琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

【読書感想】日本の同時代小説 ☆☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
この五〇年、日本の作家は何を書き、読者は何を読んできたか。「政治の季節」の終焉。ポストモダン文学の時代。メディア環境の激変。格差社会の到来と大震災―。「大文字の文学は終わった」と言われても、小説はたえず書き継がれ、読み続けられてきた。あなたが読んだ本もきっとある!ついに出た、みんなの同時代文学史


 斎藤美奈子さん、相変わらず、すごいというか、気が遠くなるような仕事をされているなあ、と思いながら読みました。
 斎藤さんは、明治以降の日本の「小説史」を俯瞰する内容の本が何冊も出ているけれど、岩波新書中村光夫著『日本の近代小説』(1954)、『日本の現代小説』(1968)をはじめとして、いずれも「1960年代で話が終わってしまう」ことを指摘しています。
 その理由のひとつとして、「白樺派」「新感覚派」というような作家のグルーピングが難しくなったことを挙げておられますが、そろそろ誰かが同時代の文学史をまとめてもいい頃、だということで、この本を上梓することにしたそうです。

 カバーする範囲は1960年代から2010年代までの約60年。ただし、50年前とは状況がちがうので、『日本の現代小説』とも類書とも、本書はかなり趣を異にします。
 第一に、作家ではなく、作品を中心に考えました。第二に、純文学にいちおう重点を置きつつも、エンターテインメントやノンフィクションも対象に含めました。


 この本のなかでは、ミステリやSF、ケータイ小説にまで、斎藤さんは言及しておられます。これだけの時代を一冊にまとめているので、それぞれの作品に割かれた分量は少ないのですが、「純文学」にこだわらず、その時代に話題になった本を積極的に採りあげておられるのです。

 大衆文学のある種の作品には、このころから「中間小説」という呼称が使われるようになります。純文学と大衆文学の中間に位置する文学だから「中間」小説。
 純文学と大衆文学(エンターテインメント)の差は、今日では発表媒体の差をして認識されています。「群像」「新潮」「文學界」「文藝」「すばる」などの文芸誌に載るのが純文学。「小説現代」「オール讀物」「小説新潮」「小説すばる」などの中間小説誌に載るのが、かつては大衆文学とか中間小説とか呼ばれたエンターテインメント。観点を変えると、芥川賞の対象となるのが純文学、直木賞の対象となるのがエンターテインメントです。
 では今日、両者の間にはどんな質的な差があるのか。そんなものは発表媒体の差だけだという人もいますが、やはり差はあると私は考えます。
 小説は「何を(WHAT)いかに(HOW)書くか」が問われるジャンルです。その伝でいくと「HOW(形式)」に力点があるのが純文学、「WHAT(内容)」に力点があるのがエンターテインメント。むろんその境界線は曖昧ですが、さきに紹介した、坪内逍遥当世書生気質二葉亭四迷浮雲』の文体の差を思い出してください。これが小説の「形式」に属する問題です。大衆作家は「一段下」に見られてきたことへの、純文学作家にはエンタメ小説に比べて「売れない」ことへの不満がくすぶっていたりもしますが、それは些末な問題でしょう。
 政治離れが進んだ60年代は、古いタイプの純文学、別言するとヘタレな知識人予備軍、ヤワなインテリの文学がいよいよ通用しなくなった時代でした。純文学がああだ、プロレタリア文学がどうだという批評家たちの論争をよそに、純文学やプロレタリア文学を支えてきた「知識人」の権威は失効しかけていた。
 理由はいろいろありましょう。60年安保闘争の敗北を期に、政治をリードした「進歩的知識人」の群像が解体したこと。進学率が上がって、大卒などの高学歴者が珍しい存在ではなくなったこと。ジャーナリズムの発展やテレビジョンの登場で、みんなが情報通になったこと。大衆消費社会の進行は、知識人/大衆という階層の解体をいやでも促進させます。
 もうひとつ、知識人の権威を考えるうえで意外に重要なのは、多感な少年少女期に敗戦を迎えた昭和一ケタ世代(1930年代生まれ)が大人になったことです。


この本の第1章のタイトルは「1960年代 知識人の凋落」です。
読み進めていくと、この半世紀のあいだのほとんどの期間、知識人は凋落し続けているのではないか、とも思われるのですが。


 この半世紀に読まれた本を辿っていくと、時代による変化とともに、人々が好む小説には「典型」というか、一定の期間ごとにあわわれるサイクルみたいなものがあるのです。

 80年代に話を戻します。
 というように、すでに絶滅寸前だった私小説は、しかし80年代にもしぶとく生き延びました。ただし、書き手とスタイルを変えて、です。
 黒柳徹子が自らの子ども時代をつづった『窓ぎわのトットちゃん』(1981)、芸能界引退をひかえた山口百恵が自らの生い立ちを明かした『蒼い時』(1981)、元ヤクザを標榜する安部譲二が府中刑務所で服役した頃の体験をおもしろおかしくつづった『塀の中の懲りない面々』(1986)などです。いずれもベストセラーになりました。
 通常、これらは「自伝的エッセイ」に分類されますが、自らの人生を語った書として私小説の流れを汲んでいるのは事実でしょう。『窓ぎわのトットちゃん』『蒼い時』はタレント本の歴史を変えたといわれます。それまでのタレント本は「きれいごと」に終始し、専業のライターが代筆したファンのための本でした。しかし、『窓ぎわのトットちゃん』は児童文学に近いスタイルで戦時中の奇跡のような学校生活を描いた本格的な「体験型ノンフィクション」でしたし、『蒼い時』も自らの手で出生から引退までの半生を赤裸々につづった自伝です。
 『蒼い時』のヒットは、タレントの自伝というジャンルを形成し、『窓ぎわのトットちゃん』『塀の中の懲りない面々』は有名無名を問わず「特異な体験」を持つ人に自伝を書かせる道を拓きます。ここにいたって私小説は、プロからアマチュアの手に移ったのです。
 その伝でも「80年代的な私小説」として特筆されるのは『さらば国分寺書店のオババ』(1979)でデビューした椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ』(1981~82)でしょう。


 斎藤さんは「椎名誠(『岳物語』)が国語の教科書に載るなど、当時は誰も想像できなかった」と仰っていますが、確かにそうだよなあ、と。
 現在は、ブログの影響などもあって、「たぶん、身の回りにいても気が付かないような『実はけっこう普通じゃない体験をしている人』の自伝」も少なからず目にするようになりました。もっとも、これは以前から自費出版などでたくさん出てはいたのが、あらためて注目されるようになったのかもしれません。


 斎藤さんは、この本のなかで、作品を列挙しながらも、ときおり、辛辣な評価も加えています。


 村上春樹1Q84』について。

 ジョージ・オーウェル1984』(原著1949)を意識しつつ、オウム真理教事件や9・11への連想を誘いつつ進む物語。ではありますが、天吾とふかえりの物語は広義の「少女小説」の、青豆と柳屋敷の物語は「殺人(テロ)小説」のトレンドに乗っています。DV男は処刑すればいいという緒方夫人や青豆の認識は、復讐の仕方としては最低最悪で(現実を見誤るという点では有害ですらあります)、村上春樹がいかにこうした問題に不注意かを示しているのですが、注目すべきは、ここに「テロを肯定する思想」が流れていることです。殺人が日常茶飯事の村上龍じゃあるまいし、通常の意味では連続殺人犯である女性(青豆)を主人公にするなど、かつての村上春樹ではあり得ないことだった。


 村上春樹さんが、ずっと「かつての村上春樹」であり続けなければならない、ということもないのでしょうけど、こう言われてみれば、たしかに「テロを肯定する(せざるをえなくなった)村上春樹」というふうにも読めますよね。僕自身は、必ずしも青豆が正義として描かれていたわけではない、と思うのだけれども(ただし、これは「ファンの贔屓目」かもしれません)。


 こんなふうに、ポイントとなる作品については、けっこう斎藤さんの主観的な批評もされていて、そこが読みどころでもあるのです。
 読んでいて、「この作品、タイトルしか知らなかったけれど、こんな重要な作品だったのか、読んでみなければ!」と思った小説もけっこうありました。

 2000~2010年代の文学シーンは、私小説に飽き飽きしていた批評家たちが「純文学に未来はあるのか」で侃々諤々の論争を繰り広げていた1950~60年代の文学界と似たところがあります。はたして、では21世紀の文学に未来はあるのでしょうか。


 この本を読んで、「ひとり一派」で、昔のような「傾向」もなくなってしまったはずの「同時代小説」にも、それぞれの時代の特徴や受け継がれているものがあるのだな、と感じました。
 それなりに小説を読んでいる人向けではありますが、興味がある人にとっては読みごたえ十分のテキストであり、ブックガイドだと思います。


現代世界の十大小説 (impala e-books)

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