琥珀色の戯言

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【読書感想】編集者T君の謎 将棋業界のゆかいな人びと ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
天才か変人か。とにかく棋士は半端じゃない。電線にとまる雀の数を瞬時に当てる、一秒間に一億三手読めるなど伝説は枚挙に暇(いとま)ない。名人たちの奇抜な行動に目をみはり、本を一冊しか読んだことがない専門誌の編集者に打ちのめされる。非凡で強靱な情熱を傾ける人びとを描き出す、笑いと感動の初エッセイ!


 この本にまとめられているのは、大崎善生さんが2002年に1年間、『週刊現代』に連載していた将棋の棋士に関するエッセイです。
 大崎さんは前年に18年間勤めた日本将棋連盟を退職されて、作家としてフリーになったばかり。
 2002年といえば、インターネットもようやく普及しはじめたくらいで、コンピュータ将棋がプロ棋士を本格的に脅かすのは、まだ先の話だと思われていました。
 ある意味、「人間の棋士がコンピュータを意識せずに、人間同士の対局に集中できた最後の時代」ともいえます。
 これからは、ある意味、「コンピュータは強すぎるからナシ」となり、人間同士の勝負に再帰していくのかもしれませんが。


 そんな「棋士がまだ人智もコンピュータも及ばない超人だった時代」の面白いエピソードがたくさん書かれていて、少し古い時代の話なのだけれど、だからこそ、今読むと新鮮な感じがするのですよね、このエッセイ集。
 

 加藤一二三さんのエピソード。

 先崎学八段の好きな話。加藤は昼食時間とか夕食休憩時の相手がいないときに、相手側の曲面に立って考えるという癖がある。自分の側から見てばかりではなく、相手の側から見ると現在の局面はどのように映っているかを確かめるのだ。先崎が見かけたときも加藤は例によって、相手側の方に立ってじーっと盤を睨みつけていた。5分、10分。静かにそして真剣に。さてはてどんな局面なのだろうかと先崎は近づいていった。そしてひっくり返りそうになった。
 加藤が睨んでいたその局面はまったくの先後同型だったからである。つまり、どっちから見てもまったく同じなのだ。それでも加藤は相手側に立って、じーっと睨み続けていたというのである。
「このおっさん大丈夫かいな」ときっと先崎は頭の中で叫び声を上げたことだろう。私もその場にいたらそう思ったと思う。でも、全然大丈夫なのだ。大丈夫どころかこれこそ加藤一二三の真骨頂といってもいい場面かもしれない。
 そう。そういう話を聞いたときに私の胸は高鳴るのである。ああ、この業界に入ってよかったなと、心の底から喜びがこみ上げてくるのだった。


 「ひふみんブーム」の前から、将棋ファンは、加藤一二三さんの「凄さ」を知っていたのです。
 僕もこういう話、大好き。
 天才というのは、やっぱりそう簡単に理解できるものじゃない。


 島朗さんは、羽生善治森内俊之佐藤康光という3人の名人を生んだ、伝説の研究会「島研」を立ちあげたことで知られています。

 何しろ「将棋はただのボードゲーム」の発言すら、思っていたとしてもなかなか口にできないような雰囲気があった時代である。将棋は芸であり道であった。その呪縛を後に解き放ったのが羽生善治の「ジャスト・ア・ゲーム」という言葉である。だからゲームとしての将棋の本質をこれからのプロは掘り下げ追究していくべきだということで、私はその羽生の一言から将棋界は大きな変革を遂げたのだと考えている。そして、そんな考えに大きな影響を及ぼしたのが島だというのは将棋界の定説である。
 島竜王(当時)に羽生六段が挑戦した第2期竜王戦の記憶は鮮明に残っている。私は羽生の3勝2敗1持将棋で迎えた第7局を取材に行ったが、島の快勝に終わり、大取材陣は肩すかしに終わることになってしまった。そして東京で行われた第8局で羽生が島を破り、わずか19歳の青年が棋界の頂点に立ってみせたのである。第8局も私は現場にいたのだが、この大勝負での二人の対局姿がスーツであるというのも意外だった。そして、投了の瞬間に島が羽生に言った言葉を聞いたときに私は本当に将棋界は変わりつつあるか、あるいは大きく変わっていくことを確信したものだった。
「おめでとう」
 島は投了の意志を告げると同時に羽生にそう言ったというのである。それは初めてのタイトル戦を8番も戦ってきた19歳の羽生へのねぎらいの言葉だったと思うのだが、しかしタイトルを取られた直後に盤を挟みながらそんな言葉を吐いた棋士というのは聞いたことがない。
 打ち上げの光景も異様だった。羽生と島を交えて関係者数人で当時流行っていたモノポリーを始めたのである。タイトル戦の敗者が勝者とケラケラ笑いながらサイコロを振る姿は、ものすごく不思議な光景として映ったものである。
「ジャスト・ア・ゲーム」 戦いは将棋盤の上にしか存在しない、本当にそういうことなのだろうかと、私はその光景を眺めながら頭がクラクラする思いがしたものだった。


 こういう「将棋に対する考え方の変革」が進んでいった一方で、昔気質の「勝負師」も生き残っていた時代だったんですよね。
 非業の死を遂げた森安秀光さんのことを、大崎さんはこんなふうに振り返っています。

 森安は熱狂の棋士だった。喜怒哀楽の激しさは群を抜いていた。大はしゃぎし、子供のように威張り散らし、泣きわめき、そして寂しがった。森安が参加したタイトル戦はいつでも大騒ぎになった。勝っても負けても、騒ぐことだけは変わらなかった。酒を飲みそして大騒ぎしながら麻雀を打った。
棋聖のリーチじゃあー、当たれるかあー」と森安は酔った勢いで牌を叩き付け横に曲げる。
「ロン」と冷静な新聞記者。
「ぎょええええー」
 私はいつもそんな光景を、笑いながら少し離れた場所から見ていた。見ている分には楽しいのだが、その熱狂の渦の中に巻きこまれることにはちょっとした恐怖心があった。
奨励会員は人間じゃない」というのも口癖だった。それは、自分の経験から導き出された言葉なのだと思う。だから、今はつらいだろうけれど歯をくいしばって頑張れ、という励ましの意味なのだと思うが、酔った森安はその後半の言葉を言い忘れてしまうのである。
 そして「奨励会員は人間じゃない」という言葉だけが残る。それを聞いた当時の奨励会の親玉みたいな存在だったM三段は烈火のごとく怒った。そして奨励会員が天下の棋聖に噛みついたのである。
「俺が人間じゃないんだったらあんたがなんだ」
「僕? 僕、棋聖だよー」
「確かにあんたは棋聖かもしれないけれど、そんなことを言うやつは人間じゃない」
 私はその話を聞いたときに胸が塞がれる思いがした。M三段の心の悲痛な叫びが聞こえてくるように思えてならなかった。奨励会員は一円にもならない将棋を将来の夢のために死に物狂いで頑張っている、その後輩に向かってそんなことを言うことはないじゃないか。そして、私はこうも思った。そうではあるけれど、将棋界は勝負の世界なのである。勝つ人間だけが認められ生き残っていくことを許される世界なのだ。どんなに苦しくても勝ちあがり、同じ土俵に立って負かすことでしか、証明できないこともあるし、いかに狭くつらかろうともそれを達成する道が続いていることも確かなのだ。


 結局のところ、将棋界というのは、強くなければ、認めてもらえない世界なのです。
 競走馬がどんなに「性格が良い」としても、走るのが遅ければ生きていけないように。
「ジャスト・ア・ゲーム」も、それを言ったのが、第一人者の羽生善治さんだったから、誰も咎めることができなかっただけ、ではあるのです。
 そんな世界で、「所詮、ボードゲームにすぎない」と言う人もいれば、森安さんのように「将棋がすべて、勝って生き残らないとはじまらない」と考えて生き抜いてきた人もいる。
 でも、「人間じゃない」と言われた側には、森安さんの「今はつらいだろうけど歯をくいしばってがんばれ」という言葉は聞こえない。そりゃそうだよね……そこまで他者の言葉を善意に解釈するのは、よっぽどの聖人だけだと思います。


 この本を読んでいて驚いたのは、パチスロの「リーチ目」(この目が出れば必ず次は大当たりするという予告)を発見したのが、奨励会員時代の中田功さんというプロ棋士だったということでした。当時は、製作している側もそんな法則があることを認識していなかったのではないか、と大崎さんは仰っています。
 中田さんは、出てきたパチスロの目を記憶していて、大当たりするパターンを覚えていたのだそうです。あとは、その目が出ている台を見つけて座って打つだけ。
 棋士たちの「ゲームに対する適応能力」って、本当にすごい。


 こういう、悲喜こもごも(楽しいエピソードのほうが多いです)の、ちょっと懐かしい棋士や、現在活躍中の棋士の若い頃の話が詰め込まれたエッセイ集です。
 「電王戦以前の人間だけのものだった将棋界」を思い出しながら読みました。


将棋の子 (講談社文庫)

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聖の青春 (講談社文庫)

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