琥珀色の戯言

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【読書感想】人間の居場所 ☆☆☆☆

人間の居場所 (集英社新書)

人間の居場所 (集英社新書)


Kindle版もあります。

人間の居場所 (集英社新書)

人間の居場所 (集英社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
巨大な資本の流れは、人々の暮らしをボロボロに蝕み、国家は、国境の壁をますます迫り上げる。押し出された者は、当て所もなく荒野を彷徨うのみ。―私たちの居場所はいま、どこにあるのか?シリア難民、AKB、三里塚闘争LGBT暴力団新宿ゴールデン街子ども食堂日本赤軍、刑務所、イスラム国、釣り場…。一見バラバラな「断片」を繋ぎ合わせたとき、見たことのない地平が浮かび上がってくる。「人間」の姿を丹念に描いたこの小さな本に、私たちの生存のヒントが、隠されている!開高健ノンフィクション賞受賞後、第一作。


 世間からは「マイノリティ」と言われている人たちの「居場所」に著者自身が属したり、取材したりして見てきたものが書かれています。
 最近では、現実世界に「居場所」がなくても、インターネットで所属欲求や承認欲求を満たすことができる、という考えかたをする人も少なくないのですが、僕自身の実感としては、「物理的に自分が存在していることが許される場所」というのは、やはり必要だと思うのです。
 どんなに仮想現実の世界が進化していっても、人間は何かを食べたり飲んだりしないと生きていけないし、スペースがないと眠れない。
 結局のところ、テクノロジーが進歩するにつれ、その進化のボトルネックは「人間の身体というハードの限界」なのかもしれないな、とも感じます。
 

 あくまで体感的にではあるが、1980年代以降、この社会では労働組合学生自治会に限らず、井戸端会議や床屋政談の場になるような溜まり場、つまりは社会的中間団体の解体が続いてきた。
 数年前、現役の学生活動家たちと話をしたとき、彼らが最も欲していたのはサークルボックスだった。大学のサークル施設の学生による自主管理など、いつの間にかなくなっていた。汚い小部屋にたむろし、政治だけでなく、他愛ない話に興じる。そんな一昔前には当たり前にあった空間が、キャンパスからは淘汰されていた。
 そうした居場所の喪失は人を歪める。
 順序立てて言うと、こういうことだ。人がピン、つまり個人であろうとすれば、自分の頭で思考する作業が不可欠になる。状況を分析し、この世界(社会)において自分は何者であるかということを考えなくてはならない。そうした思考は他者との議論によって培養される。ところが、そうした議論を保障する場が消えてしまった。
 それでも世の中のIT化を一因として、情報や言説はかつてない量で一人一人に降り注いでくる。とりわけ、権力からのそれは脅しすかしの意図を込めて、わが身に浸透してくる。周辺国の脅威論などは、まさにその典型といえるだろう。
 他者との議論によって情報を相対化する場があれば、人はそれらを検証し、そのうえで自己決定できる。しかし、そうした傘を失えば、不安だけが募り、同調圧力に呑み込まれやすくなる。ハンナ・アーレントは「ナチスの悪の凡庸さとは『言葉と思考』を拒むもの」と説いた。つまり「悪の凡庸さ」は思考を育む居場所の喪失によって増幅されていく。とどのつまり、いまの日本社会なのだ。


 以前は、ひとりの人間がいて、その周囲に話し相手となる身近な人がいて、メディアや世論があった
 でも、今はひとりの人間が、直接メディアや世論にさらされて、「自分のまわりの人の実感」みたいなものが、見えにくくなっている。
 その結果として、実態をよく知らないけれど、みんなが怖いと言っているものを、自分も怖がるようになってしまう。
 「そんなのデタラメだよ」と言ってくれる人が身近にいれば、それだけで説得されることはなくても、疑問を持って、バランスをとるきっかけになるかもしれないのに。
 ただ、太平洋戦争に向かっていった時代の日本のことを考えると、「現代だから、ネット社会だから、こうなっている」とも言いがたいような気はします。
 サークルボックスで人を「洗脳」するような危険な学生運動だって、あったわけですし。
 

 「居場所」は大切だよ、とは言うものの、どういう居場所が「適切」なのかについては、著者自身もずっと考え続けていて、答えが出せていないように見えます。
 著者は、こんな事例を紹介しているのです。

「うちも『子ども食堂』と紹介されがちですけど、あくまで『青少年の居場所』。食事も週に五日間、無償で提供しています」
 東京西部で居場所スペースを運営するNPO法人「K(仮名/イニシャルのみ)」。その代表理事であるMさんはそう切り出した。Mさんは長年、中高生向け施設の相談員や民生委員を務めてきた。
「『子ども食堂』を開こうと思っているのだが、という相談はよく来ます。そのたび言うんです。おカネを取って関係を完結させるなら、どうぞと。でも子どもたちと本気で向き合いたいのなら、うちのようにところんやるべき。でもそれは大変ですよ。と」


(中略)


 流しソーメンの後、市販の花火で花火大会をした。子どもたちの表情に興奮の色は見えなかったが、あえて企画したのは「夏の夜にこうした遊びをするという世間の常識を知らないと、この子たちが大人になったときに困るかもしれない」(Mさん)という配慮からだという。
 Mさんは子どもをファーストネームで読んで、ハグをする。「子どもの心の安定にスキンシップは不可欠」だと語る。昨年暮れから出入りしている27歳の青年に、私がここを訪ねた経緯などを聞いていると、Mさんは横から青年の顔をのぞき込んで「やっと出会えたんだよね」とほほ笑んだ。正直、その距離感に背筋がゾッとした。
 Mさんは今年67歳になる。「K」を開くにあたって離婚したという。「夫の面倒を見ながら、ここに来る子どもたちと全力で向き合うことはとてもできないと思った」。
 そうしたMさんに、少なからぬスタッフが心酔しているようだった。雨で靴を濡らしてきた子どもがいた。事務室でMさんと話していると、以前はフリースクールで働いていたという女性スタッフが「○□君が靴を濡らしてきちゃったんですが」と指示を仰ぎにきた。傍からは「相談するまでもなかろうに」と思えたが、Mさんは細かく指示を与えた。
 開設以来、訪れた2016年8月までに「K」は四回移転した。家賃以外にどんな理由があったのかは知らないが、まるで漂流する方舟のようだ。その舳先にMさんは立っている。


(中略)


 家族愛を過度に強調することが介護自殺や介護殺人を招いているという福祉行政の家族依存の問題点から、反論するすることも可能だろう。それでも、体を張って修羅場を潜ってきたMさんの言葉には無視できない重さがあった。ひとり親家庭の支援に携わってきた赤石さんはこう話した。
「面倒を見ていた子が勝手に出て行って、十年くらいして『元気だった?』と立ち寄ってくれるのが理想かな。怖いのはね、支援って支配と紙一重だということ。これ以上、踏み込んではいけないという一線はきっとある」
 流しソーメンの後、「K」でガンプラ好きの高校三年生の女子と話した。中学生時代に太っていていじめられ、ここに来たという彼女はいまも月一回、顔を出す。「あなたにとってKって何?」と尋ねると、「変な場所。でも家にいるよりはまし」と答えた。


 正直、これを読んでいて、僕は「子どもたちと向き合うために、夫と離婚する」って、なんか怖いな……と感じたんですよ。僕が「こういう夫の立場になる可能性がある人間」だからかもしれないけれど。
 そこまで、いろんなものを切り捨てて、信奉者に囲まれて自分のやりかたを貫くというのは、「支援というより、支配」のように感じるのです。
 しかしながら、Mさんのおかげで、「家よりもマシな場所」を得られた子どもがいる、というのも事実なんですよね。
 「居場所」って、できる人は無意識のうちにつくれているのに、いざ、つくろうとすると、「ちょうどいい場所」は、なかなかうまくできない。
 そもそも、誰かの居場所って、他人が「つくってあげる」ことができるものなのか?
 親切のつもりが、おせっかいになっていることも少なくないのではないか?

 降って湧いたような昨今のLGBTレズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーの頭文字を組み合わせた性的少数者を指す略称)ブームである。当事者たちが起こした波なら、主張に共感できるかどうかは別にしても、それなりに心がざわめく。しかし、今回は他人事のように感じる。加えて、その語り部たちの半知半解ぶりが気分をますますしらけさせる。
 例えば、Tの意味であるトランスジェンダーについて、彼らが使う定番の前置きがある。いわく「心と身体の性が一致しない」というやつだ。でも、考えてほしい。「身体の性」はともあれ、「心の性」とはいったい何なのか。言うまでもなく、それは異性愛か同性愛かという性指向とは異なる。ゲイは自らが男性という性自認を前提(つまり「心の性」なるものと「身体の性」は一致する)にして、男性が好きなのだ。そのことを踏まえて、いま一度、心の性とは何を意味するのか。そんな根本すら、語り部たちは問おうとしない。
 LGBTと一括りにされがちだが、実際にはそれぞれの間の溝は深い。「心は女(男)なのに、間違って男(女)の身体で生まれてきた」と考えるトランスジェンダーの一部には、同性愛者を嫌悪する一群すらいる。この種の人びとにとっては、異性愛者の方がゲイやレズビアンよりも身近な存在であり、LGBTと括られること自体、苦痛なはずだ。
 ちなみに当事者、とりわけ活動家たちの間ではこうした違いは自明のことで、共通する問題について互いに助け合っていくという繊細で脆い関係が成立してきた。その関係の維持に心を砕いてきた分、そうした事情に鈍感な「部外者」による乱暴な括りには反発も少なくない。


 言われてみれば、あたりまえのことなのですが、「少数派どうしだからといって、共感・協力できるとは限らない」のです。
 これまでは、抑圧に対して協力せざるをえなかったけれど、少しずつ世の中から認知されてくれば、かえって、「わざわざ考えが違う人たちと協力する必要はないのでは?」と思うようにもなってもおかしくはありません。


 わかりやすい「結論」ではなくて、難しいことが、なぜ難しいかを丁寧に書いてある本だと思います。
 居場所があるのが当たり前ではないし、いまの居場所が、ずっと存在するともかぎらない。
 


居場所のない子どもたちへ―「食」と「教育」で支える大学・地域・NPOの挑戦 (藤女子大学人間生活学部公開講座シリーズ1)

居場所のない子どもたちへ―「食」と「教育」で支える大学・地域・NPOの挑戦 (藤女子大学人間生活学部公開講座シリーズ1)

  • 作者: 隈元晴子,伊井義人,池田隆幸,稲川正勝,大矢一人,小川恭子,木村弘,佐藤典子,高橋勇造,平井照枝,若狭重克,小場冴香,柴田陸,清水麻衣子,竹内真子,松下由茉,池上裕子,梅田侑依,河江祐茄,齊藤祥子
  • 出版社/メーカー: 共同文化社
  • 発売日: 2016/03/30
  • メディア: 単行本
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[新版]「自分の居場所」をつくる心理学

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