琥珀色の戯言

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【読書感想】斗南藩―「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
二十八万石を誇った会津藩戊辰戦争に敗れ、明治二年、青森県下北半島や三戸を中心とする地に転封を命ぜられる。実収七千石の荒野に藩士とその家族一万七千人が流れこんだため、たちまち飢餓に陥り、斃れていった。疫病の流行、住民との軋轢、新政府への不満と反乱…。凄絶な苦難をへて、ある者は教師となって青森県の教育に貢献し、また、近代的な牧場を開いて荒野を沃土に変えた。知られざるもうひとつの明治維新史。


 いまだに、会津の人たちは、長州(山口県)や薩摩(鹿児島県)の人たちに対して、わだかまりを抱いている、なんて話をきいて、「明治維新って、もう150年も前のことなのに、自分自身が体験したわけでもないことで、そこまで根に持てるものなのか?」とか、僕は思っていました。
 でも、この本を読んで、実感したのです。
 自分が実際に受けた仕打ちではないとしても、先祖がこんな目に遭わされたら、そりゃ恨むのも理解できる。
 そもそも、「見せしめ的な処遇」でもあったんですよね。
 とはいえ、これはあまりにもひどすぎないか。
 ソ連の「シベリア送り」みたいなことを、明治維新後の新政府は、会津の人々に対して行っていたのです。

 斗南藩とは戊辰戦争後、朝敵の汚名をこうむった会津藩の人々が、現在の青森県下北半島を中心とする旧南部藩の地に流罪として移住し、作り上げた藩の名前である。しかし廃藩置県で、すぐに弘前藩(のちに青森県)に合併されたので、斗南藩はわずかに一年半しか存在せず、知名度は低かった。
 斗南での生活は人並みの暮らしからは、ほど遠いものだった。老人や子どもは飢えと病でバタバタと命を失い、日々の暮らしは監獄と同じだった。


 会津の人たちに斗南藩として与えられたのは、この地域のなかでもとくに荒れ果てていて、気候は厳しく、生産性に乏しいところでした。
 そこに、明治維新で「負け組」となった多くの旧会津藩士たちが、移住を強制されたのです。

 斗南の会津人は、空腹を満たすためには、なんでも食べた。老若男女を問わず、手が空いた者は野山に入って蕗や蔦の根を掘って澱粉をとったり、山牛蒡、山椒、ウコギ、アカザ、ゼンマイ、アザミ、アサツキ、ヨモギなどはもちろん、オオバコに至るまで、ありとあらゆる山のものをとった。
 山菜ばかりではない移住者たちは、競って海藻をとり稗や粟飯に煮込んで食べた。
 日々、山菜とりに明け暮れたる会津の人々を見て地元の人々は、「会津のゲダカ」とさげすんだ。「ゲダカ」というのは、下北半島の方言で、毛虫のことである。地元の人々の見る目は厳しかった。端的に言えば、食糧不足のおり、会津人の移住はありがた迷惑だった。
 移住者のなかからは、病人や死者が続出した。
 斗南藩から大蔵省に提出した明治四年(1871)五月十日付の文書のなかに「死者埋葬料」に関する次の書類があった(『青森県史』第八巻)。

 斗南貫属之儀、近来老若男女、胃のなかに蟲を生じ、日を追って死者の数が多くなっているという趣、申出候に付、時候或は風土の然らしむにもこれあるべきやと医師ともに相尋ね候処、土着の者にはその病気は絶てこれなく、まったく平素の食物が悪く、胃中消化せざるの由ということだった。所詮は、衣食住が十分でなく、わずかの貯蓄もなく皇国中、もっとも不幸な民である。


「皇国中、もっとも不幸な民である」か……
 著者は、さまざまな資料から、これは誇張ではないと述べています。
 そもそも、明治政府としては、「会津憎し」で見せしめとしてこの地域に移住させたのですから、そこでの暮らしがラクなはずもなく。
 斗南藩の人々は、「いつか薩長に復讐してやる」と誓いながら、ここでの生活に耐えていたのです。


 歴史のあやというか、皮肉なことに、この新政府が「廃藩置県」を行ったことで、斗南藩の人々は移住の自由をえて、救われることになりました。

 こうして斗南藩はわずか一年半で終焉した。
 廃藩置県の直後、青森県知事が大蔵省に提出した書類は衝撃だった。そこには、「旧斗南藩士一万三千二十七人のうち三千三百人は各所出稼、あるいは離散、老年ならびに廃疾の者六千二十七人、幼年の者千六百二十二人、男子壮健の者二千三百七十八人」という惨憺たる数字が示されていた。
 当初、斗南に移住した会津人は一万数千人である。二年の間に一万三千人に減り、そのなかからさらに三千人が出稼ぎで姿を消したことになる。その結果、全体で一万人に減り、しかも六千人が病人または老人という驚くべき数字であった。


 むしろ、一年半で終わってよかった……とさえ思われます。
 そう簡単に開拓できるような地域ではなく、斗南藩が長く続けば、さらに犠牲者が増えたでしょうから。
 それでもこの地域に残って開拓や新しい産業を起こそうとした者もいれば、東京に出て教育関係や新政府軍の仕事に就いた者もいました。
 中には、反政府運動に身を投じたり、北海道に移住した者もいたのです。
 この本を読むと、会津から斗南藩に移された人々は、のちに教育界で大きな役割を果たしたり、産業の新興に貢献したりと、おおいに活躍しているんですよね。


 なかでも、下北に残った広沢安任さんは、以前から南部藩が日本有数の馬産地だったことに目をつけ、必死に働いて牧畜事業を軌道に乗せました。
 広沢さんの生涯と一族の事業を追っていくと、会津の人々の意地が伝わってきます。


 著者は、「私見として」以下のように述べています。

 2018年の明治百五十年にあたっては鹿児島、山口、佐賀、高知の四県は多彩なイベントをスタートさせた。そもそも明治維新百五十年の行事は安倍総理の呼びかけで、平成の薩長土肥連盟が誕生したことに始まる。安倍総理は日本の近代化に薩摩、長州、土佐、佐賀の四藩が大きく貢献したとして、鹿児島、山口、高知、佐賀の四県知事に積極的な顕彰を求めた。
 これに対して、薩長土肥戊辰戦争で戦った越後や奥羽の人々には、明治維新というよりは、戊辰戦争百五十年というとらえ方をする人が圧倒的に多い。ことに戊辰戦争で最大の攻防戦を演じた会津の人々にとっては、明治維新ではなく戊辰戦争百五十年であり。
 攻め込んだ明治新政府軍はいたるところで略奪暴行を繰り広げ、「敵は官軍にあらず、姦賊である」と会津の猛将佐川官兵衛は恭順を拒んだ。そのしこりは今日もなお強く残っており、薩長土肥と同じテーブルで、論じ合うことを拒む気風も存在する。
 それに拍車をかけたのが、斗南藩への移封だった。生活もおぼつかない旧南部藩の地に強制移住させられた旧斗南藩の末裔と、薩長土肥の関係者が一堂に会して、明治維新百五十年を論じることはまずありえないに違いない。明治維新百五十年で、双方が和解すると考えるほど歴史認識は甘くはない。
 ここで明確になったことは意識の上で日本列島が東西二つで分断されていることである。
 明治維新百五十年にせよ戊辰戦争百五十年にせよ、列島分断の行事が進行している。政治家たちはこの問題に関してあまりにも鈍感である。明治新政府の東北蔑視策が歴然としているにもかかわらず、それも訂正する動きがない。


 正直、今、山口や鹿児島で生きている人たちに「お前たちの先祖がやったことを謝れ!」と言っても、「何を謝れというんだ……」というのが実感ではないでしょうか。直接の加害者ではないわけだし。
 でも、やられた側からすれば、やっぱり、わだかまりというのは、消せるものではない。
 東日本大震災の際に「東北でよかった」と発言した議員がいて問題になりましたが、少なくとも、同じことが東京で起こったら、「東京でよかった」と言う人はいないでしょう。
 もちろん、人口とか政治や産業の中枢である、という観点からいえば「東京じゃなくてよかった」という内心はあるとしても、「東北でよかった」という言葉を口にするのは、あまりにも酷すぎる。
 戦争というのは、加害者は忘れてしまっても、被害者はずっと覚えている。
 そういうことも、あらためて思い知らされた気がします。


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