琥珀色の戯言

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【読書感想】悪の力 ☆☆☆

悪の力 (集英社新書)

悪の力 (集英社新書)


Kindle版もあります。

悪の力 (集英社新書)

悪の力 (集英社新書)

内容(「BOOK」データベースより)
川崎市中一男子生徒殺害事件、群馬大病院事件、名古屋大女子学生の殺人・傷害・放火事件、酒鬼薔薇聖斗、ルフトハンザ系航空機墜落…。周囲では日々、「悪の力」が増大しているように映る。そして、ひとたび「悪」を見出したとき、人々は心の奥底からどす黒い感情が湧き出すのを感じるだろう―こいつだけは許せない、と。しかし、そうした憎悪のエネルギーは、実のところ「誰かと繋がりたい」という叫び声でもある。現代人を苦しめる「悪」はどこから生まれるのか。私たちはそれとどう向き合えばいいのか。一〇〇万部のベストセラー『悩む力』の著者が、人類普遍の難問に挑む。


 「悪」とは何か、そして、世間で「悪」とされるものに対してわき上がってくる、やり場のない憎しみとか苛立ちと、どう向き合っていけば良いのか?


 著者は、川崎市の男子中学生殺害事件や名古屋大学女子学生の「人を殺してみたかった」という理由での殺人、酒鬼薔薇聖斗、ルフトハンザ系の航空機墜落事故などを例示しながら、これらの事件の「犯人」たちの「悪」と、それに対する世間、そして著者自身の反応について考察していきます。
 著者は、自分自身のことについて、「プロローグ」でこんなふうに述べています。

 振り返ってみれば、私は、家族でも友人でもない人間が、悲劇的な事件の被害者に過剰に感情移入し、加害者の悪を激しく責め立てる光景にどこか鼻白む思いがしていました。もともと涙もろい性格であることを自覚していたこともあり、テレビや新聞などの公的な場では、なるべく感情的にならないよう目前の事象と距離をとり、できるだけ冷静に語ろう、分析しよう、俯瞰してモノを見ようとしてきたつもりです。
 しかし、そんな私がいま「こいつだけは許せない」という強烈な感情の虜になってしまったのです。
 そのお陰でしょうか、視聴者の中に「リベラル」な言論人やコメンテーターの冷静な発言に対して、「偉そうにいいやがって」とか、「こいつは人の気持ちがわからないんだ」という反感を抱く人がいることをよく理解できるようになりました。なるほど、いい勉強になった、という思いとともに、自分の中に芽生えた荒々しい感情と、どう付き合っていけばよいのか、思案に暮れました。


 著者は、「こいつだけは許せない」という感情の芽生えは、人間性を深め、人と人との繋がりを回復するチャンスなのではないか、と述べています。
 そして、世界に人間が自分だけしかいなければ「悪」というのは存在しえないし、「自分のこの憎悪や怒りを他者に理解してほしい」という感情も生まれてこないはずだ、とも。
 過剰な「当事者意識」に対しては、僕自身も「そこまで勝手に『代弁』しなくても……」ということもあれば、「でも、同じことが自分やその周囲にも起こった可能性があるのだから」と共感してしまう面もあるのです。
 この新書の内容についても、わざわざ「悪」に触れて、それを理解するよりは、悪などとは無縁であるに越したことは無い、とも思うんですよ。
 ただ、人と接するということは、「悪」と接触するリスクを増やすことでもあるのです。
 そもそも、自分だって、誰かからすれば「悪」かもしれないし。
 でも、そういうふうに「相対主義」に陥ると、結局「なんでもあり」になってしまうというところもあって……


 「悪いことをする人」のなかには、恋愛感情のもつれとか、お金が欲しかった、とか、僕にも理解可能でありつつも「それで人を殺してはいけない」と言えるものがあります。
 やった本人だって、それが「悪いこと」だと認識しながら、抑え切れない衝動があったのだろうな、と。
 許すことはできなくても、想像はできる。
 その一方で、名古屋大学の学生が、薬物への興味が高じて同級生に毒物を盛り、「人を殺してみたかった」と隣人を殺害した事件や、ルフトハンザ航空の墜落事故などは、本人にとっては「悪いこと」というより、「自分がやるべきことをやった」という認識なのかもしれません。
 世の中で、人間が持つ欲求の善悪というのは、「多数決」みたいなもので決められている面もある。
 たとえば、異性の成人を愛するという傾向を持つ人が今の世の中では多数派ですが、同性愛についても、少しずつ権利が認められてきています。
 もちろん、恋愛なんてうまくいくことばかりじゃありませんが、「許容範囲」は広がってきている。
 でも、「小さな子供しか愛せない」という生まれつきの性癖を持った人間は、それがどんなに切迫した欲求であっても、「合法的に満たす」ことは許されない。
 いやまあ、僕だって、「それを許すべきだ」とは思いません。
 ただ、そういうふうに生まれついてしまった人は、生きづらいだろうな、とは想像してしまうのです。


 「金のために人を殺す」のと、「人間の死への興味が抑え切れずに人を殺す」のと、どちらが「悪い」のか、両方同じくらいなのか?
 ちょっと本の内容とは離れてしまうのかもしれませんが、そんなことを考えながら読みました。


 著者は、「意味」の増殖が、意味の空洞化を招いているのではないか、「なんでもオーケー」の世界になると、かえって、すべてのものに「意味」が無いのと同じになってしまうのではないか、と述べています。
 多様な価値観を許容するというのは、「なんでもあり」に陥ってしまうリスクも背負っている。

 さまざまな価値が相対化される私たちの社会の中で、これまで考えられなかったような原理主義反知性主義が、なぜここまで台頭してきているのでしょうか。
 それはやはり、私たちが空虚さに耐えられないからです。
 自分たちがどこに拠って立っているのかわからない。善悪を含めてしっかりとした基準や価値が欲しくても、それが非常に曖昧になっているので、何を信じていいのかわからない。それはとても苦しいことです。その空虚感の中で、生きる術を見失っている人たちもまた増えているのだと思います。
 悪というものは、こうした善悪の基準が曖昧になった、「何でもオーケー」の世界が大好きなのです。悪は空虚な存在にするりと忍び込んで、その身体を乗っ取ってしまうのです。そして個々人の持つ身体性、生きている実感をさらに奪っていき、そうして広がっていく虚無の中で、世界をぶち壊したい、人を傷つけたいという破壊衝動を育てていくのです。


 「こいつだけは許せない」という怒りを持ち、周囲やネットなどで「共感」を求めるというのは、ある意味、その「空虚さ」への抵抗なのかもしれません。
 もちろん、それがあまりに暴走してしまうのは問題ですし、的外れな批判になっているケースもあるのですが、それは確かに「自分自身の存在や価値観への不安」から出ているのです。


 著者は、ハンナ・アーレントが書いた『イェルサレムアイヒマン』を紹介し、「陳腐な悪とは、思慮の欠如であり、想像力の欠如であるということです」と述べています。
 そして、「この恐ろしい病の根は、私たちの中にもあるのだ」と。


 ただ、思慮とか想像力って、あまりにも突き詰めすぎると、それはそれで、先ほどのような「空虚」につながってしまうのではないか、とも僕は感じます。

 また、最も筆舌に尽くしがたい苦悩は、息子を失ったことです。なぜ、息子は私より先にその生を終えたのか。
「どうして自分はこんな心の病に苦しまなければならないのか」
 この肺腑をえぐるような息子の問いに私は答えられませんでした。息子はずっとそのことを問い続けていたはずです。よりによってどうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのか。何も悪いことをしていないのに、神がいるならば、問い質したい、そんなイワン・カラマーゾフと同じように息子も神に問い続けていたのでしょう。
 その全身を賭けた息子の問いに、私はただ、その答えを先延ばしにすることしかできなかったように思います。
 そして、私はその答えをイエス・キリストの受難と赦しに求め、ミッション系の大学の学長に就任し、息子と同じような若者たちとの心の触れ合いに残された人生を賭けるべく、大学改革に専心しましたが、大学を去ることにならざるをえませんでした。


 「悪」とは何か。
 人類において、殺人というのが無くなると思いますか?というアンケートをとったら、おそらく、ほとんどの人は「無くなることはない」と答えるのではないでしょうか。
 しかしながら、自分や大切な人が、その被害者、そして加害者になることは「絶対にあってはならないこと」だと見なしているのです。


 すべては運である、とは言いたくないのだけれど、すべてが運命である、と悟るのは難しすぎる。


悩む力 (集英社新書)

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惡の華(1) (週刊少年マガジンコミックス)

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