琥珀色の戯言

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【読書感想】奨励会 ~将棋プロ棋士への細い道~ ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
「元奨」が語るプロ棋士養成機関「奨励会」の実像


「どうすればプロ棋士になれるのか?」


本書はプロ棋士養成機関「奨励会」の実像を描くことで、その問いに答えるものです。

プロ棋士という職業が多大な労力を払ってでも目指す価値のあるものかどうか、という問題から始まり、奨励会の制度、戦い方、勉強法が元奨励会員である著者本人の述懐を交えて語られます。

プロ棋士養成機関「奨励会」とはどんな場所か?
どのくらい強ければプロ棋士になれるのか?
奨励会員の日常とは?
重要なのは努力か? 才能か?
夢破れた退会者のその後は?
そこは青春を捧げる価値のあるところか?


天才少年、天才少女が淘汰される奨励会という沼でもがき苦しんだ姿がそこにはあります。

将棋界に現れた超新星藤井聡太ですら6連敗を喫したこともある奨励会

その世界を本書でぜひ覗いてみてください。


 著者は橋本長道さん。
 橋本さんは、元奨励会員で、プロ棋士を目指していたものの、挫折。会社員を経て、小説の世界で「小説すばる文学賞」を受賞し、受賞作はベストセラーとなったもののその後は人生停滞中、という状況みたいです。

 プロ棋士養成機関・奨励会に入会するもプロになれなかった者のことを「元奨」(もとしょう)と呼ぶことがある。私も元奨の一人だ。元奨は将棋のアマチュアからみると驚異的な棋力を持っているので尊崇の目で見られることもある。逆に一般人からは世間知らずと思い込まれることもある。元奨は十人十色だ。奨励会での経験や元々の才覚を活かし他業界で活躍している人もいれば、私のようにどこにいっても同じ失敗を繰り返している人間もいる。
 私にとってここ2、3年は大変だった。小説の印税、賞金が尽きたので働かざるを得なくなった。街頭でプラカードを持ち、弁当工場で飯を押し、文字単価0.5円でネットに匿名のゴミ記事を書いた。村上春樹は作品内で雑誌の雑文ライターの仕事を「文化的雪かき」と表現したが、私のそれは純粋なるゴミのばら撒きだった。


 この新書、「若者がプロ棋士になっていく過程」について書かれた本、だと思い込んで手にとったのですが、書いているのは、「元奨」、つまり「奨励会に入れるほど将棋の実力はあったけれど、結局、プロ棋士にはなれなかった人」なんですよ。
 だからこそ、この本はすごく面白い。面白がってはいけないのかもしれないけれど、「夢」にあと一歩、二歩くらいのところまで近づいて挫折してしまった経験というのは、貴重なものではあります。
 著者は「自分とプロになれた人たちの差」や「プロ棋士になるにはどうすれば良いのか」を自らの失敗と周囲の人たちを観てきた経験を元に語っているのです。
 プロになって「将棋界の内部の人」になってしまっては語りづらいような内情も、けっこう赤裸々に書かれていますし。

 奨励会員の仕事と言えば、記録係である。
 仕事内容は、プロ棋士の公式戦の補助と記録、秒読みなどである。ネット中継でタイトル戦を観戦すると、盤に向かい合っている対局者の傍らに小机が置いてあり、そこに少し眠たげな青年が坐っている。その青年が記録係である。


(中略)


 一日数局の対局が同時にあるので、記録係となった奨励会員は段級位が上の者から自分が取りたいカードを選んでいく。この時、どのような対局が好まれるかははっきりしていた。終局が早い対局だ。どんなに遅くなってももらえるお金は一定なので、早く帰れるにこしたことはない。


 記録係を務めることは、奨励会員にとって、いい勉強になる、と多くのプロ棋士たちは述べています。
 しかしながら、「元奨」の著者は、(自分たちが記録係をやっていた時代には)報酬は安いし、拘束時間は長いし、そもそも、今の時代に、本当に役に立つのか(あるいは効率的な勉強法なのか)、と疑問を呈しているのです。

 奨励会員が記録係の仕事についてどう見ているかというと、今も昔も評判が悪く、できれば敬遠したい仕事と感じている。「修行になる」「勉強になる」という理由付けは特に現在において通用しなくなってしまった。プロの対局はネット中継で見られるし、棋譜も同日中に手に入る。感想戦を聞かなくても、ソフトで解析を行えば大抵の疑問は解消する。記録をとることで、逆に将棋を勉強する時間が削られてしまう――という声もある。現在の奨励会員が記録を嫌がる理由には、ネット中継が多くなったことも挙げられる。記録係もカメラに映ってしまうので気が抜けないのだ。うっかり眠ってしまうような失態を犯すとすぐにネットで書きたてられる。
 もちろん、学生は学校を休んで記録係をしなければならないので、記録を取らされ続けていると出席日数が危うくなってしまう。
 とにかく記録係という仕事の評判はよくない。


 僕もネットで「居眠りしてしまう記録係の動画」を見たことがあります。眠いのが当たり前だよねそれは。いくら将棋が好きとはいえ、体調が万全じゃないときもあるでしょうし。
 今の時代、将棋の勉強をするという点でも、記録係をやるより、研究会で切磋琢磨したり、ネットで対局したりするほうが、効率的だとも思います。
 記録係が現在やっている仕事は、コンピュータで代替できそうだし。
 ただ、それを言い始めると、突き詰めれば、将棋盤や駒も木でできたものではなくて、最初からディスプレイに表示したものを使えばいい、ということになりますよね。
 あえて人間がやることに意義がある、というか、意味があると定義しているのもまた事実なのでしょう。
 こういう「奨励会員の本音」というのは、なかなか出てこないので、読んでいて、すごく面白かったのです。
 当たり前だけれど、「神童」と呼ばれる若者たちも、僕と同じ、めんどくさがりの人間なんだな、って。


 奨励会員の「友達付き合い」については、こんなふうに書かれてす。

 基本的には同期で一番強く、一番勉強熱心な子と仲良くするのがよい。奨励会員同士仲良くなるのに難しいことはない。とにかく、将棋の話をしていればよいのだ。社交性に欠ける子や、気難しい子でも将棋の話ならいくらでも続けることができる。
 そういう子供と付き合うメリットは、よい研究相手になるからだけではない。将棋に対する姿勢や態度をも学ぶことができることだ。将棋への熱心さ、情熱は伝染する。同じ空気を吸っているだけで、日々の生活が変わっていく。これは、受験勉強やその他の競技でも言えることであろう。進学校に行ったほうがよいのは、高度な授業を行っているからではなく、自然に勉強するという雰囲気に満ちているから――ということとよく似ている。


 ただ、思春期における魅力的な友人はそんな真面目一直線の子とは異なっている。当意即妙で気のきいたことを言い、様々な遊びを知っている子供が魅力的に写る。そういう子たちと遊び、付き合うのもよいが一線は引いておくべきだろう。
 昔の将棋雑誌を読むと、チャイルドブランドとも呼ばれた羽生善治を筆頭とする「羽生世代」への見方は現在と異なっている部分がある。特に年配の棋士達は、彼らのことを「遊びもろくにしない真面目一辺倒の優等生で人間的な魅力に欠ける若者達」と見ているところがあった。しかし、現在では、羽生世代の棋士達を「人間的な魅力に欠ける」などと評する者はいないのではないだろうか。羽生世代は将棋界に新しいエートス(態度・行動様式)をもたらした。棋士が社会的に尊敬される立場にあるのは、羽生世代の生きざまによるものである。詳しくは島朗『純粋なるもの』に書いてあるので参照されたい。
 何の面白みもない真面目人間と思われていた青年が、話をしてみると深い教養と機知を持っているということがある。そんな青年がタイトルを獲り、30代40代と歳を重ねていく中でずば抜けた個性が知られるようになり、深い人間性を認められていく――というのは将棋界ではよくある話なのだ。


 遊んでいる人のほうが、「人間性」があるのか?
 逆に、真面目な人は、面白くないのか?
 そういうのは思い込みでしかない、というか、遊びたい人間の言い訳なのかもしれません。
 たしかに、一昔前は、羽生さんを「将棋ばかりで人間としての面白味がない」と言う人たちが存在していたのです。
 しかしながら、今、著書や講演、NHKで最先端の人工知能を紹介する番組などで、人類の知性の象徴として語っている羽生さんの話は、多くの人に感銘を与えています。
 結果を残している人の言動へのプラスの先入観がこちら側にあるのだとしても。
 

 奨励会で長年修行をしたものの、年齢制限によってプロ棋士になることができなかった――という経験に意味はあるのだろうか。これはその人の人生観や、現代社会をどのように見るかという視点によって変わってくるものだと思う。
 現代の日本社会では、ニートや引きこもり、自分の将来に夢を持たない若者が溢れ返っている。また、高校、大学、新卒就職という道を辿る普通の人々は決められたルートから外れることを極端に恐れていたりする。そんな中で、たとえまわり道になったり、脇道にそれたりしても、必死になって何かの目標に向かって努力をしたという経験には希少価値があるはずだ。というよりも、そうした人間が評価される社会であるべきなのである。


 私自身、奨励会を経験したことに後悔はない。後悔があるとすれば、真摯に打ち込みきれなかったことだ。これは敗北し、辞めていった奨励会員達の多くに共通する思いであろう。


 「才能」というのはもちろんあるけれども、もともと才能がある集団のなかで、プロ棋士にたどり着くには、「どれだけ努力を続けられるか」が大事だった、と著者は考えているようです。
 プロになった人がみんな、苦も無く努力し続けていたかというとそうでもなくて、これまでずっと著者たちと同じくらいのところで停滞し、フラフラしていた人が、一念発起して勉強するようになり、頭角を現したという事例も少なからずあるのです。
 以前、プロ野球に入ったものの活躍できなかった人たちを描いた本のなかでも、多くの人が「野球をやったことではなくて、プロ野球選手になれたことで安心して、本当にすべてを投げうって練習しなければならないときに、そうしなかった」ことを後悔していたのを思い出しました。
 本当に努力しなければならないときに、それを自覚してやれる人って、そんなに多くはないのです。
 僕もそのひとりなので、若い人たちに、そのことを伝えておきたい。
 そういうのは「説教」とか「負け犬の遠吠え」に聞こえることは重々承知の上ではありますが。


将棋の子 (講談社文庫)

将棋の子 (講談社文庫)

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