琥珀色の戯言

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【読書感想】発達障害 生きづらさを抱える少数派の「種族」たち ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
発達障害とは、なんらかの機能や能力が劣っているのではありません。「病気」というよりも、「選好性の偏り」と考えるほうが、ずっと当事者の理解に役立ちます。「選好性」とは「~よりも~を優先する」という心の志向性です。たとえば「対人関係よりもこだわりを優先する」「じっとしていることは苦手だが、思い立ったらすぐに行動に移せる」…そんな視点から発達障害を理解し、無理に「ふつう」に合わせなければ、生活の支障は起こりにくくなります。発達障害の人の行動や心理、支援の方法までを解説。


 発達障害、という概念が広く知られるようになってきた一方で、僕は、すっきりしない感情も抱いていたのです。
 いろんな本や当事者(とされている人)のブログを読んで、「こういうものなのか」と思い、僕自身にも「発達障害的なところ」が多いと感じてきました。
 でも、僕は僕にしかなれないので、このくらいの「生きづらさ」や「他者とうまくかみ合わないところ」は、特別なものではないのかもしれない、とも思うのです。
 「人生イージーモード」なんて人は、そんなに会ったことがないし。
 まあ、それは、僕が、そういう天真爛漫な人を避けてきた、というのもあるかもしれませんが。

 この本は、『発達障害とはなにか』『発達障害の人が、ほかの多数の人と違うのは、どんな点にあるのか』を解読した本です。
 自分のことを「発達障害かもしれない」と感じている方や、家族・友人などに対して「この人は発達障害かもしれない」と感じることがあるという方は、ぜひこの本を読んでみてください。この本を読めば、発達障害の人特有の行動パターンと、その背景となっている発達障害の人の心理がわかってきます。「自分には(家族や友人には)どうしてほかの多数の人とはちょっと違うところがあるのか」ということを考えるための、ヒントになると思います。
 また、すでに発達障害と診断されている当事者の方や、発達障害のある子を育てている親御さん、その方々を支援している専門家のみなさんは、この本を、発達障害についてあらためて考えるための一冊として、読んでみてください。とくに、発達障害だということがわかって、本を何冊か読んでみたけれど、どうも納得できないところがあるという人には、この本をおすすめします。


 30年以上の臨床経験をもとに、著者は、発達障害と診断された人たちの実状や生活の様子について、かなり具体的に述べておられます。
 著者が何度も強調しているのは、発達障害の症状というのは教科書に載っているような典型例ではないことが多いし、正常と異常の2つに分かれるのではなく、グラデーションのさまざまな場所で、人は生きているのだ、ということなのです。

 発達障害の入門書や解説書はすでにたくさん出ていますが、この本では、私の長い臨床体験から、ほかの発達障害の本にはあまり書かれていないことをお話ししていきたいと思います。それは、発達障害のなかでも割合がかなり多いにもかかわらず、十分に理解されていない人たちの話です。
 発達障害には自閉スペクトラム症(以下ASD)や注意欠如・多動症(以下ADHD)などの種類がありますが(後掲「発達障害の基本的な特性」の図参照)、じつはそれらの種類のいくつかが重複している人が、かなり多くいらっしゃいます。そして、そうした重複例はかなり多いにもかかわらず、適切に理解され、対応されていないケースがよくみられるのです。
 ASDには「対人関係が苦手」で「こだわりが強い」という特徴があります。そしてADHDには「うっかりミスが多い」「落ち着きがない」という特徴がみられます。
「こだわりが強い」と「落ち着きがないこと」は、一見するとまじりあわない特徴のように思われます。しかし、それらが重複して現れるケースがよくあります。そして、一見正反対の特徴だからこそ、それらが重複すると、複雑な現れ方をして、十分に理解されなくなってしまうのです。
 こういった発達障害の重複をくわしく知っておくと、発達障害の人の行動や心理がより正確に、よりくわしくみえてきます。
 本人にとっては自己理解の、家族や支援者のみなさんにとっては当事者の行動理解のヒントになるのではないでしょうか。


 この本を読んでいると、なるほどなあ、と思うのと同時に、社会にうまく適応できない人は「病名」がついて、「じゃあしょうがないね」という見方がされるようになってきている一方で、僕のように、けっこうギリギリのところで、なんとか適応している(と自分では思っている)けれど、これを続けていけるかどうか自信を持てないくらいの「生きづらさ」の人間は、いちばん、割が合わないのではないか、とも思ってしまうんですよね。
 「どう頑張っても適応できない」人は、もっと苦しんでいるのかもしれないけれど。


 この本のなかで、著者は、こんな例を紹介しています。>>

ケース3:「報・連・相」が苦手な成人男性


 最後は成人男性のケースです。
 彼は高校の頃までとくに困ることがなかったのですが、大学に入ってから、いろいろとうまくいかなくなりました。履修届けを明日までに提出することを忘れて留年しそうになったり、興味のない講義を欠席し続けたことで卒業が危うくなったりと、さまざまな問題を起こしてしまったのです。
 結局、問題を起こしながらも、友人や大学の学生課のフォローを受けることで、致命的な問題は起こさずに済み、卒業することはできました。しかし、大学を出て就職してから、また別の問題が起こり始めました。
 職場が朝9時始業ということで、彼は8時55分頃に出勤するのですが、そうすると、すでに上司や同僚はみんな出勤していて、仕事を始めているのです。その職場には、始業の10分前には出勤し、仕事を始めるという暗黙の諒解がありました。彼も始業前には出てくるので、遅刻というわけではありませんが、「若手なのにいつも時間ギリギリに出社する」ということで、まわりの人たちには白い目で見られています。しかし、彼は職場での冷ややかな視線を気にせずに、8時55分頃に出勤することを続けています。
 ほかにも、職場での報告・連絡・相談が得意ではないということも、問題になっています。彼は、作業の進捗状況をこまめに人に伝えようと考えていません。割り当てられた仕事に集中することが重要だと考えています。そのため、指示を受けるとその仕事に一生懸命にとりくむのですが、その間の外部との相談内容や、作業自体の変更などを、上司や同僚に報告しないのです。仕事自体はできていても、コミュニケーションが十分ではないということで、問題視されています。
 本人は「時間を守っている」「仕事をこなしている」と考えているのですが、まわりの人には「いつも時間ギリギリ」で、「報・連・相がない」とみなされていて、職場での評価が下がっています。


 ああ、こういう人って、いるよなあ、というか、僕も他者からは、こんなふうに見えているのではなかろうか。
 本人は「時間を守っている」し、「仕事もちゃんとやっている」つもりなのに、周囲からは「厚かましい」とか「気配りが足りない」と思われている。
 著者はこの男性について、「ASDADHDの特性がどちらもみられる」、そして、「どうも発達障害のようではあるけれど、ASDともADHDとも言い切れないという状態」だと仰っています。
 実際、こういう人は、身の回りにも一人や二人はいると思うんですよ。そして、これまでは「マイペースで、付き合いづらいヤツ」と見なされていたのです。
 外見上は「発達障害」なのか「いいかげんなヤツ」なのか、判断がつきかねますよね。
 そもそも、その両者は、第三者が完璧に「診断」できるものなのか。
 個人的には、「新型うつ」と同じで、「これを『病気』だと定義してしまってよいのだろうか……」と疑問にはなります。
 もちろん、著者は「病気だからしょうがない。本人は頑張っているのにできないんだから」というところで思考停止するのではなくて、うまくやるための環境整備や工夫をして(ときには専門的な治療も)、それなりに「適応」したり、「生きやすい場所を選ぶ」ことを薦めておられるのですが。


 ちなみに、著者は、程度の軽い「発達障害」と「個性」との違いについても、この本のなかで言及しておられます。

 みなさんは、たとえば以下のような質問に、明確に答えられますか?


・いわゆる「オタク」とASはどう違うのか?
・うっかり屋とADHは違うのか?
・LD(学習障害)は、勉強が嫌いなだけではないのか?


 これらの疑問に対する著者の答えを読んで感じたのは、結局のところ、発達障害の診断というのは、検査データや画像診断のように、「正常」「異常」がはっきり分けられるものではないのだ、ということなんですよ(興味がある方は、ぜひ、この本を読んでみてください)。
 最大の分岐点は、「生きていくうえで、大きな困難となっているか」であり、それは、置かれた環境・状況によって異なるのです。
 本人の工夫によって、他者からは「発達障害的なもの」が見えない人もいれば、厳しい環境に自ら飛び込んで、こじらせてしまう人もいるのです。


 著者は、発達障害と診断される人たちは、「間違っている」のではなく、「少数派」なだけなのだ、と仰っています。
 そのひとつの例として、「黒ひげ危機一発(たるの穴を剣で刺していき、「あたり」の穴に刺すと、黒ひげの人形が飛び出してくる、というゲームです)」の遊び方の話が紹介されているのです。

 このゲームをするとき、一般の人たちは「誰が刺したときに人形が飛び出すだとうか」というワクワクとドキドキの共有を楽しんでいます。
 いっぽう、ASの人たちがこのゲームで遊ぶときには、違う楽しみ方をすることがあります。あるとき、こんなことがありました。
 ASの子どもたちが「黒ひげ危機一発」で遊んでいたときのことです。子どもたちは、ひとりずつ順番に剣を刺すのではなく、ひとりがたるをもって剣を刺し続け、人形が飛び出したら次の子に渡すというふうに、独特の遊び方をしていました。ひとりの子が「黒ひげ危機一発」を使っている間、ほかの子どもたちはそれぞれに好きなおもちゃで遊んでいて、自分の順番がくると、剣を刺していたのです。その子たちが興味をもったのはゲームのしくみであり、ドキドキする感情をほかの子と共有することには、興味はなかったのでしょう。
 じつは成人たちのグループでも、同じような出来事がありました。その人たちのときは、ゲームが何回か行われたところで、参加者のひとりからルール変更の提案がありました。「ひとりずつ人形が飛び出すまで剣を刺し続け、その回数の多さで競いあおう」という提案でした。この提案に、ほかの参加者たちも同意しました。
 そしてルールを変更したあと、ひとりずつ剣を刺し続けては、次の人にたるを渡すという形になりました。子どもたちのときと同じです。成人の場合は、誰かが剣を刺している間、ほかの人は本を読むなど、自分の好きなことをしていました。そして自分の番になるとルールの通りに剣を刺し、回数を記録して、次の人に渡すのでした。
 一般の人からみると、ひとりだけがたるをもって剣を刺し、そのまわりでほかの人たちがそれぞれ好きなことをしている光景は、楽しそうにみえないかもしれません。しかし、子どもたちも成人たちも、この遊び方を楽しんでいるようでした。実際に、子どもたちは「みんなで『黒ひげ危機一発』ゲームをして楽しかった!」と話していました。


 遊び方は違うけれど、それぞれ「黒ひげ危機一発」を楽しんでいるだけなのです。
 にもかかわらず、通常のルールを好む「多数派」たちは、「みんなと違う遊び方をする人たち」に、違和感を持ち、「そんな遊び方は変」だと考えてしまいがちなのです。
 優劣ではなくて、お互いのルールを尊重することができれば、少数派の「種族」たちは、もう少し生きやすくなる。
 少数派に優しい社会は、きっと、多数派にとっても、「レールにしがみつかなくても良い社会」のはず。
 でもまあ、仕事の現場では、「そこまで他者に寛容になれるほど、自分に余裕がない」のも事実ではありますよね……
 それを言い訳にしていては、いつまで経っても状況は変わらないのだろうけど。


発達障害グレーゾーン (扶桑社新書)

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