琥珀色の戯言

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【読書感想】バッシング論 ☆☆☆

バッシング論 (新潮新書)

バッシング論 (新潮新書)


Kindle版もあります。

バッシング論(新潮新書)

バッシング論(新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
人間社会を善悪で二分したがる知識人、右も左も議論の底が抜け落ちた言論空間、異論を排除するだけの飽くなき他者否定、情報化社会への適応を叫ぶ教育論議―いったいなぜ、日本人はこれほど余裕を失ってしまったのか。くり返されるバッシングに浮かびあがる社会の構造変化をとらえ、異様なまでに「マジメ」な人たちであふれた「美しい国」の病根をえぐりだす。


 著者は日本大学危機管理学部教授で、専門は日本思想史だそうです。途中で西郷隆盛のことが延々と語られていることもあり、歴史に興味がある人のほうが、面白く読めるのではないかと思います。

 つまり今、わが国は異様なまでに本気な人、「マジメ」な人間たちで溢れている可能性が大きい。世間を敵と味方、善と悪(もちろん自分は善の側にいる)、勝利と敗北に二分し、相手を罵倒し、排除しようとする。そう思って眺めてみると、平成も終わりの日本を駆けめぐる情報は、とても「マジメ」で「美しい」日本を目指そうとするものばかりです。
 健康食品が氾濫し、体内から異物を排除し純化しようとする態度それ自体が、どこか不健全で潔癖症気味です(「健康のためなら死んでもいい」という冗談もあります)。禁煙ファシズムという言葉が流行したのは、もうだいぶ前のことです。マスクをつける人が都会に溢れている様は、やはりどこかおかしいのであって、社会や肉体から違和を排除し、身体から国家にいたるまで、今、この国は「美しく」なることに、とてつもない努力を傾けています。
 改めて平成の最終盤、日本にはこの種の善意が溢れているように思えてなりません。安倍首相が目指したのは、そういえば「美しい日本」でした。先に挙げた健康食品だけではありません。さらに天皇家もまた、余りにも清潔であることを、美しい家族像を国民から期待されている。トランプ米大統領は、少しでも意見がちがうと、一方的に罵声と威嚇をネット上に書き込んで、就任以来、次々と幹部を辞めさせる。その影響からでしょうか、日本国内の知識人も、親米・反米で意見を二極分裂させているし、新聞は、首相への否定、肯定できれいに日本を色分けしている――。
 どうしてこういう社会になってしまったのか。謝罪と反省に明け暮れ、異様に「美しい」社会をつくろうとしているのか。敵をつくりバッシングばかりしているのか。
 あらかじめ、結論をいいます。それは現在の日本社会から「辞書的基底」が失われているから、というのが筆者のだした結論です。この用語については、追々、本文のなかで説明していきます。このキーワードをもとに、日本社会で起きている複数の現象を斬ってみようというのが、本書の目論見です。


 いまの日本の社会は「敵か味方か」あるいは「正義か悪か」という二極化があらゆるところで進んでしまって、人々に余裕がなくなっている、というのは僕も感じます。
 政治の世界などは、きれいごとばかりでは済まない面は確実にあり、「清濁併せ呑む」政治家も必要なはずです。
 世の中って、誰かを幸せにするために、誰かが割を食うことは少なからずあって、それでも、「最大多数の最大幸福」のために、やらなければならないこともある。


 この本のキーワードである「辞書的基底」という言葉について、著者はこう述べています。

 日本人が直面しているのは、こうした情報の渦に巻き込まれた現代社会です。結果、次のような三つの人間像が浮かび上がります。
 第一に、欲望を無限に喚起され「つづける」存在であること。人間とは、モノを買う生き物であって、消費するのをやめた途端、経済成長はストップしてしまい、社会は瓦解する。だから購買意欲を絶やさぬよう、中毒性の強い刺激を受けつづけなければならない。
 よって第二に、現代社会を生きるには、つねに「新しい」ことが最もよいという価値基準を持つようになること。なぜなら、手元にモノを持っているにもかかわらず、次の商品に手を伸ばしたくなる最終根拠は、「新しい」こと以外にはないからです。
 そして新しさとは、次々に移ろいゆく価値観である以上――たとえば、旧モデルという理由で、一年前の商品が格安で売られている光景にであったことがあるでしょう――確固とした価値基準を失った時代を生きていかざるをえない。経済成長に駆り立てられた現代社会とは、つねに新しい商品を追いかけ、買いつづけている社会に他ならない、精神の安定性を欠いた社会なのです。
 しかも第三に、「消費者」と一括される一人ひとりは、情報に「直接」身を晒して生きている。子供にスマートフォンを持たせることに批判的な意見がしばしばあるのは、不特定かつ大量の情報に、善悪の判断基準が未成熟な子供たちが直接触れることへの直感的な嫌悪があるからにちがいありません。
 しかし今や、われわれ大人こそが”未成年”ではないのか。「新しい」という、本来なら基準ならぬ基準だけを握りしめ、大量の情報と商品の渦に巻き込まれている。そんな人間が、20歳を過ぎたという理由だけで名実ともに成人できているとは思えない。現代社会とは善悪の判断基準がない。固定化できない社会であり、唯一あるのは新規性こそ絶対善だという考え方なのです。
 こうした社会を、筆者は「辞書的基底を喪失した社会」と定義したいと思います。


 正直、わかるような、わからないような……という感じなんですよ。
 そもそも、「(確固たる)善悪の判断基準が存在した社会」「新しいものに価値を見いださない世の中」というのは、宗教が力を持っていた時代の話ではないのか、と。
 

 つまり現代の日本人は、情報によって辞書的基底を奪われ、その場その場の状況に過剰に合わせながら生きている。政府自身がそれを認め、助長し、適応すれば経済成長が可能になるのだと叫んでいる。そして文科省は、教育分野で政府の期待に応じるべく、人文社会科学系学部の統廃合を目指す――このような流れになるわけです。
 辞書的基底のない社会では、どこまでいっても、精神の安定を得られない人間が溢れます。新しさを追求することを唯一の基準に生きる限り、古いことはそれだけで価値を喪失する。「古臭い」と言われることを何より恐れ、商品の濁流に翻弄され、消費すること、すなわち「自分」であることを強いられる。
 しかし、この「自分」は転変止むことなき自己像の動揺しかもたらさないのではないですか。「自分」という存在を何度辞書で引いてみても、無限に新しい意味を書き込まねばならないからです。


 常に情報が更新されつづける世界のなかで、何を自分の物差しにしていいのか、わからなくなっている、というのは、僕にも実感できるのです。
 その一方で、一度こういう世界がはじまってしまったら、「情報の更新をストップする」ということは、ものすごく難しいだろうとも感じます。
 「情報」というのは、プレッシャーでもあり、快楽でもある。
「辞書的基底」なんていうものが成り立たない時代である、ということそのものが「現代」ではなかろうか。
 もし、現代社会で、「辞書的基底」を実現しようとするならば、宗教国家か、秘密警察が暗躍していた時代のソ連になってしまう。
 いやそんな厳密なものではなくて、もっとゆるやかな「空気」みたいなものを著者が想定しているのはわかるのですけどね。
 なんでも「役に立つかどうか」とか、「生産性」で価値判断をしようという、身も蓋もない正しさを振りかざす人に対しては、僕も「なんだかイヤだなあ」と思います。
 しかしながら、そこで「なんだかイヤ、とかいう曖昧な態度ではなくて、反対なら対案を出せ!」とか言ってしまう、とにかく「論破」する(というか、「相手を困らせ、沈黙させる」)ことに価値を見いだす人が増えてきているのです。
 人間って、そんなに単純だったり、正しかったりするものじゃないのに(著者も、それを繰り返し述べています)。


 僕には3割くらいしか読み取れていない気がする本ではありますが、著者の視点には頷けるところが多いのと同時に、「辞書的基底」なんてものが無い時代は、それに慣れている人間には、けっして不幸ではない、とも思うのです。
 なんでも敵と味方に分けずにはいられない発想の怖さは、よくわかるのだけれども。


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