琥珀色の戯言

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【読書感想】日本ノンフィクション史 - ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで ☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
「非」フィクションとして出発したノンフィクション。本書は戦中の記録文学から、戦後の社会派ルポルタージュ、週刊誌ジャーナリズム、『世界ノンフィクション全集』を経て、七〇年代に沢木耕太郎の登場で自立した日本のノンフィクション史を通観。八〇年代以降、全盛期の雑誌ジャーナリズムを支えた職業ライターに代わるアカデミシャンの活躍をも追って、「物語るジャーナリズム」のゆくえと可能性をさぐる。


 僕は「ノンフィクション」と呼ばれるジャンルの本が好きなのですが、あらためて考えてみると、「ノンフィクション」って、言葉だけみれば「フィクション(虚構)じゃない」っていう意味ですよね。
 しかし、そうなると、「ノンフィクション」の守備範囲は、あまりに広すぎるのではないか?
 そもそも、「ノンフィクション」「ルポルタージュ」「ドキュメンタリー」の違いは何なのか?


 そんなことを考えながら、この新書を読み始めたのです。
 この本の冒頭で、けっこう話題になった「石井光太論争」というのが紹介されています。
 ノンフィクション作家、石井光太さんは、なぜこんなに作品を量産できるのか、ドラマチックな場面に出会えるのか、書かれているのは、石井さんが「本当に取材し、見聞きしたこと」なのか?
 たしかに、「対象に徹底的に取材したノンフィクション」というのは、そんなにたくさん書けるようなものではないですよね。
 また、冒険ノンフィクション作家・角幡唯介さんが「行為と表現」というエッセイに書いた文章も紹介されています。

 ノンフィクションを成立させる場合の本当の難しさは、実は文章を書く時にノンフィクション性を成立させることにあるのではなく、むしろ行為をしている時にノンフィクション性を成立させることにあるのだ。
 例えば、文章を書くことを前提に旅をする場合、その旅は文章化しようという意図の影響を受けるため、旅という行為そのものがフィクション、つまり作り物になってしまう可能性がある。ライターという表現者としての立場で考えると、行為の最中に発生する面白い場面や出来事はどれもこれも作品のためのネタになる。


 たしかにそうだよなあ、と。
 旅についてのノンフィクションなら、普通は避けるような危険な行為やめんどくさい人との接触が、嬉々として語られがちです。「ネタになる」から。
 その人がプライベートな旅行ではやらないことをやる、というのは、「演じている」とも言えるのです。
 そして、「取材だから」という態度は、接する相手の反応にも影響を与えるのです。
 ただし、この本のなかには、こういうジレンマに対する、角幡さんが出した「ひとつの答え」も紹介されているんですけどね。

 そうした事情を踏まえて、本書ではノンフィクションの歴史を相手にしつつも、迂回的なアプローチをしようと思う。まずひとつ目として、本書ではノンフィクションとフィクションの境界を決定するような、つまりはノンフィクションとは何かを個々の作品を相手取って積極的かつ具体的に定義するような本誌主義的なアプローチをしない。そうした神学論争に与することなく、作品より先にノンフィクションという概念がどのように成立したか、それをたどり直してゆく。
 おそらく鶏と卵の先行関係が決定できないように、ノンフィクションという名前がそれに見合う作品の登場と同時並行的に人口に膾炙していったのだ。しかし、その名前が確立された時点で、その名前でしか呼べないものが表現活動の世界には登場していた。そうして視界が急に開けるような事態はどのように起きたのか。
 興味を持って本文を読み始めていただきたいので、初めに内容を予告しておくならば、歴史考証をしてみると、大方の人が思うよりもノンフィクションは「若い」。せいぜい1970年代までしか遡れない概念である。それ以前の作品を「ノンフィクション」に区するのは後世からの再配置である。


 「ノンフィクション」好きには大変興味深い内容だったのですが、率直に言うと、著者の文章は、かなりまわりくどくて読みづらかったんですよね。
 ノンフィクションにも言えることなのでしょうけど、「わかりやすくする」ことを優先しすぎると、失われてしまうディテールがある、というのがあるのは理解できます。
 でも、この本の場合、わざと理解しづらく書いているのだろうか、という感じさえしました。


 ノンフィクションという言葉が使われるようになる前、1930年代の日中戦争の従軍記に対して「ルポルタージュ」が使われていたそうです。
 そこでも、検閲などがあるなかで、どこまで「戦場で実際に起こったこと」を書くか、あるいは、何と書かない(書けない)か、というせめぎ合いがあったのです。


 しかしこの「ルポルタージュ」とか「ノンフィクション」というのは、「事実」として発表されるだけに、かなり危険な面があるのです。

 1953年に蒼樹社から刊行された『日本の貞操——外国兵に犯された女性たちの手記』という「ルポルタージュ」が、ベストセラーとなりました。

 京都の叔母の家に身を寄せていた年子は1948年の8月10日に日本人巡査によって家から連れだされ、そのまま米兵に輪姦される。叔母の家にいにくくなって東京に出た年子は、他に働くあてもなく、占領軍専用のダンスホールに職を得たが、その仕事の実態は娼婦であった。米兵の情婦となった年子は、米兵たちが若い日本人女性を強姦するのを手伝うまでになる。そんな年子の身体にやがて癌が発見され、余命いくばくもない時期に、自分の経験を告白するという設定だ。
 占領軍によってモノ扱いされた女性の告白記は刊行1年以内に17刷を数える大ベストセラーになり、同趣向の「パンパンもの」の刊行がその後も相次いだ。しかし、当時の蒼樹社社員などに聞き取りを行ったマイク・モラスキーはこの「告白」が売春婦自身によるものでも、それどころか女性によるものでもなく、「水野浩」という男性の手によるものであったことを『占領の記憶/記憶の占領』の中で暴露している。モラスキーによれば水野は日本共産党関係者で、横須賀の基地で働いて米軍関係の情報を集め、あた「パンパンの世界」にも通じていた。蒼樹社も共産党と近い出版社で、この本の刊行前に共産党の意向を尋ねていたという。この本の本当の語り手は物語の外にいる「水野」であり、米軍への憎悪をたきつける物語を語った。そしてその物語は体験記ではなく創作であり、女性を作中の語り手とすることで扇情的な描写方法を選んでいる。
 この『日本の貞操』の好調な販売に気をよくした蒼樹社は『続・日本の貞操』も刊行している。こちらは体験記や取材記ではなく、グラフや図版を盛り込んだ内容で、後に週刊誌記者として活躍し「ノストラダムスの大予言」で知られることになる五島勉が編者としてクレジットされている。


 「ノンフィクションのふりをしたフィクション」というのは、けっして珍しいものではないのです。
 「捏造体験記」みたいなのは、古今東西、繰り返し生まれています。
 こういう苦い経験があったからこそ「石井光太さんへの厳しい姿勢」がノンフィクション作家たちのあいだにもみられたのかもしれません。
 しかし、「フィクション」と「ノンフィクション」との境界というのは難しい。
 なかったことをあったように書くことは不誠実ですが、逆に、実際にあったことを「そのまま書けない」ために、「フィクション」として上梓する、というやりかたも生まれてきました。


 1960年代からは、テレビでの「ノンフィクション番組」がつくられるようになってくるのです。

 こうして先鋭的な告発を続けた『ノンフィクション劇場』は、しかし、壁にぶつかる。1965年5月9日の午後10時15分から45分まで『ベトナム海兵大隊戦記第一部』が放映される。その翌日、内閣官房長官であった橋本登美三郎から日本テレビの清水輿七郎社長宛に電話がかかった。
 番組では牛山自身を含めたスタッフに現地滞在中の戦争カメラマンの石川文洋が加わり、ビンデン省で掃討作戦を展開していた南ベトナム政府軍に従軍取材した。石川のカメラはベトコン容疑者に対する拷問や殺害シーンを映し出した。その中で南ベトナム政府軍の兵士に射殺され、首を切られたベトナム少年のシーンが問題になった。
 実はこうした事態が起きることを警戒していた。鈴木前掲書によれば「少年の首切り」シーンを含む番組も放送に際して牛山は異例の事前試写会を局内で開き、『読売新聞』論説委員の高木健夫、『朝日新聞』のサイゴン特派員だった波多野宏一らに意見を聞いている。参加者の意見は「ぜひ放送すべきだ」で一致した。高木は生首が映ることについて「へどを吐きたくなるようなシーンだが、こういうものを放送しなくて済む時代ならともかく、現代は放送すべき時代だ」と述べた。
 こうした第三者の意見に背を押されるかたちで牛山は放送を断行。その夜だけで30本近くの電話が局にかかるなど大きな反響を呼んだ。中には「自分は中国で同じような残酷行為をした」という、元陸軍大尉を名乗る視聴者からの声も含まれていたという。


 現在の基準では、この少年のシーンがテレビで流されることはありませんが、ネットでは無修正の映像や画像が拡散されているのも事実です。
 情報を制限するのが難しい時代というのは、本当に幸福なのかどうか。


 1960年から刊行された『世界ノンフィクション全集』(筑摩書房)の功罪や大宅壮一さんが「ノンフィクション」に与えた影響、そして、沢木耕太郎さんの活躍など、「日本のノンフィクション史」が、世界のノンフィクションの動向もあわせて紹介されており、たしかに、これまでになかった「ノンフィクション通史」といえるものだと思います。
 個々の作家・作品についての各論というよりは、全体の流れを重視して書かれているのです。


 結局のところ、誰かが何かを目的をもって書くという時点で、「主観を完全に取り除く」ことは不可能なのです。
 そんななかで、「ノンフィクション」は、どのように他者に、そして自らに問いかけてきたのか?
 本好きには、大変興味深い内容の新書だと思います。
 ただ、やっぱりちょっと、読みにくいんだよなあ。


極夜行 (文春e-book)

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