琥珀色の戯言

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【読書感想】悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
「安心したい」──その欲望がワナになる
世界を席巻する排外主義的思潮や強権的政治手法といかに向き合うべきか? ナチスによるユダヤ人大量虐殺の問題に取り組んだハンナ・アーレントの著作がヒントになる。トランプ政権下でベストセラーになった『全体主義の起原』、アーレント批判を巻き起こした問題の書『エルサレムアイヒマン』を読み、疑似宗教的世界観に呑み込まれない思考法を解き明かす。


 ※この新書は、2017年8月に出た「ハンナ・アーレント 全体主義の起源 2017年9月(100分de 名著)」の内容に加筆再構成したものです。


 ハンナ・アーレント(1906-75)は、ドイツに生まれたドイツ系ユダヤ人の政治学者で、ナチスが政権を獲得すると、迫害を逃れるためにフランスを経由してアメリカに亡命し、第二次世界大戦終戦後にアメリカで活躍し、世界に大きな影響を与えた人です。


 アメリカでは、トランプ政権の誕生により、ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」がベストセラーになったそうです。
 世界は、排外主義、そして全体主義に向かっているのではないか、と危惧している人たちが大勢いて、その「全体主義について知るためのテキスト」として、ハンナ・アーレントの著作が再評価されているのです。

全体主義の起源』と、波紋を呼んだ『エルサレムアイヒマン』は、現在も全体主義をめぐる考察の重要な源泉となっています。この二作を通じてアーレントが指摘したかったのは、ヒトラーアイヒマンといった人物たちの特殊性ではなく、むしろ社会のなかで拠りどころを失った「大衆」のメンタリティです。現実世界の不安に耐えられなくなった大衆が「安住できる世界観」を求め、吸い寄せられていく――その過程を、アーレント全体主義の起源として重視しました。
 人々の間に既存の国家体制への不信、寄る辺のない不安が広がっているのは今の時代も同じではないでしょうか。政情不安、終わりの見えない紛争、そして難民問題。世界はどこへ向かおうとしているのか、それを動かす社会の仕組みがどうなっているのかということについて、多くの人が「教科書的ではない」説明を求めています。
 日本も例外ではありません。今世紀に入った頃から、政治について関心があり、「かなり分かっている」つもりの人たちでさえ展開が読めないことが多くなり、言い知れぬ不安を感じる人が増えている気がします。
 ただ安穏としているのも困りますが、だからといって不安に感じすぎるのも問題です。極度の不安は、明快で強いイデオロギーを受け容れやすいメンタリティを生む、とアーレントは指摘しています。


 たしかに、こういう「不安」みたいなものは、今の日本にも蔓延していて(いつの時代にもそういうものはあるのかもしれないけれど)、「明快で強いイデオロギー」に魅力を感じやすくなっているような気がします。
 ドイツでナチスが台頭し、ホロコーストという非人道的な行為にまで至ってしまったのも、最初にあらわれてきたのは、「第一次世界大戦後の景気の悪化などによる、極度の不安」でしかなかったのです。
 

 『全体主義の起源』というのは、かなりの大著で、読みやすい、わかりやすいとは言い難いのですが、この本元がNHKの番組「100分de 名著」のテキストということで、かなりわかりやすく書かれています。
 ハンナ・アーレントについて語るには、彼女の生涯や時代背景を知っておいたほうが良いでしょうし。

 労働者階級、資本家階級など、自分の所属階級がはっきりしていた時代であれば、自分にとっての利益や対立勢力を意識することは容易でした。逆に言うと、資本主義経済の発展による階級に縛られていた人々が解放されることは、大勢の「どこにも所属しない」人々を生み出すことを意味したのです。
 アーレントはこれを、大衆の「アトム化」と表現しています。多くの人がてんでんバラバラに、自分のことだけを考えて存在しているような状態のことです。大衆のアトム化は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、西欧世界全般で見られました。
 かつでは一部の人しか持ち得なかった選挙権が、国民国家という枠組みのなかで、多くの人にもたらされたことも、「大衆」が社会で存在感をもつことにつながりました。選挙権は得たものの、彼らは自分にとっての利益がどこにあるのか、どうすれば自分が幸福になることができるのか分からない。そもそも大衆の多くは、政治に対する関心が極めて希薄でした。

 誰に(どの政党に)投票すればいいのか分からない「大衆」は、どの時代のどこの国にもいるし、高度な文明国においてすら政治に無関心な大衆は「住民の多数を占めている」と、アーレントは耳の痛い指摘をしています。投票率から言えば、日本人の半数は「投票に参加せず政党に加入しない生活で満足している」大衆だということになります。
市民社会」を構成する「市民」が、自由や平等に関する自らの権利を積極的に主張し、要求を実現するために各種の政党やアソシエーションを結成することに熱心な人たちだとすれば、「大衆」は国家や政治家が何かいいものを与えてくれるのを待っているお客様です。自分自身の個性を際立たせようとする「市民」に対し、「大衆」は周りの人に合わせ、没個性的に漫然とした生き方をします。
 しかし、平生は政治を他人任せにしている人も、景気が悪化し、社会に不穏な空気が広がると、にわかに政治を語るようになります。こうした状況になったとき、何も考えていない大衆の一人一人が、誰かに何とかしてほしいという切迫した感情を抱くようになると危険です。深く考えることをしない大衆が求めるのは、安直な安心材料や、分かりやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとつながっていったとアーレントは考察しています。

 ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の台頭に特徴的なのは、これらの運動が政治には全く無関心と見えていた大衆、他のすべての政党が、愚かあるいは無感動でどうしようもないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである。


 けっこう率直に、というか、遠慮なく「大衆」について書いているなあ、とも思うんですよね。
 いまの日本にしても、多くの人は、スキャンダルに関心は持っても、政策にはそんなに興味を持たないし、もともと、大衆というのはそういう存在なのかもしれません。「近代民主主義」というのが運用されるようになったのも、せいぜい数百年くらいのもので、人間の歴史からすると、ごくごくわずかな期間でしかありません。
 むしろ、「政治という面倒ごとを引き受けたい」という人のほうが少数派のような気がします。
 ナチスが基本的には選挙で勝利したことによって生まれた政権であることも事実なのです。
 ちゃんと民主主義をやろうとすればするほと、結果的に全体主義に引き寄せられていく、というのは皮肉ではありますね。
 それも、その時代の人たちが愚かだった、というわけではなくて、「景気が悪化し、社会に不穏な空気が広がる」という背景があると、多くの場合、政治にかかわりたくなかった「普通の人たち」が、「強いイデオロギー」に頼ろうとしてしまうのです。


 ナチス親衛隊(SS)の中佐で、ホロコーストの実務を取り仕切っていた人物のひとりであるアドルフ・アイヒマンが1960年に潜伏先で拘束され、エルサレムの法廷で裁判が開かれました。
 ハンナ・アーレントは、アメリカの『ザ・ニューヨーカー』誌の特派員として裁判を傍聴します。

「最終解決」の実行責任者であるアイヒマンは、ユダヤ人に対して強い憎しみを抱いていたはず。凶悪で残忍な人間に違いない――。アイヒマン裁判に注目していた人々は、そのように想像(あるいは期待)していました、しかしアーレントは、実際の彼はまったくそうではなかったと記しています。
 そうした姿勢は「悪の陳腐さについての報告」という本書(『エルサレムアイヒマン』)のサブタイトルにも表現されています。陳腐と訳された英語の「banal」は、「どこかで見たような」「ありふれた」「凡庸な」という意味の形容詞。どこにでもいそうなごく普通の人間だった、ということです。
 若い頃から「あまり将来の見込みのありそうもない」凡人で、自分で道を拓くというよりも「何かの組織に入ることを好む」タイプ。組織内での「自分の昇進にはおそろしく熱心だった」とアーレントは語っています。


 このアーレントの見解について、いまの時代の日本に生きている僕は「そういうものなのだろうなあ」と受け入れられるのですが、当時は、あんな非人道的な虐殺を行った人間を「凡庸な悪」だと評したことに対して、アーレントは大バッシングを受けたのです。
 同胞であるユダヤ人社会からは、とくに大きな反発を招き、友人・知人たちの多くから、絶交されたそうです。


 あんなことをしたアイヒマンが極悪人であることを、みんなが望んでいたのです。
 それなら、「ホロコーストは狂った人間がやったことで、自分はそんなことはしない」と安心することができるから。
 それでも、アーレントは自分の見たこと、考えたことを曲げなかった。
 今の世の中から過去の出来事としてみることができる僕は、アーレントの勇気に感動してしまうのです。
 しかしながら、著者は、あえてこう述べています。

 この点に関連して一言言っておきたいことがあります。2013年に映画『ハンナ・アーレント』が公開され、日本でもプチ・アーレント・ブームになった時、アイヒマン裁判に関して、周りの人たちからいくら責められても、自分の信じることを語り続けたアーレントの姿勢を英雄視し、感情移入する声が多く聞かれました。その時あまりにアーレントに共感する人が多いのを見て、正直言って、これでいいのかなと思ってしまいました。
 映画を見てアーレントに共感する人たちは恐らく、自分を反権力・反時流の理性的な人間だと思っているのでしょうが、第二次大戦の終戦からまだ18年しか経っていなかった当時、西欧の知識人、良心的な市民は、ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人に同情し、彼らの苦難を相対化するような言論は許されるべきではないと思っていたはずです。そういう心情を抱いている人たちから見れば、たとえ本人がユダヤ人でも、アイヒマンを擁護するかのような発言は許されるものではなかったでしょう。
 そう考えてみると、アーレントが本格的にナチスの暴力に晒されずにすんだことも気にかかってきます。実際、アーレントナチスの本格的な迫害を受けてないので冷静そうなことを言えるのだ、と”批判”する人は今でもいます。


 僕には、こういう視点が足りなかったな、と、これを読んで痛感したんですよ。
 アーレントのように批判をおそれず、自分が見たこと、感じたことをそのまま語る存在は貴重です。
 でも、アーレントを批判する人たちにも、それぞれの理由や背景があったのです。
 自分や家族や友人が迫害された経験があれば、たしかに、アイヒマンを「凡庸な悪」だと客観的に語ることは難しいだろうと思います。
 こういうことを考えていると、結局、何が正しいのか、よくわからなくなってしまうのですが、みんなが、その「わからない」状態であることをためらわないのが、全体主義に引きずられないための要点なのかもしれません。
 

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