琥珀色の戯言

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【読書感想】スポーツ国家アメリカ - 民主主義と巨大ビジネスのはざまで ☆☆☆

内容紹介
自由と平等の理念を持つ、移民の国アメリカ。全米がスーパーボウルに熱狂するなど、スポーツが大きな存在感を持つ。野球をはじめとするアメリカ発祥の競技は、社会や文化とどう関係しているか。人種や性、地域社会の問題にアスリートたちはどう向き合ってきたか。大リーグの選手獲得方法やトランプ大統領とプロレスの関係は、現代アメリカの何を象徴しているのか。スポーツから見えてくる、超大国の成り立ちと現在。


 スポーツ大国、アメリカ。
 野球のアメリカ国内でのナンバーワンチームを決める試合が「ワールドシリーズ」って、ちょっとおかしくない?と僕は言いたくなるのです。
 実質的には、アメリカで一番強いのが「世界一強いチーム」なんでしょうけどね。
 野球、アメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケーといった人気競技のトッププロの年収は、日本のプロスポーツ選手とは、ひと桁違いますし。


 著者は、アメリカ生まれのプロスポーツの特徴について、冒頭でこう述べています。

 だが、野球、アメリカンフットボール、バスケットボールといったアメリカ生まれの競技は、バスケットボールを除けば、世界的にはマイナーな競技だ。アメリカでは巨大なマーケットが形成されていながら、世界規模では普及していないのだ。政治経済一般や大衆文化レベルでのアメリカの世界的影響力を考えると意外なことだが。
 実はアメリカ生まれの競技は、世界的に普及している競技とやや趣が異なる。例えばイギリス発祥のサッカーでは、通例、試合中1チーム3人しか交代できない。これに対し野球は、代打、代走、リリーフ投手などを次々に送り込むことができる。一芸に秀でていれば出番が与えられるのだ。さらにアメリカンフットボールやバスケットボールも、一度ベンチに退いた選手がその後何度も試合に登場できるなど、選手交代に寛容といえる。概してアメリカ型競技は、一人の人間が攻撃も守備もこなして最後までプレーすることに固執せず、むしろ状況に応じて最適な人材を投入することで成果の最大化を奨励するという、独特の競技観を持っている。


 なるほど、言われてみればそうだなあ、と。
 もちろん、世界的にもっとも人気があると思われるサッカーでも、試合中に選手交代が行われますし、ポジションによる役割分担もあるのですが、野球やアメリカンフットボール、バスケットボールほど選手交代は頻繁ではありません。
 分業や効率化、そして、より多くの選手に出番が与えられること。
 経済効率と民主主義というのは、まさに「アメリカ的」ではありますよね。


 また、アメリカンフットボールに対する、こんな見解も示されています。

 とりわけ、アメリカンフットボールは、戦争との類似性が最も顕著だといわれる。空間を制圧する攻撃方法や、自分は犠牲になってもボールを前に薦める組織内で自己犠牲的な戦い方、緻密な作戦の立案と徹底したリハーサルの精神などは、戦争と共通する要素だ。実際、アメリカンフットボールには、戦争を彷彿させる名称がプレーにもつけられている。ディフェンスラインよりも後方の守備陣がクォーターバックめがけて奇襲することを「ブリッツ」というが、これは軍事用語で電撃攻撃や集中空爆のことを指す。また、スーパーボウルの開会式では、国歌斉唱の終了に合わせて編隊を組んだ空軍機が競技場上空に爆音をとどろかせながら飛来する。
 アメリカ型競技は、産業社会の基本原理との親和性のみならず、軍隊や愛国主義とも関わりながら発展してきた。このことは、産業社会が求めた人間像と軍隊や国家が必要としていた人間像が重なっていた可能性を物語っている。それは、大量があり、組織の成果の最大化のために正確かつ規律正しく行動できる人間なのだ。


 アメリカにおけるスポーツは、人種差別や女性差別の象徴であると同時に、それを無くしていくための「風穴」となることも少なからずありました。
 ただし、それはアメリカの自発的な問題意識から、というよりも、戦争で国民の団結や軍需産業の労働力としての女性が必要とされたり、冷戦下でスポーツによる国威発揚をはかるソ連とのオリンピックでのメダル争いを制したりするため、という、「やむをえない事情」に基づくものだったのです。

 20世紀になっても女性に許された種目がまだ限られていた理由の一つは、服装の問題であった。それは、屋外で女性の身体の露出度が上がることへの根強い抵抗感という性道徳の次元と連動していた。だが、自転車ブームの到来は、こぎやすい服装の必要性を提起した。実際、サイクリングではブルーマーをはく女性たちも登場し始めた。そして、女性の服装とスポーツをめぐる問題は、意外な事件をきっかけに大きく事態が動き始める。
 1904年6月、ニューヨークを出航したジェネラル・スローカム号が間もなく火災を起こした。船をチャーターしたのはルター派の教会で、恒例のピクニックに向う途中であった。1400人の乗客のほとんどが女性と子供だった。岸までは50メートルもなかったが、成人の女性と少女1000人近くが死亡した。わずかな距離さえ泳げなかったのだ。
 水泳は、服装と性道徳の問題がネックとなって、アメリカの女性にとって最も縁遠い競技となっていた。実際、女性は水に入るチャンスがほとんどなく、動きやすく体にフィットする水着も開発されていなかった。その上、海水浴場で女性が男性に交じって肌を露出すれば、周りの男が発情しかねないと真剣に危惧されていたくらいだった。


 50メートルだったら、岸が見えている状況ですよね。
 そんななかで、こんなに大勢の人が溺れて亡くなったというのは、今の世の中からすると、想像しがたいのです。
 いまから100年前は、ほとんどの女性が「まったく泳げなかった」。
 実際のところ、溺れるような機会そのものが少なかったのかもしれませんが、それにしても、この100年で、スポーツに対する人々の考え方というのは、大きく変わったことがわかります。


 著者は、アメリカとヨーロッパの「アマチュアリズム」についての考え方の違いをこう説明しています。

 当時(19世紀)のイギリスではフットボールの近代化が進み、上流階級の競技としてのラグビーと労働者階級の競技としてのサッカーに分化していった。上流階級は、スポーツで生計を立てる必要はなく、あくまで余暇として楽しんでいた。一方、労働者階級の中からは、サッカーをして金銭的報酬を得られるなら、それを職業にしたいと考える者が現れ、1880年代にはプロのサッカーリーグが結成された。こうしたプロ選手を卑しい存在とみなし、厳しい抵抗感を感じた上流階級は、自分たちのスポーツ観こそが王道であるとして、労働者階級のプロスポーツの地位を低く貶めようと画策した。
 この過程で登場したのが、アマチュアリズムの考え方である。上流階級の人々は、テニスやゴルフなど労働者階級に普及していなかった競技にクラブという閉鎖的組織形態を持ち込み、スポーツを通じて金銭を受け取ったことのない人間のみ会員にした。これらの競技に労働者階級がアクセスできないようにするとともに、スポーツは本来お金に困っている人がやるものではなく、プロスポーツは邪道であるという上下関係を構築しようとしたのである。

 アメリカ型競技をめぐっては、プロ化の動きをアマチュアリズムの立場から糾弾する風潮はほとんど見られなかった。貴族的な有閑階級の論理であるイギリスのアマチュアリズムは階級社会の産物であり、より平等な社会を理想としたアメリカの文化的独立を達成するのは、むしろ打破すべきものであった。その上、体力低下への懸念や健康不安が渦巻いていた産業社会において、運動を職業とするプロスポーツ選手は、むしろ人々の模範となりうる、肯定的イメージさえ持ちえた。


 こういう考え方の違いには、カトリックプロテスタントという宗教上の背景もあるのではないかと思うのですが、アマチュアリズムというのが生まれた理由は、その言葉でイメージされるほど「美しいもの」ではないみたいです。
 

 この新書の最後に、著者は、スポーツをめぐる息子さんとの関係やアメリカで会ったタクシー運転手の話をされています。
 いまの世界において、スポーツというのは、初対面の異国の人やちょっとぎくしゃくしている人に対して、共通の話題になりやすいのは事実だと思うんですよ。
 もちろん万人向けではないかもしれないけれど、政治や宗教の話に比べると、通じなかったときのダメージも少ないですし(とはいえ、日本国内での「贔屓の野球チーム」なんていうのは、場合によってはけっこうリスクが高いのも周知の通りです)。
 そういえば、僕も初対面の人たちと泊まりがけで研修に行ったとき、ちょうとアテネオリンピックが開催されていて、そのおかげで話題に困ることが少なくなって、「オリンピック、ありがとう!」と心から感謝した記憶があるんですよね。


2020狂騒の東京オリンピック

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