琥珀色の戯言

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【読書感想】国家と教養 ☆☆☆☆

国家と教養 (新潮新書)

国家と教養 (新潮新書)


Kindle版もあります。

国家と教養(新潮新書)

国家と教養(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
「教養」とは、世の中に溢れるいくつもの正しい「論理」の中から最適なものを選び出す「直感力」、そして「大局観」を与えてくれる力だ。では、教養を身につけるためにはどうしたら良いのか。教養の歴史を概観し、その効用と限界を明らかにしつつ、数学者らしい独創的な視点で「現代に相応しい教養」のあり方を提言する。大ベストセラー『国家の品格』の著者が放つ画期的教養論。


 あの人は教養がない、なんていう悪口はときどき耳にするのですが、あらためて考えてみると、「教養」とは何か、というのをわかりやすく他者に説明するのはかなり難しいのです。
 「知識がある」「勉強ができる」「頭の回転が速い」などの言葉よりも「教養がある」には、人格を含めての称賛を僕は感じます。
 あえていえば、「知識があって、品格もある」=「教養がある」かな、と。
 これはこれで、「じゃあ、品格って何?」と、堂々巡りになってしまうのですけど。


 この新書は、数学者の藤原正彦さんが、「歴史上、どんな資質が『教養』とみなされてきたのか」という変遷と、現代における「教養」とは、いったい何なのか、について述べている本なのです。


 率直に言うと、現在40代半ばで、戦後教育を受けてきた僕にとっては、「藤原正彦さんって、こんな『昔の日本は素晴らしかった論』を書く人だったのか……」と、首をかしげつつ読んだのも事実なのです。
 もっとも、それは僕のほうも「偏った教育」を受けてきたからなのかもしれませんが……


 著者は、ずっとうまくいっていて、日本の躍進を支えてきた「終身雇用」を基本とした日本型経営や株式持合いなどの日本型資本主義が、実際は「アメリカにとって都合が良いように、変えられてしまった」にもかかわらず、「時代に合わないから」と、グローバル・スタンダード」の新自由主義に置き換えられていったと述べています。

 かく言う私も、お人好しでは人後に落ちないだけに、2000年初頭に小泉竹中政権が誕生し暴走を始めるまで、何も気付いてはいませんでした。規制改革や自由競争の名の下に改革に次ぐ改革がなされましたが、世界との経済交流を活発化するため国際的な標準に合わせているだけなのだろう、くらいに思っていました。
 ところが、2000年代に入り欧米やアジアが力強い経済成長を続ける中で、我が国の経済だけが一向に浮揚しませんでした。世界から「日本病」などと言われていましたが、私もはっきりした理由が分らず狐につままれた状態でした。ただ、中小企業など弱者が追いこまれ、地方の駅前商店街が急激にシャッター通り化し、社会や人心が荒れてきたように感じ、大変な事態になっていると思い始めました。
 経済上の変化が、不思議と言おうか、当然と言おうか、人々のやさしさ、穏やかさ、思いやり、卑怯を憎む心、献身、他者への深い共感、と日本を日本たらしめてきた誇るべき情緒までをも蝕み始めたのです。世界でも最も金銭崇拝から遠い国だった我が国が、あっと言う間に、物事を金銭で評価するようになりました。弱肉強食のせちがらい競争評価の中で、人心はすさみ、法律に触れないことならなんでもやる、という風潮が我が国に広がっていきました。江戸時代までの日本では、町奉行のような裁判に携わる人を除き誰も法律など知りませんでした。「お天道様が見ている」や「キタナイことはスルナ」で秩序が保たれていた国でした。


 この新書の前半部は、「アメリカの陰謀でグローバルスタンダードに巻き込まれてしまった、美しい国、日本!」みたいな内容で、僕の眉は唾だらけになってしまいました。
 昔の日本がそんなに道徳的な国だったかというのは、このエントリを読んでいただければ、推して知るべきかと。


fujipon.hatenadiary.com


 僕はむしろ、「経済って大事だよな、景気がよくて暮らし向きがよくなり、将来に希望が持てた時代は、みんなおおらかで他者にも優しく振る舞えていたんだよな」と思ったんですよ。
 少なくとも、僕が知っている日本に関しては、経済的な「余裕」と「情緒」「おおらかさ」は比例しています。

 まあでも、こういう話を百田尚樹さんが書くと炎上するけれど、藤原正彦さんが書くと、なんとなく受け入れてしまう、という気持ちもわかるんですけどね。藤原さんはときおり自虐的なユーモアなどもまじえて書いておられて、やっぱり「巧い」し。


 僕には、「日本人論」「グローバリズム論」的なところよりも、「歴史上、『教養』と呼ばれてきたものの変遷」のほうが、興味深く読めました。

 二十世紀初め、マックス・ウェーバーは前掲書の結びの方でこう予言しました。
「(資本主義発展の最終段階では)精神のない専門人、心情のない享楽人、など無なる人々が、自分達は人間性のかつて達したことのない高みに登りつめた、と自惚れるだろう」
 その通りになりました。現代人は、科学技術や生産手段の進歩を人間性の進歩と勘違いしたまま、自惚れと傲慢に身を置くようになったからです。
 このような現代人は、生存競争に勝つためにも、生活を豊かにするためにも役立ちそうにない教養などは、前世紀までの遺物でありヒマ人の時間潰しと、見下すようになったのです。これが第一の理由です。
 それでは教養の衰退は、資本主義や文明の発達に伴う歴史的必然、というだけで片付けられるものでしょうか。そうではありません。日本ばかりか、文明の遅れた国、共産主義や独裁主義の国も含め、世界中に蔓延しているからです。
 衰退の理由の二つ目は世界のアメリカ化です。『アメリカの反知性主義』(ホーフスタッター著、田村哲夫訳、みすず書房)の第九章にはこう書かれています。「現代アメリカの小説ではすべからく、実業家たちはたいてい愚鈍で無教養、貪婪で傲慢、反動的で不道徳な存在として描かれている」。二十世紀アメリカでは、作家などの知識人はビジネスを知性の対極に位置するものととらえてきたのです。アメリカはビジネスの国ですから、知識人は大衆を知性なき者ととらえていたことになります。知識人と大衆の間には、深淵で不健全な断絶があったのです。アメリカの知識人がトランプ大統領に就任前から強い拒否感をもってきたのもこの流れの中です。
 アメリカにおいて、一般人が知性を軽視する傾向は、十九世紀の頃からありました。彼等は伝統とか知性、教養といったものを、「自分たちが自らの意志で捨てたヨーロッパの遺物」として忌避していたのです。むしろ、実用性のないものとして見下してさえいました。アメリカ人はそのようなヨーロッパ的なるものに決別し、新しい未来を築くための指針として、功利性、改良や発明、金銭などを据えたのです。これらはメイフラワー号に乗って最初にアメリカに入植したカルヴァン派の人々の発想、すなわちピューリタン的発想と完全に合致しています。


 おそらく、僕が生きてきた半世紀足らずの期間で、日本は(おそらく世界も)「アメリカ化」してきたのだと思います。
 僕が若いころには「このくらいの古典は読んでおかないと恥ずかしい」なんていう大人が周りに少なからずいたのですが、最近は「古典は読んでもあまり役に立たない」と言う人が増えました。
 「教養」よりも、「実利」や「成果を出すこと」が重視されてもいます。
 ただ、それが悪いことなのか、単なる歴史の必然的な変化なのかは、なんとも言えません。
 アメリカは、世界中を「アメリカ化」することに成功した一方で、「アメリカ化した中国」のような、強大なライバルを生むことにもなりました。


 著者は、「現代の教養」について、こう述べています。

 歴史や文明や文化に関する本を読むことで、世界史の中における現代の立ち位置、日本の立ち位置、そして究極的には自分の立ち位置が少しずつはっきりしてきます。立ち位置が確立されないと毎日見聞する社会現象を大局的に見ることができません。
 本を読まない人間は井の中の蛙と同じになります。この蛙にとって、世界は井戸の底と上に見える小さな丸い空だけです。井戸の外を一切知らなくても蛙は幸せな一生を終えることができるのかも知れません。しかし私は、この蛙に広い広い世界を見せてやりたくてたまりません。実体験だけで満足する人は、一度しかない人生をじっと井戸の底で暮らすようなものです。
 こうして実体験は疑似体験により補完され、健全な知識と情緒と形、すなわちバランスのとれた知情形が身につきます。これこそがこれからの教養であり、あらゆる判断における価値基準となります。別の言葉で言えば、あらゆる判断における座標軸が形作られてくるのです。哲学を中心とした「生とは何か」を問うのがかつての教養で、「いかに生きるか」を問うのがこれからの教養と言ってもよいかも知れません。


 人間は論理的に考えるだけでは、物事の本質に到達することは決してできません。『国家の品格』で詳述しましたように、実生活において、論理などというものは吹けば飛ぶようなものです。人を殺してはいけない論理も、人を殺してよい論理も、少しでも頭のいい人ならいくらでも見つけることができます。状況や立場や視点によっていくらでも変わりうる、変幻自在な論理などに頼ることなく、一刀両断で真偽、善悪、美醜を判断できる座標軸がぜひとも必要な所以です。教養という座標軸のない論理は自己正当化に過ぎず、座標軸のない判断は根無し草のように頼りないものです。
 ありとあらゆる論理には出発点が必要で、この出発点の選択が決定的に重要です。これが間違っていれば、後の論理が正しければ正しいほど結論はとんでもないものとなるからです。教養すなわち知情形に欠けた人は、この出発点を正しく選べないのです。


 教養なき論理ほど危険なものはない、ということなのでしょうね、きっと。
 そして、現代は、まさにこの「出発点が間違っているのに、正しい論理でとんでもない結論を出してしまう人」がいて、その論理の正しさだけに魅了され、引きずられてしまう人も大勢いるのです。
 「日本と日本人はスゴイ論」みたいなのも、そのひとつではあるのですが。


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