわかり合うのは難しいし、そのために時間をかけたり、リスクをおかす価値があるのだろうか。
 わかり合おう、仲良くしようとするからこそ、それが正しいと考えてしまうから、あまりにも理解不能な相手の言動に傷ついてしまうのであって、「お互いのテリトリーを守って、棲み分けたほうが良い」ことを学ぶべきではないのか。
 ただ、そう言いながらも、やっぱり、人は自分のことを誰かにわかってほしい、と思うし、孤独であることが、どうしようもなくつらい夜もある。
 なんだかもう、この本の感想とは離れていっているのですが、僕はそんなことをずっと考えながら読んでいたのです。
 

 ある登場人物の言葉。

「低く見えるのなんて当たり前じゃん。あの子たち、恋愛とか、目の前のことしか見えてないんだもん。クラスの中じゃ中心かもしれないけど成績も悪いし、きっとろくな人生送らないよ。十年後、どっちが上にいると思ってんだよって感じ」


 これはこれで、「嫌な感じ」なんですが、僕も昔、嫌な目にあわされるたびに「お前が将来、僕のところに金を借りにきても、絶対に貸してやらないからな」って、心のなかで毒づいていました。そうでもしないと、やりきれなかった。
 子供時代に人間関係がうまくいかなかったという記憶は、一生、その人の傷や歪みになるのでしょうね。


 なんだか、ものすごくダークな感想になってしまいましたが、この『かがみの孤城』は「安易に救われない物語」だからこそ、救いになっているのではないか、と僕は感じました。
 けっこう分厚い本で、こんな課題図書みたいなの、読みきれるだろうか……と不安だったのですが、この40代半ばのオッサンが一気読みしてしまうとは。
 正直、この物語は、ミステリとしては途中で先が読めるし、パズルのピースがきっちりはまりすぎていて、それはそれで居心地が悪い気もするんですよ。辻村さん、上手いけど、上手すぎるんだよなあ、って思いました。
 上手い、と上手すぎるの境界というのは、難しいところではあるのですが。


 僕は思うのです。
「これ、自分が中学生くらいのときに読んでおきたかったな」って。
 本って、だいたい、「読むべき時」を過ぎてから読んでしまうのだよなあ。
 そして、「読むべき時」には、その価値が、わからないものでもあるのです。
 騙されたと思って、ぜひ読んでみてください。本当に「面白い」から。


凍りのくじら (講談社文庫)

凍りのくじら (講談社文庫)

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