琥珀色の戯言

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【読書感想】リスクと生きる、死者と生きる ☆☆☆☆☆

リスクと生きる、死者と生きる

リスクと生きる、死者と生きる


Kindle版もあります。

リスクと生きる、死者と生きる

リスクと生きる、死者と生きる

内容紹介
数字では語れない、あの日の出来事――。


岸政彦さん、星野智幸さん、推薦!


「被災地」は存在しない。「被災者」も存在しない。
土地と人が存在するだけだ。
「それでも生きていこうとする人々」の物語が、胸を打つ。
(岸政彦)


ここには、あなたを含め、この本に書かれていない被災した人すべての物語が、ぎっしりと詰まっている。
その見えない言葉に目を凝らして、読んでほしい。
星野智幸


「リスク論」からこぼれ落ちる生を探し求めて、東北、そしてチェルノブイリへ――。
若き記者による渾身のノンフィクション。


 東日本大震災から、もう7年が経ったんですね。
 僕自身も7年分歳を重ね、東京オリンピックも近づいてきて、あの日、とにかく命があれば、と思っていたことや、原発事故に関して、さまざまな議論が繰り広げられてきたことも、僕にとっては、「歴史」になりつつあるように思われます。


「がんばろう、福島」
「震災の記憶を風化させるな」


 繰り返される、力強いメッセージと、「福島の農産物は安全です」という「科学的な根拠」。
 それでもわれわれは「不安」で、「心配」なのだ、という人もいる。
 そのほかの選択肢があるのならば、あえて「それ」を口にする必要はないだろう、と言われると、僕も考え込んでしまいます。

 リスクが低いことなんてわかってんだよ。でも、どうしても無理だった。人には勧められたし、出荷もしたのに、どうしても息子には食わせられねぇって……。俺の罪悪感はずっと消えないんだ。


 自宅に着いてから着替えもそこそこに、紺色の作業着姿のまま延々と語った。
 福島第一原発事故が起きた年の秋のことである。夜、49歳(取材当時)の農家、遠藤眞也さんは自宅裏にある小高い丘に自分で作った米を捨てた。遠藤さんの家は原発から南に27~28キロ、いわき市末続地区の一角にある。
 量にして240キロ分、つまり一年間で自分たちが食べる米のすべてを捨てた。周囲に人目がないことを確認し、袋から米をばらまいた。バーッと流れていく米の音が、どこか遠くで聞こえているような気がした。
 この年、福島第一原発のもっとも近くで収穫された米である。検査はクリアした。「人には食べてと勧めることはできた」が、当時5歳になったばかりの息子には、どうしても食べさせることができなかった。
 遠藤さんの本業は家の基礎工事などを請け負う土建屋である。しかし、兼業とはいえ米農家の端くれという自負はあった。米を捨てることが、自らの信念に反していることも、農家としての倫理に反していることもわかっていた。
 彼は、この一件を自分の生き方の問題なのだと捉えている。


 自分の息子には食べさせられないものを、他人に勧めるのか!
 そう断罪する人もいるでしょう。
 いや、僕だって、その自分の息子には食べさせられない、という米を僕の息子に勧められたら、良い気分にはなれません。
 「科学的には安全だし、お前ら『放射脳』だな」
 とバカにする人だっていると思う。
 あの頃は、そういう「客観的な判断」をネットなどで他者に押しつけたり、ときにはバカにしたような言葉を投げかける人もいたのです。

 あのとき、俺の頭にあった放射能のイメージって「はだしのゲン」なんだよ。30キロ圏内に入ったら、鼻血が出て、少しずつ体力が落ちていって、病気になる、みたいな。
 いま思えば失礼な話なんだけどね。でも、当時は大真面目に末続の様子を確かめたら俺は死ぬかもしれない、と思ってたんだ。
 怖かったし、不安なんて山ほどあるよ。でも、頼むって言われた家を誰が確かめにいくんだよって思ったんだ。
 だって、山一つ、トンネル一つで避難するところと住んでいいところが分かれるって普通に考えたらおかしいよね。納得できるわけがない。あっちは避難、こっちは住んでいい。どこで線引きできるんだよ。おかしくねぇか?
 国やいわき市や東電は、個別の家のことを調べてくれるんですか? どうせ、安全です、住んでいいですよって言うに決まってる。本当に住めるかどうかを決めるのは、俺だって思ってた。
 「息子よ、お父さんはお前の家を調べにいって、力尽きる」。これなら、まだ格好がつくかな、なんてね。俺が納得できないなら、子どもを住まわすわけにはいかない。土地がどうなっているかを調べないと、選択肢を子供に残すこともできない。
 受け継ぐってそういうことで、原発事故があったから俺が勝手に田んぼを処分しましたっていうのはダメなんだよ。


 こういう「土地」に関する考え方、感じ方も、人それぞれ、だと思うのです。転勤族だった僕には理解しづらいし、いま、東京で生活している人たちの大部分も、そうだと思う。
 でも、結局のところ、万人にあてはまる「正解」なんて存在しなくて、個別に「最適解だと思われるもの」があるだけです。
 本当は、ひとりひとりに寄り添って、最適解に近づく努力をするべきなのだろうけれど、あまりの被害の大きさ、犠牲者の多さに、ある程度「一般化」しないと経済的な補償や援助も先に進まない、というのも確かなのだと思います。
 遠藤さんだって、震災や原発事故さえなければ、こんな過酷な選択をする必要はなかったのに、幸運だった人間が、その選択を責めることが正しいのだろうか。
 しかしながら、僕の中にも、「それが他人(というか僕やその知り合い)の口に入るかもしれないのに」という憤り、みたいなものも生まれてくるのです。
 「科学的に安全」なはずなのに。


 遠藤さんは、自ら率先して生産物の放射線量を測定し、一年目に作った米を捨てなければならなかった経験を活かして、翌年には、「科学的にも基準値をクリアしていて、気持ちの面でも、自分の子供に自信をもって食べられることができる米」をつくりました。

 大事なのは数値そのものではなく、数値が持つ意味を理解した上での納得だった、と遠藤さんは思う。


 僕も含めて、「科学的根拠」を持ち出す人の多くは、その「数値」が正常範囲内とか異常値である、ということにこだわる一方で、その数値がどういうふうに算出されているものなのか、なぜ高い(低い)数値が出るのか、というプロセスを理解していないのです。
 あの原発事故に関するやりとりの多くが、そういう「正しいから正しいんだ」という人たちと「それがなぜ正しいんだ?」と疑問を持つ人たちの不毛な争いになってしまったのです。
 現地に住んでいれば、「なぜ隣の土地が『居住OK』なのに、うちはダメなんだ、その線引きに根拠があるのか?」という実感があったのは当たり前のように思われます。

 被災地や原発事故を取材していると、どこか饒舌な人たちと出会う。「××ではこうなっている」「××はそう考えている」。なるほど、取材や聞き取りを尽くせば、「被災者」の声を代わって語ることができるようになるのかもしれないし、ときとしてそうした形で声をあげることは必要だろう。
 でも、私にはどうしても主語が大きすぎるように聞こえてしまう。
 震災と原発事故が投げかけているのは「喪失」という問題ではなかったか。喪失との向き合い方というのは、徹底的に個人のものでしかありえない。ある人を喪った、土地を離れざるを得なかった。失ったのはいずれも、自分が自分であるための大事な基盤である。その喪失と個々人がどう向き合っているのかは、他人にはわからないものだ。いや、当事者であってもわからないことも、当事者であるから言葉が揺らぐことも、言葉にできないこともある。それゆえに、誰かの経験を、誰かに代わって語ることに、慎重にならないといけないのではないか。
 震災から現在に至るまで私が試みてきたのは、震災や原発事故を自分のこととして捉え、考えている人たちの声に近づき、彼らの揺らぎに接近することである。声を聞くこと、それもどこまでも個的に語られる彼らの言葉を聞くことで浮かび上がってくるものに、可能な限り接近したいと思った。


 喪失体験はあくまでも個別のものであるけれど、それは、他者の都合によって「被災者」の言葉として、一括りにされ、利用されがちなのです。
 彼らは、自分にとって都合の良い部分だけを取り出して、「被災者」はこう言っている、感じている、と「代弁」して、自分の立場を強くしようとする。


 この本では、遠藤さんの『はだしのゲン』みたいになる、という言葉のように、誤解や思い込みが語られている部分も、そのまま紹介されています。見せしめにしよう、というのではなくて、そういう部分まで含めて「個人の体験」なのだ、ということなのでしょう。
 これを読んでいて思い出したのは、村上春樹さんが地下鉄サリン事件の犠牲になった人たちの個々の体験談を聞いていった『アンダーグラウンド』と、2015年にノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチさんの『セカンドハンドの時代』という本でした。
 いずれも、「大きなもの」への信頼が崩壊していく様子を、実際にその場にいた人々が、それぞれの視点で語ったものを集めた著作です。
 個人の実感をひたすら読んで、知ることからしか、本当の「全体像」は、見えてこないのかもしれません。


 東日本大震災は、あまりにも甚大な被害をもたらしてしまったがために、僕も「数字の大きさ」で見てしまうところがあるのです。
 でも、2万人の死というのは、現実には、1人の死が2万、積み重なったものなんですよね。
 これを読んだからすべてがわかる、というよりは、これを読むと、「わかっていなかった、ということを再確認せざるをえない」のです。
 それは、とても大事なことではないか、と僕は考えています。


チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

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セカンドハンドの時代――「赤い国」を生きた人びと

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