琥珀色の戯言

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【読書感想】現代に生きるファシズム ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
資本主義が崩壊し格差の広がった現代。各国指導者は再びファシズムに手を染めようとしている。それはバラバラになった個人を束ねる劇薬だ。効能バツグン、だからあぶない。しかし、日本人はあまりに無防備だ。多くがファシズムを独裁や全体主義と混同している。元外務省主任分析官・佐藤優と『未完のファシズム』著者・片山杜秀による白熱対談。「知」を武装し、来たるべき時代を正しく恐れよ!


 「ファシズム」というと、僕はすぐにヒトラーナチスによるユダヤ人虐殺を思い出します。
 「ファシズム」=有無を言わせず、人々を指導者の命令に従わせる独裁体制で、反対者は徹底的に弾圧する、そんなイメージがあるのです。
 「ファシズム」=「悪」だし、怖い。
 
 ところが、この佐藤優さんと片山杜秀さんの「ファシズム」に関する対談を読んでみると、ヒトラーナチスのイメージがあまりにも強烈すぎて、「ファシズム」は誤解されている、あるいは、その悪しき面ばかりがクローズアップされているようなのです。

 佐藤優さんは、この本の「まえがき」で、

 世界をファシズムという妖怪が徘徊している。アメリカのトランプ大統領もロシアのプーチン大統領も中国の習近平国家主席もこの妖怪に取り憑かれている。わが日本の安倍晋三首相にもこの妖怪が取り憑き始めている。

 と仰っています。

 資本主義体制で、格差があまりにも大きくなってしまうと、底辺から自力で這い上がることが困難な社会になってしまいます。
 佐藤さんは、その状況を抜本的に転換する思想と運動の代表格として、「共産主義」と「ファシズム」が有効だと考えているのです。
 しかしながら、共産主義は、現状の世界においては、きわめて劣勢になっています。

 一方、国家の介入によって、資本家が蓄積した富を再分配させ、労働者にストライキ権を認めず、生産性向上を志向するファシズムは、21世紀の現在も生命力を失っていない。ここで注意しなければならないのはイタリア型ファシズムとドイツのナチズム(民族社会主義)を区別することだ。ナチズムもファシズムの一類型だ。しかし、それはゲルマン民族を中心とするアーリア人種の優越性という根拠のない神話に基づいていた。さらに「血と土」というドイツの土着の信仰が加わった。ナチズムは荒唐無稽なイデオロギーなので、ドイツ人が居住するドイツ、オーストリアチェコズデーテン地方以外には伝播力を持たなかった。
 それに対して、イタリア型ファシズムは、国家介入によって資本家の利潤を社会的弱者に再分配し、戦争によって外国を侵略し、そこから収奪した富で自国民を豊かにするという民族や文化にとらわれない普遍的な社会理論の性格を帯びている。日本のリベラル派は、国家介入によって富裕層から税をより多く取り立て、社会的再分配を実現することを主張するトマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房)を礼賛したが、この主張はファシズムとの親和性が高い。主流派経済学の教科書では、厚生経済学の分野で「パレート最適」についての説明がなされている。ローザンヌ学派(スイス)のヴィルフレド・パレートが提唱した理論だが、パレートはイタリア人でムッソリーニの経済政策に強い影響を与えた。第二次世界大戦前、パレートはファシズムの経済学者と認識されていた。それが現在では、福祉国家の理論家であると評価されているのである。ファシズム福祉国家の間にも親和性があるのだ。


 いまの世界で、ナチズムの再現を支持する人は少ないはずです。共産主義国家も、結局、うまくいきませんでした。
 共産主義については、理論が間違っていたのか、人間に運用できるようなシステムではなかったのか、わからないところはありますが。
 

佐藤優しかし現代の日本では、ファシズムという言葉に手あかがついてしまって、ほぼ無定義に使われてしまっていますね。
 ヒトラーのナチズムだけでなく、民族主義や純血主義、全体主義ナショナリズム、独裁などとも混同されてしまっている。あるいは、ファシズム自由主義共産主義と対立する極右の国家主義的な政治形態と考えている人もいる。
 ムッソリーニが目指したファシズムは、国家の介入によって国民を統合し、資本主義が生み出す貧困や失業、格差などの社会問題を解決していこうとする政治体制です。国が主導して貧困や格差などの社会問題を解決していくわけだから、イメージは福祉国家に近い。


片山杜秀つまりファシズムは、資本主義の矛盾を解決し、超克しようとする超資本主義の装いを取って、イタリアでは現れてきたわけですね。資本主義の個人的利得追求の姿勢では経済や社会がうまく行かなくなると、細木が一本一本勝手をやっていがみあっていてはいかんじゃないか、私益でなく公益だという話が力を持つ。その手を効果的に使ったのがムッソリーニである。もちろん資本主義でうまく行かないなら、社会主義だという理屈もあるわけだけれども、ファシズムは資本主義に抗するところは抗するが、社会主義にも抗するところは抗する。


 イタリアのムッソリーニは、「ヒトラーの盟友」として、「同じ穴の狢」というイメージがあるのですが、ムッソリーニの政策そのものはイタリアで支持されており、ヒトラーの戦争に相乗りしなければ、もっと長く続いたのではないか、という話も出てきます。
 お二人の説明を読むと、今の日本やアメリカのような「資本主義が先鋭化して、格差が大きくなっているにもかかわらず、再分配のシステムが不十分な社会」では、国が強い力で人々を「公益」に従わせる、というのは、有効な手段であるように思われます。
 「福祉国家」を実現するためには、「良心的な独裁者」が存在することが、いちばんの近道でもあるんですよね。僕はこれを読みながら、シンガポールリー・クアンユーさんのことを考えていました(いまのシンガポールが「福祉国家」なのかは、異論がある人も多いでしょうけど)。

 ただ、「公益第一」という考え方は、突き詰めると、「国のために死ぬのが当たり前」になってしまう可能性もあるのです。
 かつての日本が、そうであったように。

佐藤優いまの日本でファシズムを考えるうえで注目しなければならないのはそこ――安倍政権後の政治なんです。ファシズムの危険性を内包しているのは、安倍政権だけじゃない。
 一連の官僚の不祥事やモリカケ問題で、リベラル派の辻元清美立憲民主党)あたりが安倍政権を「膿の親」と非難したでしょう。不祥事を膿というたとえを使って、安倍政権を汚い存在、不浄な政権と見なしている。美醜二分法で批判するリベラル派は、実は、美と判断基準に置く日本型ファシズムと親和性が高い。


片山:美しい国が膿で汚れてしまうという発想になるんですよね。


佐藤:そうなんです。レーニンなら、ブルジョワ官僚が不祥事を犯したとしても、多額の税金を費やして養成したテクノクラートなんだからっ国家運営のためにとことん利用しつくせ、と考えたはずです。


片山:日本人は官僚に対して、そういう発想はしない。


佐藤:辻元清美あたりは、1930年代の雰囲気を作り出そうとしているようにも見える。リベラル派も清潔な政治を求めて、汚れを排除する論理でファシズムへの道備えをしているのかもしれない。立憲民主党もその危うさを内在している。漫画家の小林よしのり立憲民主党を応援していますが、彼の美的センスに合うんだと思います。


片山:民主的な政権を求めて安倍政権を否定したのに、新政権もファシズム的な傾向が強かったなんて、笑えない話になる可能性は十分にありますね。


佐藤:そう思います。いまリベラル派にとっての清浄な存在って、お堀のなかでしょう。


片山:天皇を巡るリベラル派と保守派のあり方に反転現象が起きているわけですね。
 かつては左翼の人々は、天皇が民衆と触れあうと「天皇制を維持するためのパフォーマンスだ。象徴なんだから大人しくしておけ」と批判した。でもいまどき天皇制を廃して共和制に移行すると訴えてもリアリティがありません。野党は政権と対立する天皇を担ぎはじめた。まさに天皇に相乗りしている状況です。


佐藤:戦後民主主義を尊ぶ今上天皇の意思に反する逆賊安倍という構図ですね。
 こう見ていくと第二官僚を重用する安倍政権は官僚制と馴染みがあるイタリアファシズムに近い。一方、日本人の潔さや武士道精神といった日本人的美意識に基づいたファシズムと相性がいいのがリベラル派。いま国民はどっちのファシズムがいいのかの選択を迫られているのかもしれません。


 この「天皇を巡る保守派とリベラル派の反転現象」というのは、あらためて指摘されてみると、その通りだなあ、と苦笑してしまいます。
 僕が子どもの頃、昭和の時代は、「天皇制そのもの(あるいは、天皇の政治利用)に反対しているのがリベラル」というイメージだったんですよ。
 ところが、平成の30年間で、「政権に対してチクチクと不快感を示す天皇陛下」を政権側がもてあましている一方で、「天皇制そのものに疑義を呈してきた」はずのリベラル派のほうが「陛下のお気持ち」を錦の御旗に、政権側を責めるようになりました。
 結局のところ、組織というのは、イデオロギーというより、現実的な損得で動いている、ということなのかもしれませんね。
 いまの日本の状況を「救う」ことができるとしたら、イタリア的な「ファシズム」しかないのだろうか。そもそも、日本は救われるべきなのだろうか。


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愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫)

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