琥珀色の戯言

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【読書感想】松本清張 「隠蔽と暴露」の作家 ☆☆☆☆

松本清張 「隠蔽と暴露」の作家 (集英社新書)

松本清張 「隠蔽と暴露」の作家 (集英社新書)


Kindle版もあります。

松本清張 「隠蔽と暴露」の作家 (集英社新書)

松本清張 「隠蔽と暴露」の作家 (集英社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
社会全体に陰鬱な雰囲気がひろがりつつあるこの時代に、松本清張が再び求められている。本書は清張の表現の核にあった「隠蔽と暴露」の方法をたどる。そして、清張の作品をとおして、わたしたちが日常で感じる社会や国家への「疑い」を称揚し、そこにひそむ秘密を見抜く方法を明らかにする。戦争、明るい戦後、政界、官界、経済界、社会的弱者、宗教など、清張が精力的に描いたテーマは多くあるが、戦後最大の隠蔽装置ともいえる「原子力ムラ」にふみこまなかった清張の謎にも迫る。


 松本清張、という作家は、現在40代半ばの僕にとって、正直なところ、「あまり手に取る機会がなかった」のです。
 僕が物心ついたときには、赤川次郎、西村京太郎両氏が、ベストセラー作家として、長者番付に名を連ねていました。
 松本清張という人は、僕が子供の頃には、ちょっと内容が大人向けかな、と敬遠し、僕が大人になってからは、「戦後という時代」を描いた作家だけに、「ちょっと古くさい、前時代の人」というイメージがありました。
 それでも、『点と線』『砂の器』くらいは読みましたし、松本清張さんの作品というのは、繰り返しテレビドラマになっているので、僕も何度か観ています。
 「古い」ようにみえる作品でも、それぞれの時代の役者に演じられてきているのです。

 

 松本清張(1909年〜1992年)が、復活している。
 生誕100周年の2009年、没後20年の2012年は興味深いさまざまなイベントでにぎわったが、その後も松本清張復活のいきおいはとまらない。没後25年である2017年はとくにそれがめだったし、これからはさらにそうだろう。
 作品の再文庫化および新装版化があいつぐ。
 新たに多くのテレビドラマが作られ、そのつど、話題をあつめる。
 再放送やシリーズのリメイクが次々に実現し、雑誌で新たな視点から特集が組まれる。
 ここ数年、松本清張をめぐっては、まるで全盛期を思わせるようなにぎやかさである。
 戦後70年に区切りをつけたかのように、長い「戦後」から「新たな戦前」へと急転回し、社会のそこここに危うく不可解な薄暗がりがひろがりつつあるこの時代、そして政治、社会、国家のそこここに情報隠蔽と実態隠蔽が大きな穴をうがつ陰鬱なこの時代は、今、松本清張の試みと方法とを切実に求めている——。
 わたしは、そう思わないわけにはいかない。
 黒のイメージを好み、黒のはいったタイトルの作品、シリーズものを多く書き、不吉な「黒」に魅入られたがごとき作家松本清張は、一見穏やかでなにごともないような日常からときおり立ち上がる「何故だとう、何故だろう」という疑問を入り口に、人と社会と国家の秘密、すなわち個人の暗い欲望の発露から、政財官界の汚職、疑獄、国家規模のたくらみ、重大機密、戦争に関係する過度の機密保護まで、さらには国家間の密約やグローバル化する世界での経済的不正、政治的謀略までをも、その幾重もの隠蔽の黒い企てもろともにさぐりあて、それを暴露し、しずかに告発しつづけた。
 松本清張は、暗い情感を豊かにたたえる独特な文体から出発した芥川賞作家であり、一躍ブームをまきおこした社会派推理小説の先導者であった。


 僕はこの新書を読みながら、著者は、松本清張という作家を、あまりにも自らの思想信条にあてはめて語りすぎているのではないか、と思っていたんですよ。
 戦後の松本清張が描いた日本と、特定秘密保護法や安保法制で揺れる現在の日本は似ている、と言われると、そうかもしれない、というのと、でも、僕自身はその「戦後の日本」を知らないしなあ、というのと。
 「隠蔽と暴露」とか言うけど、それは深読みというか、著者にとって都合の良い解釈になっているのではなかろうか。

 
 しかしながら、松本清張という人の生涯や作品を詳しく辿ってみると、たしかに、「隠蔽と暴露」の作家だったのだな、ということがわかります。
 戦前から、太平洋戦争後の、アメリカ軍に占領された日本を生きてきた作家にとっては、日本軍やGHQによる「隠蔽」というのは生々しいテーマであり、「政治的な背景」を無視するほうが、ずっと「不自然」なんですよね。

 松本清張は、前人未到の独創的な試みの自負から、十把一絡げ的な「社会派」という言葉も好まなかった(筒井康隆との対談「作家はひとり荒野をゆく」1977年)。
 ただし「推理小説型社会小説」と呼ぶには、本体となる「社会小説」が、日清戦争後に登場した歴史的存在とはいえ、その後、多くは用いられずあいまいな概念ですわりがわるい。
 しかも松本清張は、よく知られているとおり、「推理小説」じたいにも重大な改変を加えていた。
「私は自分のこの試作品のなかで、物理的トリックを心理的な作業に置き替えること、特異な環境でなく、日常生活に設定を求めること、人物も特別な性格者でなく、われわれと同じような平凡人であること、描写も『背筋に氷を当てられたようなぞっとする恐怖』の類いではなく、誰でもが日常の生活から経験しそうな、または予感しそうなサスペンスを求めた。これを手っ取り早くいえば、探偵小説を『お化け屋敷」の掛小屋からリアリズムの外に出したかったのである」(「推理小説の魅力」)。
 松本清張は、江戸川乱歩以来の日本型推理小説にたいし、社会的なひろがりと同時に人間的な深みをもたらず「動機の重視」を積極的にうちだし実行して、推理小説に大きな変革をもたらしたのである。


 たしかに、松本清張さんの作品は、「謎解き」よりも、「動機とそれが解明されるまでのプロセス」が大きな魅力になっているのです。
 その「動機」も、「もし自分が犯人の立場だったら、同じことを絶対にしないと言い切れるだろうか?」というものが多かった。


 著者は、松本清張作品の「タイトルの秘密」について、こんなエピソードを紹介しています。

 松本清張作品の魅力であり、ともすれば茫漠とした印象を読者にもたらす抽象的なタイトルすなわち、この『ゼロの焦点』をはじめとして、『波の塔』(1960年)、『砂の器』(1961年)、『霧の旗』(1961年)、『球形の荒野』(1962年)、『水の炎』(1963年)、『彩霧』(1964年)などのほとんどは、松本清張じしんが語るとおり、一躍流行作家となり、次つぎに連載依頼がまいこむ事態への苦肉の策からうまれた(講演「小説と取材」1971年)。いまだ筋ができていない段階で、紙誌にだす連載予告のための抽象的なタイトル決定は、たしかに苦肉の策とはいえ、物語の全体像を作者じしんに問いかけ、考えさせる絶好の機会となったにちがいない。


 連載開始前に、藤子・F・不二雄先生が、「机の引き出しの中から、とびだして来たのは誰?」という予告を描いたのだけれど、何が出てくるのかまったく決めておらず、悩んだ末に思いついたのが『ドラえもん』だった、という話を思い出しました。
 流行作家というのは、けっこう危ない橋を渡ってきているものみたいです。

 1992年の松本清張の死からすでに四半世紀経つ。
 松本清張が格闘した人と社会と国家の暗い秘密は過去のものになったか。
 否、断じて、否である。現在も、人と社会と国家の暗い秘密は依然なくならない。
 時代が進むにしたがって秘密は消えてゆくという楽観的な考えを、松本清張はとらなかった。逆だ。たとえば、政治について松本清張はこう述べる。
「政治も近代化しつつあるというのは幻想ですよ。最近はマスコミや市民団体などの監視の目も厳しくなっているけれど、いや、なっているからこそ政治の”密室化”はいよいよ進むんだな。それに、国内のからくりだけでなくて、国際的からくりに連動しているから一層始末が悪い」(「座談会 疑獄の系譜——その構造と風土」、松本清張編『疑獄100年史』1977年)。
 きびしくなる市民の監視と、政治の密室化のいっそうの進行という憂うべき事態は、もとろん、政治だけではない。


 松本清張作品が今の世の中でも十分通用する普遍性を持っているのは、「隠蔽したがる人々や組織」が存在し続けているから、だということを、あらためえて考えさせられる新書です。


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点と線

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砂の器(上) (新潮文庫)

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ゼロの焦点

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