琥珀色の戯言

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【読書感想】日本を蝕む「極論」の正体 ☆☆☆☆

日本を蝕む「極論」の正体 (新潮新書)

日本を蝕む「極論」の正体 (新潮新書)


Kindle版もあります。

日本を蝕む「極論」の正体(新潮新書)

日本を蝕む「極論」の正体(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
極論を目にすることが増えた。政界、教育現場、論壇、職場、メディア…あらゆる場所で左右も保革も関係なく、ちょっと冷静になれば明らかに変だとわかることを声高に主張し、他人を糾弾する「極端な人たち」が目立つ。それはかつての連合赤軍オウム真理教を想起させる存在だ。「バブル賛歌」「TPP亡国論」「地方消滅」「憲法九条無殺生論」等々、はびこる極論の奇怪さを嗤い、その背景を考察する。


 インターネットによって、今まで隠されていたものも含めて、さまざまな視点からの情報を得ることができるようになり、多くの人の視野が広がり、より正しい判断ができるようになるはず!
 ……だと、20年前の僕は考えていました。
 ところが、ネットがこんなに「普通のもの」になった時代でも、デマは流れてくるし、「何それ?」と言いたくなるような「極論」を主張する人たちが減っているようにも感じられない。
 もちろん、デマを鎮火する人たちが出てきたり、「極論」が可視化されるようになった、という長所があるのも事実なので、一概に「ネットのおかげで『極論』を信じる人が増えた」というわけでもないのですが。
 その一方で、最近の検索というのはものすごく便利になっていて、「こちらが欲しい情報を先読みし、カスタマイズして提供してくれる」ようになっています。
 手間は省けるのだけれど、「自分が信じているものを補強する情報ばかりが集まってきやすい」という怖さもあるのです。

 最近、極論というものを目にすることが多くなった。そしてその極論を信じ、極論に群がる人々が増えているような気がする。
 人類が滅亡するとか、フリーメイソンが世界を牛耳っているとか、まあ良くあるそういった古典的な陰謀論はもとより、民主的に選出された政権を「独裁」「ファッショ」と決めつけたり、防衛予算を少し上げ、北朝鮮に圧力を加えろと言っただけで「戦争になる」「若者が徴兵される」、今すぐ原発をゼロにしないと日本が滅ぶ、天皇家の継嗣は男系男子以外は認められない、などしきりだ。
 或いはこのままいけば人口減少で日本の地方は崩壊し日本の国力は見るも無残に衰微する。ちょっと前にはTPPで日本が滅びる、なんていうのもあった。果てはバブルの頃に比べて今の日本は〜若者は〜なんてものもある。
 こういったものを、私はすべて極論と見なしている。極論を辞書で引くと、おおむね次のように出てくる。「極端な言い方や論じ方をすること。また、そのような議論。極言」。私流にこの定義を言い換えれば、極論とはコモンセンスから外れた物言いである。コモンセンスとは市井の大衆における常識だ。常識を持った人物ならば、上記のような極論が出てきても無視することができる。しかし、たとえ元来常識を持った人々でも、ある一定の状況下に置かれると、この極論も正論だという風になり、雪だるま式に影響力を持つようになる。


 そもそも極論はどのように発生するのだろうか。ごく簡単に言えば、競争のない、閉鎖的な集団や組織から極論は常に発生する。外部から見えづらい、つまり第三者から監視・監査されない「内向き」の組織や団体の中での物言いは、次第に極論となり沸騰してくるが、その内部にいる人間たちには正論として信じられてしまう。
 一旦、この内向きの組織に取り込まれた人々は、もともと常識人であってもその強烈な同調圧力の中で次第に極論を正論と思い込むようになる。これが極論発生のメカニズムである。身内でしか通用しない特有の言い回しをジャーゴン(組織内言語)という。


 Twitterとかを眺めていると、有識者と呼ばれる人のなかにも、こういう「極論」に陥っている人たちがいるんですよね。
 僕は安倍総理を積極的に支持しているわけではないけれど、安倍総理のやることならなんでも批判していい、ヒトラーと並べてもいい、と考えている人や、持病のことを揶揄して、「ああいうヤツには、何を言ってもいい」と開き直っている有名な作家をみると、悲しくなってきます。それが言葉を生業にしている人の姿勢なのか?と。
 政策を批判したり、不正が疑われることについて言及するのが悪いわけじゃない。
 でも、「アイツは悪いヤツだから、何を言ってもいい」って、そういう言葉が多くの人に届くとは思えないのだけど。


 著者は、この新書のなかで、今の日本に蔓延している「極論」あるいは「それに近いもの」の数々を指摘しています。
 個人的には、「これは確かに『極論』だな」と思うものもあれば、「これを『極論』と断罪するのも『極論』ではないのか」と感じるものもありました。
 「『ドカベン』発禁説」とか「TPP亡国論」については、「法の解釈によっては、あるいは、それを運用する人によっては、そういうことも起こらないとは限らない」し、「TPPによって日本の医療保険が崩壊したり、工業製品の輸出には有利でも、農業が壊滅するリスクがある」と僕は考えていて、「こういうのは極論だよ」とわかりやすく定義してしまうことによって、問題点が隠されてしまうところもあるんですよね。
 みんなが50万円得する政策なら実行して然るべきでも、半分の人が100万円儲かり、半分の人が50万円損する政策(そして、再分配は行われない)は「平均すれば50万円プラスになるのだから、やるのが当然」なのか?
 この新書、読んでいて痛快なのだけれど、それだけに、鵜呑みにしないほうが良いのだと思います。
 

 この本のなかでいちばん印象に残ったのは、著者が子どもの頃にみた北海道の夕張市の光景を描いたところでした。

 私の父方の家系は、北海道夕張市である。この街はのちに2007年の「財政破綻」で全国的に一躍有名になった。高度成長期に10万人超のピークを迎えた人口のほとんどが同市にある炭坑の関係者とその家族であった。しかし炭坑の閉山とともに職を失った住民が次々と町を離れた。現在、夕張の人口はわずが8500人と、往時の10分の1にも満たない。
 私が小学生の頃は(1990年代前半)、かろうじて夕張の人口は2万人弱くらいあった。それでも街のさびれ具合はすさまじく、炭坑があった狭い谷間の斜面には、廃墟となった坑夫用の長屋がそこかしこに放置されて、ブタクサとフキの大葉に覆われていた。その斜面の一角に、祖父の墓があったの、私の住む札幌から車で三時間超をかけて毎年の盆、家族で墓参りに行くのが我が家の夏の恒例行事だった。
 夕張市はこの時期、借金に借金を重ねて、「街おこし」なる大義を盾に、次々と箱モノを建設していった。「石炭の歴史村」と名付けられたテーマパークには観覧者とゴーカートのある遊園地が併設されており、全道に「バリバリ〜夕張♪」のテレビCMを打ち名前だけは全道的に有名だった。何がバリバリなのか分からないが、とにかく夕張はバリバリしているんだ、と小学生の私は思った。だが、現実の夕張はバリバリとは程遠かった。
 今でも覚えているが、巨大な駐車場には札幌ナンバーの車だけがチラホラと止まっていてガラ空き。しかもこんな僻地なのに一回の駐車料金が2000円もした。渋谷や六本木と同程度の駐車料金が「石炭の歴史村」では当たり前だった。ちなみに札幌市中心部のコインパーキングでも、せいぜい高くて1泊800円から1500円が相場である。祖父の墓がなければ決して来ないだろう。まして観光客にとっては論外である。
 遊園地の人影はまばらだった。私がゴーカートに乗りたいとせがむと、わざわざ母親が係員のいるプレハブ宿舎にまで歩いていき、「あのう、子供をゴーカートで遊ばせたいんですけど」と申請しなければ機械を動かしてくれなかった。遊園地とは名ばかりの、サービス業なのにサービス精神というモノがまるでない。宿舎で待機しているおじさん達はピーカンの晴天なのに、ずっと部屋の中でテレビを見ながらくつろいで、客から言われるまで、まったく働こうとしなかったのである。
 いま思えばまるで共産国の労働者のようであった。働いても働かなくても、市から給料が貰える競争のない閉鎖的な環境だったから、従業員の勤労意欲もここまで腐りきってしまったのだ。
 数年たって夕張に「夕張メロン城」というのが出来たと聞いて、どんな壮大な城砦が誕生したのかと期待したが、単にメロンの格好を模した20坪ほどのドライブイン兼土産物屋だった。それを見た時の私の失望は、さすがに子供心にも大きかった。
 炭鉱がなくなって夕張の名産はなぜかメロンということになり、メロンが夕張の代名詞になった。多分、冷涼な気候がメロン栽培に適していたのだろうが、メロンは札幌のスーパーでも買える。しかも夕張より全然安く売っていた。


(中略)


 当然、建設費に数億円。運営は赤字のダダ洩れで、夕張市の財政悪化に拍車をかけた。もはや、この時期になると損得とか合理的計算というモノは通用しないほど、再建の見込みなき赤字だったのかもしれない。そのあたりの事情は分からない。
 私と家族がなぜ毎夏夕張を訪れるかと言えば、繰り返すように祖父の墓があったからであり、夕張市が魅力的だったからではない。北海道を離れて十余年が経ち、「夕張市財政破綻した」とニュースで聴いて、私は悲しいとも何とも思わず「当然だ」と感じた。その後、「石炭の歴史村」も「一回2000円の駐車場」も「夕張メロン城」も当然、運営停止となり、現在は存在していない。
 夕張が財政破綻した時、ちょうど市の人口が1万2000人程度で、日本の総人口の1万分の1となることから、「夕張は未来の日本の縮図であり、未来の日本の姿である」とかなんとか言って、「日本の未来を考える」「夕張から学ぶべき教訓とは」だの、様々な大義をこしらえて言論人や有識者やレポーターが来訪し、ニュース番組などがさんざ特集を打った。


 彼らはみな、「破綻する前」の夕張の姿を知らない。


 これを読んで、そりゃ財政破綻するよな、と僕も思いました。
 あの時代には、こういう「箱モノで地域おこし」を狙った自治体は夕張市だけではなく、たくさんあったんですよね。
 その多くは、うまくいかず、日本各地で廃墟マニアを喜ばせるだけになってしまったのです。
 そもそも、田舎に多額のお金をかけて、中途半端なテーマパークをつくるだけで、本当に人が集まってお金を落としていくと、みんな信じていたのだろうか?
 まともに考えれば、うまくいくはずないことは、わかりそうなものなのに。

 将来的に日本の人口が減り、国力が衰微するとしても、日本は極東の地域大国として君臨しつづけるだけの技術力と一定程度の人口や防衛力を有し、また国民の教育水準もおおむね高いまま推移するだろう。高齢化や社会保障費の増大など懸念すべき要素は多いが、滅ぶべくして滅ぶような必然性を持った国家ではない。だから夕張と日本の姿は全く重ならないし、夕張と日本の未来は関係がない。夕張の破綻と日本の未来は、全く次元の違う話だ。
 夕張の復活があるとしたら、日本の産業構造を70年前の水準に巻き戻して、炭鉱を開山させるしかない。そんなことができるわけがない。夕張は切り捨てられたのではない。夕張の破綻は自由競争の世界において必然だった。この街を再生させるために国税を使うのならば、私は反対する。
 当然、私の父も父方の親族もみな夕張の出身だが、現在誰一人として同市に住んでいる者はいない。全員が札幌市内に住んでいる。夕張が嫌いだからではない。札幌の方が住みよいから、札幌の方が職があるから、単に合理的な選択をした結果である。北海道全体の人口は減り続けているが、札幌市の人口は増え続けている。日本全体の人口が減っても、首都圏や、私の住む千葉県M市の人口が増えているのもこれと全く同じ理由である。


 夕張から出ていった人たちにだって、故郷への思いはあったのでしょうけど、結局のところ、自分の意思で、より住みやすいところへ移ったんですよね。
 少子化問題にしても、「結婚すること」「子供を生み育てること」への社会からの圧力が減り、「生むのも生まないのも自由」になり、その結果として、昔のように次々に子供をつくることがなくなっただけのことです。
 少子化で日本が滅ぶ、とか言うけれど、今の時代に「日本のために子供をつくる」なんて人はいません。


 ただ、こういうのって、外野の意見であって、地元の人にとっては、故郷への思い入れがあるのもまた事実だとは思うのです。
 自分が住んでいる土地がどんどん寂れていくのは精神的にも経済的にもつらいだろうから。
 都会住まいの人に「それはみんなの自由意志による選択の結果だから」と言われても、なかなか受け入れがたいはず。
 とはいえ、だからといって、無理矢理誰かを移住させるわけにもいかないのです。


 読んでいると、さまざまなことについて考えさせられる新書だと思います。
 自分の「リテラシー」に自信がある人にこそ、読んでみていただきたい。


fujipon.hatenadiary.com

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