琥珀色の戯言

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【読書感想】三谷幸喜のありふれた生活15 おいしい時間 ☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
超多忙な人気脚本家の至福のひと時。父子でウルトラマン観賞し、コロッケそばで満たされ、息子の弁当作りに熱中…。五十代半ばを過ぎて、気を許すと、すぐに安定志向へ。こんなことではいけないと、新作舞台に俳優復帰、苦手なトークショーも解禁!チャレンジの日々に、エッセーも新展開へ?高校時代の著者本人が数学の授業中に描きためた似顔絵「内閣総理大臣大会」他を収録。


 三谷幸喜さんのエッセイ『ありふれた生活』の第15集。
 朝日新聞連載の2016年5月19日~17年10月26日掲載分をまとめたものです。


 この本は、出川哲郎さんの話で始まります。

 今、出川哲郎さんが面白い。昔から注目していたけど、最近になって、その魅力が爆発しているように感じる。アクの強さが年齢を重ねるに従って、次第に薄れ(僕らが慣れただけかもしれないが)、最近は、人間的深みさえ感じられる。でも決して落ち着いていないところが、またいい。
 彼の凄いところは、例えば、出川さんが役者として、ドラマや映画に出ているところを想像してみると分かる。まったくイメージが湧かない。大河ドラマで戦国武将を演じている出川さんを思い描いて欲しい。たとえ武田信玄を大真面目に演じたとしても、僕らはそこに、信玄になりきれずに悪戦苦闘する「出川哲郎」を見ることしかできない。
 これは凄いことである。なぜなら、こんな人、他にいないから。江頭2:50さんだって、「ダチョウ倶楽部」の0上島竜兵さんだって、上手い下手は置いといて、役になりきる姿は、なんとなく想像は出来る。しかし出川さんは無理。彼はあくまでもバラエティーの国の住人なのである。そこでしか生きられない。日本でテレビ放送が始まって六十年以上過ぎ、バラエティー番組の歴史もそれと同じだけ続いている中で、出川哲郎さんは、ひょっとしたら、初めて誕生した純正バラエティータレントなのかもしれない。


 こういう視点は、「演じてもらう側」の三谷幸喜さんならでは、だと思うんですよ。
 そうか、三谷さんには、出川哲郎さんは、そんなふうに見えているのか。
 言われてみれば、どんなドラマでも、出川さんが真面目に演じようとすればするほど、コントのようになってしまう光景が想像できるんですよね。
 人気芸人ともなれば、大概の人は、ドラマや他のジャンルでも「仕事」をしているものなのですが、出川さんに関しては、その姿が思い浮かばない。
 ちなみに、三谷さんは、実際に出川さんに(この原稿を書いた時点では)会ったことはないそうなので、直接会ったら、なんらかの才能を見出す可能性もないとは言えないのですが。


 このエッセイ集を読んでいると、ときどき、三谷さんが「いまだからこそ語れること」をサラリと書いていることがあって、「これはあのドラマのことだな」と、少し長生きしていて得tしたような気分になることがあります。

 ネットユーザーの間で生まれた「ナレ死」という言葉。大河ドラマ真田丸」では、登場人物たちの死を直接描かず、ナレーションで伝えるケースが多く、そこからこのフレーズが生まれた。かの織田信長でさえもドラマの本筋とは関係ないので、その死はあっさり語りで済ませてしまった。
 本来、僕は登場人物の死を描くのが好きではない。彼らは言ってみれば、自分の分身のようなもの。最期の瞬間は出来れば見たくないのである。今回、その瞬間を丹念に描写したのは、秀吉と真田昌幸の二人だけ。
 俳優さんの中には、死ぬシーンを演じたがる人も多い。入れ込んだ役だと、どうしても劇中で死んで役を簡潔させたいと思うようだ。その気持ち、分からないでもない。
 脚本家としてまだ駆け出しだった頃、こんなことがあった。あるドラマの最終回、ラストシーンの撮影現場から連絡が入った。主演俳優が死にたがっているので、急遽ホンを変えたい、とプロデューサー。僕はその時、自分の劇団の公演中で、劇場のロビーにいた。脚本家としては当然反対した。台本では、主人公は一人夜の街に去っていくシーンで終わっている。しかし、その俳優さんが全身全霊を込めて役に入り込んでいたことも分かっていた。
 そこで、死ぬのは構わないので、どういう形で最期を迎えるかは、僕に考えさせて欲しいとお願いした。現場では既に撮影準備が整い、主演俳優も死ぬ気満々でいるらしい。僕は五分ほど考え、もっとも劇的な最期の状況を思いついて、プロデューサーに伝えた。結果的には、とてもいいラストになったので、主演俳優さんには感謝している。もうちょっと早く言ってくれれば、さらにいいアイデアが浮かんだかもしれないが。


 これはきっと、「あのドラマ」のことだろうな、と、僕は思いながら読んでいたのです。
(証拠はないので、そのドラマの名前を挙げるのはやめておきます)
 最終回のラストで、主人公の医者が唐突に死んで(というか、確実に死んだという描写はないのですが)しまうシーンは、けっこう衝撃的でした。
 えっ、なんでこうなるの?と当時は狐につままれたような気分だったのですが、こんな経緯で「五分で考えられたもの」だったのか……
 そりゃ、唐突なわけですよね。
 でも、たしかに、その「なんでいきなりこうなるの?」という不協和音みたいなものが、あのドラマを記憶に残るものにしたのも事実ではあるのでしょう。
 そういえば、『真田丸』でも、堺雅人さん演じる真田信繁が死ぬ場面は直接は描かれていませんでした。
 それは、演出上の効果を狙ってというよりは、三谷さんが「登場人物の死を描くのが好きではないから」なんですね。


 三谷さんは、大人の俳優たちが十歳の子どもを演じる、舞台「子供の事情」について、こんな話をされています。

 僕が彼らにお願いしたのはひとつだけだった。子供を演じる上で意識して欲しいのは、「子供っぽく」しないということ。
 取材でいくつかの小学校を訪れた。そこで出会った四年生たちは、僕が考えていた以上に大人だった。彼らは皆、礼儀正しかったし、落ち着いてみえた。誰もがそれぞれに十年分の人生を背負って生きていた。しかし当然ながら、幼さも残っている。むしろ大人のように振る舞えば振る舞うほど、彼らの幼さは際立つように思えた。彼らは決して小さな大人ではなかった。大人の真似をしているだけなのだ。それに気づいた時、今回の芝居の方向性が見えた。
 酔っぱらいの演技をする時、下手な役者は左右にふらふら歩く芝居をする。しかしそれでは酔っ払いには見えない。必要なのは、まっすぐ歩こうとする芝居である。まっすぐ進みたいのに進めない。その部分を演じるから、酔っ払いに見えるのである。
 それと同じ理屈だと思った。子供を演じるからといって、「子供っぽく」動くだけではダメなのである。大人のように振る舞うからこそ、子供の部分が透けて見える。そこを強調することで「子供」を表現してみよう。「子供っぽく」ではなく「大人っぽく」演じて欲しい。それが役者さんにお願いした、僕の唯一の「演出プラン」だった。


 脚本家・演出家のものの見かたがわかるのと同時に、三谷さんの人間を観察する力がうかがえる文章だと思います。
 「演じる」というのは、こういうことを考えてやらなければならないのか、と感心するばかりです。
 言われてみれば、僕も十歳の頃は、「(大人がイメージする)子供っぽいことをやる子供」ではなく、「大人のように振る舞っている子供」でした。


 この「15」は、三谷さんの私生活についての言及は少なめで、脚本家・演出家としての仕事について書かれた分量が多くありました。
 読みながら、三谷さんも、いろんなことが落ち着いてきたのかな、などと、僕は考えていたんですよね。


振り返れば奴がいる DVD-BOX

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いらつく二人

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