琥珀色の戯言

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【読書感想】江戸川乱歩と横溝正史 ☆☆☆☆

江戸川乱歩と横溝正史

江戸川乱歩と横溝正史


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
日本の探偵小説を牽引した二大巨頭、江戸川乱歩横溝正史。盟友として、ライバルとして、お互い認め合い、時に対立しつつ、一方が作家として執筆するとき、もう一方は編集者として支えた。太陽と月にも喩えられる日本文学史上稀な関係はどのように生まれ、育まれたのか。二人の大作家の歩みを辿りながら日本の出版史をも描き出す、空前の対比評伝。


 僕にとっての江戸川乱歩さんは、小学校の図書館で大人気だった『少年探偵団』を書いた人で、横溝正史さんは、テレビでやたらと宣伝していた角川映画の原作者、というイメージが強いのです。
 日本の探偵小説の黎明期を築いたこの二人に、こんな濃密な交流があったというのは、この本を読んで初めて知りました。
 二人は、様々なポイントで交わり、影響を与えあっているのですが、不思議なことに、揃って活躍している時期というのはほとんどなくて、乱歩さんがたくさん書いているときには横溝さんは無名だったり休養していたりで、横溝さんが精力的に活動しているときには、乱歩さんは長く休筆していたり、半ば隠居して探偵小説家のまとめ役としての仕事がメインになったりしているのです。
 

 二人はほぼ同時期にデビューし、最初の二十年は江戸川乱歩が人気作家として不動の地位を得て、戦争中の五年は二人とも探偵小説は書けず、次の二十年は二人がともに人気作家となり、次の十年は亡くなった乱歩の作品は読まれていたが横溝は忘れられ、最後の五年に横溝は空前の大ブームとなった。
 この60年のあいだに戦争があり、作家たちも出版界もその大きな波に呑み込まれた。その間に多くの出版社が生まれては消えていった。その激動のなかで江戸川乱歩横溝正史の作品は生き抜いた。


 二人は探偵小説のファンとして出会い、一時疎遠になることはあっても、ずっと交流は続いていたのです。
 乱歩の作品に対して、横溝さんが厳しい評価を下したときのエピソードもこの本のなかには紹介されています。
 二人は「盟友」ではあったけれど、「ライバル」でもあり、お互いの作品や探偵小説に対して「馴れ合う」ことはほとんどなかったのです。
 

 この本では、江戸川乱歩横溝正史という、ふたりの「巨匠」を軸に、当時、日本ではまだ未開拓のジャンルだった「探偵小説」に魅せられた人々が大勢出てきます。
 

 この日本探偵小説黎明期の巨匠たちは、甲賀三郎大下宇陀児小酒井不木とみな理系の大学を出ている。横溝正史も薬学専門学校卒業で理系だし、すぐ後に登場する海野十三も理系である。乱歩も早稲田大学では文学部ではなく政治経済学部で経済を学んだ。これらは日本の探偵小説の特殊性を象徴しているのかもしれない。


 日本のミステリに精緻なトリックを擁するものが多いのは、初期からの伝統だともいえそうです。
 最初は海外探偵小説の翻訳が主で、「外国のレベルに追いつきたい」という悲願をもっていた日本の探偵小説なのですが、江戸川乱歩が登場した1920年代半ばくらいから、大きな進化を遂げていきました。
 ちなみに、アガサ・クリスティは1890年の生まれで、『アクロイド殺し』は1926年作、エラリー・クイーンは二人とも1905年生まれで、『Yの悲劇』と『エジプト十字架の謎』が1932年作。
 江戸川乱歩さんは1894年、横溝正史さんは1902年の生まれなのです。
 日本でも欧米でも、ほぼ同世代の作家たちが、同じ時期に「探偵小説」を急激に発展させていったのです。


 江戸川乱歩といえば、多くの人が最初に思い出すであろう『怪人二十面相』シリーズは、乱歩本人にとっては、あまり気乗りがしない仕事であったことも紹介されています。

 中会議通過後、乱歩は講談社野間清治社長を囲む有力作家の懇親会に呼ばれ、その席で須藤と初めて会い、「少年倶楽部」への執筆を依頼された。
「え、ぼくに少年物を書けというんですか」と乱歩は驚いた様子だったが、数日後に須藤が改めて乱歩邸を訪れると、すでに書く気になっていた。
 1935年の乱歩は前年からの『人間豹』が「講談倶楽部」五月号で完結すると、以後、何も小説は書いていなかった。それでも生活に困らなかったのは、蓄えもあったし、平凡社が「全集」の紙型(版のこと)を使って「乱歩傑作選集」全十二巻を一月から毎月一冊出していたからでもあろう。
『人間豹』の最終回を書いたのは二月から三月にかけてだろうから、半年近く創作していない時期に、「少年倶楽部」から依頼があったのだ。
 乱歩は『四十年』では、当時どうして少年物を引き受ける気になったのか思い出せないとしている。 <どうせ大人の雑誌に子どもっぽいものを書いているんだから、少年雑誌に書いたって同じことじゃないかという気になったのであろう>と自分の当時の心境を推測しているありさまである。大成功した作品ではあるが、どうしても書きたかったものではないので、印象に残っていないのかもしれない。以前から依頼は受けていたが、<それほど熱烈な依頼でもなかったので、私も本気になれないでいた>とも書いており、このあたりは編集部の須藤健三の回想と食い違う。引き受けた理由としては、他誌からの執筆依頼が少なくなっていたところ、「少年倶楽部」が強く頼んできたからとも書いており、これが最大の理由ではなかろうか。


 それまでの江戸川乱歩の作品をみていくと、かなり大人向けというかマニアックな世界を描いたものも多く、少年物を書かせてみよう、というのは冒険だよなあ、と思うのです。
 そして、本人もそう感じていたにもかかわらず、できあがった怪人二十面相と少年探偵団のシリーズは、日本の子供向けの本のなかでも屈指の人気作となりました。
 とはいえ、僕の記憶にあるのは、もう35年前とかなので、いまも小学校の図書館で読み継がれているのかどうかはわからないのですけど。
 1980年前後の「本好きの小学生」には、少年探偵団と怪盗ルパンを図書館で借りている子が、本当に多かった。

悪魔の手毬唄』連載終了の翌月の1959年2月号に、横溝は「楽屋話」と題した随筆を書き、そこにこうある。
<この小説が連載されはじめたのと、江戸川乱歩氏が「宝石」の編集に乗りだしたのと偶然同時になったが、このことは作者にとって非常にラッキーであったと思っている。やはり掲載誌が動揺していると、書くほうでも不安になって、そんなことがあってはならないのだが、やはり気勢がそがれてしまう。ことにそういうことに敏感なわたしなのだから、1年8か月(1か月休載したから)にわたって、なんの不安もなくこの小説を書きつづけられたということに関して、江戸川乱歩氏に深く感謝しなければならないだろう。>
 横溝が感謝しているのは乱歩の編集手腕というよりは経営手腕のほうのようだ。というよりも、原稿料の支払いが安定したことに感謝している。これはこれで本音だろうが、照れ隠しかもしれない。横溝のもとへ原稿を取りに来て最初に読むのは編集部の大坪直行だったが、横溝としては乱歩を最初の読者と想定し、乱歩に読ませるために書いていたのではないだろうか。
 この時期の横溝と乱歩の書簡が公開されればそのあたりのことも分かるはずだが、『悪魔の手毬唄』が横溝の最高傑作と称される名作になったのは、古今東西の探偵小説を読み尽くした乱歩を驚かせよう、乱歩に褒めてもらおうという意識があったからこそではないか。
 横溝の自作の評価は、よく変わる。だがベストスリーは『本陣殺人事件』『獄門島』『悪魔の手毬唄』の三作が不動だ。そのなかでも、『悪魔の手毬唄』は自信がある。「宝石」1962年3月号に載ったインタビューでは<これが一番僕の作品では文章の嫌味もなくよく出来たと思っている。>と語っている。
 かつては横溝が「新青年」編集者として乱歩に『パノラマ島奇譚』と『陰獣』という傑作を書かせた。この二作は横溝がいたからこそ生まれたと言える。そして戦後は乱歩が編集者となり横溝に『悪魔の手毬唄』という最高傑作を書かせたのだ。


 著者はこの本の最初のほうで、「この二人はデビュー以来、『発表のあてもなく小説を書く』ことのない作家であった。雑誌や新聞、出版社からの執筆依頼があってから書く作家だった。当たり前のことのようだが、すべての作家がそういう境遇にいるわけではない」と書いておられます。

 とくに横溝正史さんに関しては、江戸川乱歩さんとの親交とともに、晩年には角川春樹さんによって、角川映画の原作として、「横溝ブーム」が起きるなど、作家としての実力はもちろん、「評価してくれる人」にも終始恵まれていた、ともいえそうです。
 
 著者は、この「推理小説の流れ」を引き継いだ松本清張さんと、横溝正史さんに確執があった、という噂についても、詳しく検証しています。
 お互いに個人的な怨恨はなかったし、巷間言われているような批判は実際には見つからなかったそうですが、横溝さんと松本清張さんの作風というか、推理小説というジャンルの発展と拡散というのは、日本の社会情勢の変化ともつながっているようで、興味深いものがありました。
 

 これを読むと、江戸川乱歩横溝正史という二人の巨匠の作品を、あらためて読み返してみたくなるのです。
 そして、二人だけではなく、日本に「探偵小説」を根付かせた、二人ほど有名ではない好事家たちの生きざまにも、思いを馳せずにはいられなくなりました。


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