- 作者:田中 優介
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2019/12/13
- メディア: 新書
Kindle版もあります。
内容(「BOOK」データベースより)
「また怒らせてしまった」「信用を失った」「苦手意識が抜けない」―人間関係には数多くの地雷がある。恐ろしいのは、現代社会の地雷は増殖し、動き回る性質も持つことだ。それを避けるための相手との距離の取り方、意見や反論の仕方とは。最悪の事態を避けるための「良い謝罪」とは。警察、弁護士との正しい接し方は。巨大企業から芸能人まで実際の事件の分析も交えながら、危機管理のコンサルタントが突破術を指南する。
「危機管理コンサルティング会社」の社長である著者が、個人レベルでトラブルを避ける、トラブルの際にうまくリカバリーするためのマニュアルとして書いた新書です。
著者は、年々、危機管理が難しくなってきたと述べており、その理由として、人間関係での「地雷」は、場所を移動したり、勝手に増殖したりするとしているのです。
見えにくい罪には二種類あります。「悪意無き罪」と「変化する罪」です。
人は悪意を持って犯した罪に、気付かないことはありません。しかし、よかれと思ってした行為が結果的に罪になった場合は、気付かないことがあります。同様に、人は自分が被害を受けた時、自分の犯した罪に気付かないことがあります。被害のほうに目を奪われてしまうからです。弊社では、これらを「悪意無き罪」と呼んで、企業の方々に警鐘を鳴らしています。
たとえばあなたの会社が、被災地の支援のために避難所に食べ物を送ったとします。それが賞味期限の短い食品で、輸送や配布に時間がかかったために届いた時には期限を越えてしまっていた。すると「被災者を馬鹿にしているのか」という声が届くことになります。その声を、あなたは素直に受け入れて、謝罪することができるでしょうか?
こんな実例もあります。大手の自動車メーカーが、車に最新式のブレーキを装着した時のことでした。発電機能を持つ高価なブレーキなので、悪いことをしたという認識はありません。そのために、ブレーキの効きが悪いというクレームに対して、会見の席で「(運転者の)フィーリングの問題だ」と反論したために炎上。しかし、結局は設定に問題があったことが判明し、リコールを実施したのです。
顧客リストの漏洩でも、罪の認識が不十分な企業の対応が、数多く報道されました。最初は2000年の初頭のことでした。大手IT企業が顧客情報を持ち出され、金銭を要求されるという事件が発覚。同社は会見を開きましたが、その言動が被害者という姿勢だったために、マスコミから厳しく批判されたのです。確かに恐喝の被害者ではありますが、顧客から見れば杜撰な管理をしていた加害者だからです。
実際、「善意でやったこと」や「こちらも被害者なのに……という状況」では、謝罪するといっても、心をこめるのはなかなか難しいし、つい、言い訳をしてしまいたくなりますよね。一例目の被災者への支援の場合など、「それでこんなに叩かれるのなら、何もしないほうがマシだった」と思うのではないでしょうか。
「善意で何かを行う」のも、注意が必要な時代なのです。他者の何らかの落ち度を見つけて叩きたい人、というのも、少なからずいるから。
「悪意無き罪」よりも更に見えにくいのが、「変化する罪」です。セクハラの基準がどんどん厳しくなっていることはご存知の通りでしょう。
パワハラも同じで、つい最近までは、その概念すらありませんでした。それが今では体罰は言うに及ばず、厳しいお説教でもNGとなってきました。たとえば上司が「君は暗いねぇ。もう少し明るい顔をしなさい」などと発言したら、「人格を否定した」となってアウトです。こちらも、著しく罪の境界線が変化してきています。
日大アメフト部の場合、関係者が昔ながらの体育会系の感覚を持っていて、現代の感覚を導入できていませんでした。変化する罪にあまりに無自覚だったのです。加計学園も同様です。昔と違って、社会は公正・公平に対する欲求が極めて強くなっています。そんな中で、税金が投入されている教育機関が、特定の政治家と親しくするという行為そのものが厳しい見方をされるのです。
「公正・公平に対する欲求が極めて強い社会」というのは、けっして「悪いこと」ではないのです。でも、それが「正しい」だけに、責められる側としては逃げ場がない。とくに、ある程度以上の年齢の人にとっては、長年、「親しみを示すつもりの行為」「相手を発奮させるための言葉」だったものが、今では「ハラスメント」になっているのです。
自分を守るためには、つねに、危機管理意識を持ち、情報をアップデートしていくしかありません。
それでも、何かを積極的に発信していこうとすれば、「絶対に炎上しない」というのは難しいのです。
「窮鼠猫を噛む」と言われるように、相手を追い詰め過ぎると、思わぬ反撃を受けて怪我をしてしまいます。あるいは、相手が進退極まって自殺する、なんてことにもなりかねません。すると、いつの間にか、あなたが加害者になってしまう。そんなケースを、企業の危機管理の場面で、幾度も見聞きしてきました。
これは、ある企業に勤めていた独身女性に関する実話です。彼女は上司から、しつこく誘われたり、ボディタッチまでされていました。セクハラを許せなかった彼女は、直接人事部に通報。降格処分だけでは済ませず、退職にまで追い込んでしまいました。その結果、上司は奥さんに見捨てられて離婚します。
その後、母子家庭となり経済的に苦しくなった上司の娘さんは、大学進学を諦める羽目に陥りました。しばらくして、娘さんはうつ病になって、自殺未遂を起こします。その情報は、奥さんも結婚前に同じ会社に勤めていたので、社内にも伝わってしまったのです。
当然ながら、社内では奥さんと娘さんに同情が集まりました。そして、人事部に通報した彼女は、社内で白い目を向けられるようになったのです。「あいつがやり過ぎたから」と陰で囁かれ、会社に居づらくなってしまったのです。結局、もともとは被害者だったはずの彼女も仕事を失うことになりました。
この事案を教訓にして、弊社では必ず、目標を定めて戦うことを推奨しています。セクハラなら次のようなことになります。
・セクハラをやめさせる。
・セクハラをした人物を部署から異動させる。
・セクハラをした人物に降格や減給などの罰を与える。
・セクハラをした人物を退社に追い込む。
・セクハラをした人物から慰謝料を受け取る。
・セクハラ(ワイセツ行為)をした人物を警察に突き出す。
短期的に見れば、セクハラ被害者が重い罰を望みがちになることは理解できます。異動なんかじゃ気が済まない、というのは「現在の感情」としては当然かもしれません。しかし、本当にその感情は来年も、再来年も維持できるのか。周囲の共感を得られるのか。
こういう時に、用心しなければならないのは、利害関係のない「善意の第三者」の無責任な意見です。往々にして、「絶対許してはダメ。甘い顔をしたら会社も本人も反省しない。徹底的にやるべし」といった強硬な意見を言ってくるのですが、トラブルになった際には何の責任も取ってはくれません。
なんというか、すごくモヤモヤする話ではあるのですが、こういうのも「世界の現実」なんですよね。
被害者なのに、「やりすぎ」なんて言われる筋合いはないはずだけれど、世論の風向きというのは、けっこうあっさり変わってしまうことがあるのです。
失言をしたり、問題行動を起こした人を「炎上」させ、徹底的に責めて社会的に抹殺してしまおうとしていたのに、その相手が自殺したら、「まさか死ぬとは思わなかった」「死ぬほどのことでもなかったのに」と手のひらを返す。今度は、その人の罪を責めていた人たちを「無慈悲だ」と断罪する。
徹底的に相手を追い詰めると、かえって、「やりすぎ」と被害者のはずの自分に矛先が向いてくることもあるのです。
どんなに自分が正しくても、逆上した相手に刺されれば死んでしまうかもしれないし。
とても不本意なことではあるけれど、「自分が正しいときほど、相手の逃げ場を完全に塞いでしまうような責め方をしないほうがいい」ことは多いのです。
著者はそう書いてはいませんが、僕自身は、関わるだけ損な相手もいるので、闘うよりも逃げたほうがマシな場合もある、と考えています。本当に悔しいけれど。
謝罪の仕方などについても書かれており、どこで地雷を踏んでしまうかわからないと不安な人は、読んでみると書籍代以上の価値はあると思います。
当たり前のことが書いてあるのだけれど、当たり前のことに気をつけながら生きていくというのは、案外難しいのです。