琥珀色の戯言

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【読書感想】本をどう読むか: 幸せになる読書術 ☆☆☆

(166)本をどう読むか: 幸せになる読書術 (ポプラ新書)

(166)本をどう読むか: 幸せになる読書術 (ポプラ新書)


Kindle版もあります。

本をどう読むか 幸せになる読書術 (ポプラ新書)

本をどう読むか 幸せになる読書術 (ポプラ新書)

内容紹介
読書には、人を救い幸福にする力がある

「本を読むことで間違いなく幸せな人生を送ってこられた」
「読書は何にも代えがたい人生の喜び、楽しみである」

大ベストセラー『嫌われる勇気』の著者が「読書」と「生きること」について考えた初の読書論。

哲学書、小説、外国語の原書からアウトプット法、アドラー心理学まで。「本」との関わり方、「人生」との向き合い方が変わる、著者渾身の書き下ろし。現代の哲学者にしか語れない、人生を幸福にする、本の読み方、選び方。


 あの『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎さんの読書術。
 というか、タイトルには「読書術」とあるのですが、実際の内容は、岸見さんがどんな本をどう読んできたか、というのを丁寧に語っておられるものです。
 岸見さんは、天性の本好きであり、本が嫌いな人がこれを読んで本を好きになる、とは思えないんですよ。
 でも、僕のような「本好き(のつもりの人間)」が読むと、「ああ、こういう本の読み方があるのか」とか、「自分はただ、他人に自慢するための読書をしていたのではないか?」というようなことを考えさせられるのです。

 本を読むことは自分の生き方と離して考えることはできません。人がどのように本を読んでいるかを見れば、その人がどんな生き方をしているかがわかるといってもいいくらいです。
 ここで「どんな」本を読んでいるかではなく「どのように」本を読んでいるかを見ればその人の生き方がわかると書いたのは、何を読んでいるかは人の生き方とはあまり関係ないからです。
 なぜなら、本当に本を読むのが好きな人であれば、どんな本でも読みますし、乱読するからです。その中には「いい本」もあればそうでない本もあるかもしれませんが、そのようなことがわかるためには、誰かに薦められてではなく、自分で選んで本を読むという経験を重ねていかなければなりません。
 本を読んでいるうちに、どんな本が面白いとか、読むに値するとか、あるいは、反対につまらないとか、時間をかけて読むに値しないというようなことが少しずつわかってきます。「どのように」本を読めばこのようなことがわかるようになったかという話を聞けば、その人がどんな生き方をしてきたかがわかります。
 もし自分で本を読んでどんな本を読めばいいかということを知ろうとするのではなく、いつも人から本を薦められるのではなく、いつも人から本を薦められてばかりの人がいれば、その人の生き方もまたそのようである、つまり人に依存して生きているということができます。


 正直、そこまで言い切ってよいのか、とも思うのですが、「本が好きな人は、結局、どんな本でも読むし、乱読している」というのは、僕にもわかるような気がします。というか、本がないと落ち着かないんですよね。
 「人に薦められる本ばかり読んでいる」というのは、思い当たる節があるのですが、「まったくフラットな本選び」というのはなかなか難しいのも事実だと思います。大きな書店でも、書棚の配列とかディスプレイには書店員さんの影響があるし、Amazonでも「おすすめ機能」や「ランキング」がありますし。
 それでも、「自分が読む本は、自分で選ぶ(選びたい)」という意思は僕にもあるのです。
 

 著者は、外国語の勉強について、こう述べています。

 アドラーは「不完全である勇気」という言葉を使っています。ここでいう「不完全」は、人格についてではありません。新たに手がけたことについての知識や技術についての「不完全」です。
 その不完全は、最初からできないと決めてかかって挑戦しない人には思いもよらないことでしょうが、かなりの程度、完全に近づけることができます。
 欧米の言語は私は若い頃から学んできたので、本を読むことができますし、初歩的な間違いをすることはあまりありませんが、初めて学ぶ韓国語の場合はなかなか上達しません。韓国語の知識が足りないからでも、考える力が足りないからでもない、もう一つの理由があります。学び初めの頃は間違えても当然なのに、その事実を受け入れたくはないからなのです。
 大学で古代ギリシア語を教えていた時、一人の学生が、練習問題にあるギリシア語を訳そうとはしないで、黙り込んでしまったことがありました。私はその学生に「なぜ今答えなかったのかわかっていますか」とたずねたところ、学生はこんなふうに答えました。
「この問題を間違って、先生にできない学生だと思われたくなかった」と。
 近代語とは違ってギリシア語は難しいので間違っても当然なので、この答えを聞いて私は驚きましたが、韓国語を学び始めた私も同じことを考えていたのです。
 最初は間違えても、間違いを繰り返す中で少しずつ知識を身につけ、力をつけていくしかありません。教師の立場からいえば、学生が答えて間違ったら、そこが学生がまだ理解できていないことだとわかりますし、教師の教え方がよくないのかもしれません。学生が答えなければ知りようがないのです。
 そこで、私は「間違っても、あなたをできない学生だとは決して思わない」と約束しました。
 すると、その学生は次回から間違いを恐れずに答えるようになり、それに伴って力もついていきました。
 歳を重ねてから新しいことに挑戦する時に困難を感じるとすれば、例えば語学の習得なら、記憶力が減退したからではありません。何もできない自分を認めたくはないからです。


 ああ、これはわかる。というか、努力嫌いのわりに、プライドだけはそれなりに高い僕には、わかりすぎる話だ……
 僕は教える側、教えられる側、どちらの経験もあるのですが、教える側からすると、「わからないなら、わからないと言ってくれれば、こちらにもやりようがある」のですよね。人は、他人に対しては「察してくれる」ことを期待しがちです。自分自身が「言われなければわからなかった」経験をたくさんしている場合でも。
 こういうのって、「当たり前のこと」なのだけれど、言葉にして確認することが、大事なのだと思います。
 

 この本のなかに、なんというか、本とそれを必要とする人間のつながりの深淵、みたいなものを感じさせる、こんな話がありました。

 京都大学の文学部には膨大な蔵書がありました。「本は元の場所に戻してください。さもなければ永遠に発見されなくなります」という紙が貼ってあったのを覚えています。数十万冊(もっと多かったのかもしれません)の蔵書があれば、そういうこともあるだろうと思いました。自分の部屋にある本でさえ行方不明になるのですから。
 書庫の中にいると時の経つのを忘れてしまいました。驚いたのは、どの本も、必ず読んだ跡があったことでした。購入したまま一度も開かれない本はなかったのです。栞に使った葉書が挟まった本を見つけたことがあります。それに古い消印が押してありました。その葉書を書いた人は今も存命なのだろうか、学徒動員で戦争に駆り出されたのではないかと想像したものです。

 これだけの蔵書を管理してきた人がいて、どんな本にでも、最低ひとりは必要としている人がいる。その人がいなくなっても、書いた人、読んだ人の痕跡は残る。
 こういうのは、電子書籍の時代には、なくなってしまうのだな、と思うと、少し寂しくなるのです。


嫌われる勇気

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成功ではなく、幸福について語ろう (幻冬舎単行本)

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