琥珀色の戯言

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【読書感想】古賀史健がまとめた糸井重里のこと。 ☆☆☆☆☆

古賀史健がまとめた糸井重里のこと。 (ほぼ日文庫)

古賀史健がまとめた糸井重里のこと。 (ほぼ日文庫)

内容紹介
コピーライター、糸井重里の半生をまとめた「自伝のようなもの」。
国際的ベストセラー『嫌われる勇気』を手がけた古賀史健に導かれ、
糸井重里が気持ちよく語った、幼少期から「ほぼ日」上場に至るまで。
キューライスさんのポップな装画をあしらって、手軽な文庫本にしました。


 この本、書店で見つけて手にとったとき、レジに持っていくのをちょっとためらったんですよね。
 何これ、薄い……こんなに薄い文庫本なのに、定価740円+税って、ぼったくりじゃない?
 まあでも、このくらいのボリュームのほうが、サッと読んで感想書くにはラクで良いかもしれないな、というようなことも考えつつ購入し、眠れない夜に読み始めたのです。


 面白かった、本当に面白かった。
 僕にとっての糸井重里さんは、「おいしい生活。」と「巨人ファン」と『TOKIO』と「徳川埋蔵金」と『MOTHER』の人だったのですが、この本のなかでは、そのすべてが語られているわけではありません。
 でも、なんというか、僕は糸井さんの話を読みながら、もう鬼籍に入っている、糸井さんより少しだけ年上の自分の父親のことを思い出しながら、この本を読んでいました。
 この本のなかには、聞き手としての古賀史健さんはまったく顔を出してはいないのだけれど、それだけになおさら、「こうして糸井さんが居酒屋の隣の席で誰に語るともなく語っているような空気感」を、これだけのけっして(糸井さんが成し遂げてきたことに比べれば)多いとはいえない分量のことばに封じ込めた力量に感動すらしてしまうのです。
 糸井さんは、お酒はほとんど飲めないそうなのですが。
 この本を読むと、大概の人は、糸井重里が好きになると思うんですよ。本当に「ずるい本」でもある。


 糸井さんは「重里(しげさと)」という名前の由来について、こう仰っています。

 僕が生まれるちょっと前、それこそ戦後間もないころ、スタンダールの『赤と黒』という小説がベストセラーになったんですね。そして、この小説の主人公がジュリアン・ソレルという男だった。『赤と黒』といえば、野心に満ちた激しい青年の、立身出世や没落を描いた物語ですよ。そんなジュリアン・ソレルにあこがれて父親は、息子に「重里」の名前をつけた。つまり、父親のなかで重里は、音読みの「ジュリ」なんです。
 若気の至りじゃないけれど、本人としては恥ずかしかったみたいですね。


 糸井さんのお父さんは司法書士として働いていたそうなのですが、糸井家は糸井さんが物心ついたときには父子家庭で、糸井さんはずっと「普通へのあこがれ」があったと仰っています。
 当時の田舎では「母子家庭」よりも、さらに珍しかった「父子家庭」であり、お母さんとも死別ではなく離別だった、ということで、糸井さんには「ずっと、なんでだよ、という気持ちはあった」のです。
 この時代の話を読んで、のちに糸井さんがつくった『MOTHER』での主人公とお父さんとのやりとりを僕は思い出しました(この本のなかでも、『MOTHER』というゲームに、糸井さんが「父親に対して」また、「父親として」こめた想いが語られています)。


 大学時代に学生運動に傾倒していたものの、結局、幻滅して離れてしまったことについて。

 内側から見た学生運動は、いまで言うブラック企業と同じ構図ですよね。
 つまり、「おおきな理想を達成するためには、多少の犠牲は厭わない」という発想が、組織全体を覆っている。デモ隊の先頭で血を流す人ほど認められるし、うしろにいた人は彼らに借りができたような気になって、今度は自分が先頭に立とうとする。やがてお互いが貸し借りの鎖でつながっていって、逃げられなくなっていく。
 そして段々と「ことば」が重くなってくるんです。
 おおきな、重たいことばばかりが、まわりを飛び交うようになる。
 なぜかというと、「命」が軽いからですよ。人は「命」を軽く扱おうとするとき、それをごまかすために「ことば」を重くするんです。実際そのころには、機動隊との衝突が激しくなって、いつも「死」が近いところにありましたし、内ゲバもはじまっていましたしね。
 そういうなかにいて、少しずつ「ああ、おれには無理だな」と思うようになりました。
 最大の理由は、先輩たちを尊敬できなくなったことです。それこそ「横暴な国家権力に対抗して、毅然と振る舞う若者たち」がぼくのあこがれだったわけだけれど、見たくないところをいっぱい見ちゃった。自分たちのカツ丼代を、カンパで集めた「闘争資金」から払っていたりとか、そういうみみっちいところでもね。群馬から出てきた純朴な男の子からすると、それだけでもショックですよ。
 これはコピーライターになったあともそうだけれど、ぼくは「みっともないこと」が、ほんとうに苦手なんです。自分はそれをしたくないし、それをやっている仲間や先輩を見たくない。


 この本でも紹介されているのですが、糸井さんは、2011年3月11日の東日本大震災のあと、同年4月に、こんなツイートをされています。

「ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、『よりスキャンダラスでないほう』を選びます。『より脅かして無い方』を選びます。『より正義を語らないほう』を選びます。『より失礼でないほう』を選びます。そして『よりユーモアのあるほう』を選びます」


 学生時代の「ことばが重くなり、命が軽くなっていく現場」での経験もあって、糸井さんは、これを呟いたのだな、と感慨深いものがありました。
 インターネットって、「ことばが重くなりやすい」だけに、僕もこれを自分に言い聞かせておこうと考えているのです。
 発言する側としても、言葉を聞く側としても。


 この本のなかで、とくに印象的だったのは、任天堂の社長だった故・岩田聡さんとの交流を語っておられるところでした。
 『MOTHER2』の開発が遅れに遅れ、糸井さんが完全に行き詰まってしまった際に、任天堂の山内社長から紹介されたのが、当時HAL研究所の社長であり、敏腕プログラマーとして知られていた岩田さんだったのです。
 その窮地を救ってくれ、長期間一緒に会社で缶詰めになっていた糸井さんと岩田さんは、その後もずっとお互いを信頼しあっていたのです。
 糸井さんが『ほぼ日』をはじめることを最初に相談したのも、岩田さんでした。
 岩田さんは、どんなに忙しいときでも糸井さんの誘いを断ったことはなく、任天堂の社長になってからも、時間をつくって会っていたのだとか。

 ぼくはむかし、コピーライターやクリエイターはABCの3つのタイプに分けられる、と言っていました。
 Aが「野の花タイプ」。これは道端に咲いているちいさな野の花を摘んで、プレゼントしようとする人。
 ふたつめのBが「バラとかすみ草タイプ」。こちらはバラやかすみ草、蘭なんかでつくった高級な花束をプレゼントしようとする人。
 そして最後のCが「お花屋さんタイプ」。すてきな花束をつくってくれるお花屋さんを探して、お店の人に思いを告げて、花束をつくってもらう人。
 自分が誰かに花束を贈るとき、つまりは作品を届けるとき、人はだいたいこの3つに分けられる。ある本で、そんなふうに書いたんですよ。
 このうち、わかりやすくつまらないのはBの「バラとかすみ草タイプ」ですよね。これはもう、花束ではなく、通貨を贈っているようなものですから。「こんなに高級な花を、こんなにたくさん」という数量で価値を測っている。
 でも、ほんとうにやっかいなのはAの「野の花タイプ」なんです。これは「真心さえこもっていればいい」と考える人の、ずうずうしい発想。「これだけピュアなわたしの気持ちを、拒否するはずがない」という、きわめて押しつけがましいクリエイティブなんですね。
 それでぼくが大切にしていたのが、Cの「お花屋さんタイプ」であること。広告は自分ひとりでできるものじゃないから、しかるべき人を探して、正面からお話して、一緒にいちばんいいものをつくろうとする。「野の花」の真心を押しつけるでもなく、お金や権威に頼った「バラとかすみ草」で解決するのでもなく。
 これはいまでも大事にしている考え方なんだけれど、岩田さんのお墓参りをするときだけは、違うんです。いつも「庭の花」を摘んで持っていくんです。
 岩田さんが何度も遊びに来てくれた京都の家の、岩田さんと一緒に眺めた庭の、それぞれの季節に咲いたなんでもない花を。


 糸井さんは、岩田さんのお墓の前で、「ずっと岩田さんとおしゃべりをしている」そうです。
 糸井さんは、この文章のなかに、岩田さんへの自分の気持ちを直接書いているわけではない。
 でも、これほど伝わってくる言葉は、そんなに無いのではなかろうか。


 巻末で、糸井さんは「いい正直になれました」と仰っているのだけれど、まさにそうなんだと思います。
 人は「正直」であろうとして、かえってウケ狙いや露悪的な言動にはしってしまうことが多いんですよね。自分自身のことを振り返っても、そういう傾向がある。
 でも、この本での糸井さんの言葉には「まっすぐに、いま、語りたいことを語っている」ような清々しさがあるのです。けっして、美しい話だけではないのだけれど。


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